水野晃樹の海外移籍は失敗だったのか……高校時代からのサッカー人生を振り返る

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回はロアッソ熊本の水野晃樹選手に登場していただきました。ジェフ千葉でオシム監督の薫陶を受け、セルティックへと移籍した経歴はサッカーファンの多くが知るところだと思います。しかし、水野選手の強さは、その後に怪我と戦いながら様々なチームを渡り歩いた後半のキャリアにこそ表れているのかもしれません。貴重な高校時代のエピソードなども交え、自身のサッカー人生を振り返っていただきました。 (大野城・春日のグルメ焼肉

水野晃樹の海外移籍は失敗だったのか……高校時代からのサッカー人生を振り返る

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イビチャ・オシム監督が日本代表を率いていたとき

期待された選手がいた

監督は「ボールと遊ぶ」と批判しながらも選び続けた

中村俊輔が活躍するセルティックに移籍もした

 

だがそこで待っていたのは厳しすぎる競争

帰国を決意したが移籍先には葛藤する

さらにケガが相次ぎ出場機会が減少

チームを渡り歩くことになった

 

だが水野晃樹は明るさを失っていない

いろいろなサッカーに自分を適合させながら

元気にボールを蹴っている

水野のプレーにはサッカーの楽しさが詰まっている

 

セルティックではチーム内の競争に勝てなかった

僕のサッカー人生では、どの時期が辛かったとかないですね。辛くなかったんじゃなくて、ずっとそれぞれのときに何か辛い……辛いって言うか、悩み苦しんでることが続いてて。たとえばセルティックに行ったときも試合になかなか絡めず、結局2年半いて公式戦11試合だけで終わって。

 

で、日本に帰ってきたら前十字靱帯のケガもして。それ以降、もうスタメンでコンスタントに試合に出たという時期がほぼないので。だから本当に辛いとか苦しんだっていうのが、ほぼ継続してて。

 

最初のプロ1年目の2004年から4年目の2007年まで、千葉からセルティックに行く前までの間は割と試合に出られて、ワールドユースのメンバーだったり日本代表にも選ばれて、よかったんですけど。それ以降は……それ以降ですよ。今に至っても。

 

僕自身は、代表に入ったときっていうのは実力っていうより、どちらかというと(イビチャ・)オシムさん(日本代表監督)の練習内容についていける選手、理解できる選手が少ないから、そういうのをわかってる選手っていうので、千葉の選手が多かったのかなって思ってます。自分が代表っていうのには違和感がありました。2007年アジアカップのときとか。

 

やっぱり代表には(中村)俊輔さんがいたりタカ(高原直泰)さんだったりがいて核だったじゃないですか。自分は全然レベルがそこまで達してないのに、一緒にプレーしてるって感じてました。

 

2008年セルティックに行ったときは、「第2の俊輔」みたいな扱いがあって、日本人ということで騒がれました。練習で俊さんと別のチームになったときに、FKとかセットプレーを蹴ってたら、「お前、ナカよりいいボールじゃないか」って褒めてもらったりして。

 

楽しかったしすごいやり甲斐もありました。それに試合に出たときにはちゃんとプレーできるんですよ。ただ、出るまでが難しい。チーム内の競争が。セルティックはレベル高くて、僕が入った年のフォーメーションは4-4-2をやってたんですけど、中盤の4人は全員スコティッシュリーグのMVPを取った選手で。

 

そこに割って入るのは難しかったし、当時のルールで試合のメンバーにU-23か22以下の選手を3人入れなきゃいけないというのがあって、それでベンチに入れるオーバーエイジの人数も少なくなっていくし。

 

デビュー戦はホームゲームだったんですよ。そのときも流れの中からシュートまで持っていったりとか、自分なりには感触があったんです。それ以来、ケガ人が出てた関係でベンチには座るようになって。それで試合に出ればある程度できるから、それはそれで自信になったんですけど、ケガ人が戻ってきたら外されて。

 

楽しくはできてたけどチーム内の競争で勝てなかった。本当にその中盤の4人、すごい選手だと思いましたね。まず俊さんはすごいし。俊さんがいるかいないかでサッカーが全然違ったし。

 

左のエイダン・マクギーディはアイルランド代表で。2010年にはロシアのスパルタク・モスクワに移籍した選手で、オレは一番すげぇなあと思ったんですけど。早さはあったし、一番驚いたのは、右利きなんですけど、左足でもしっかりボールをさらせる(相手が取れそうだと思わせるような位置にボールを置く)ことで。

 

本当は右利きだと、右足でチョンチョン触ってボールをさらして仕掛けるのに、あいつは両足でできる。「うわー、コイツ、すげぇなぁ。コイツ見習いたいな」って。しかもクイックネスもあって、アジリティも高かったんですよ。

 

それからショーン・マロニー、2011年にイングランドのプレミアシップに行って、ウィーガン・アスレチックで10番を背負った選手で、そいつもすごい、小柄なんですけどテクニックがあってキレがあって。

 

残るもう1人がボランチのスコット・ブラウン。当時のセルティックから今も唯一残ってて、ずっとキャプテンをやっているのがいて。ブラウンはヘタクソなんですよ。ただもう、何だろう、闘志溢れるというか、本当に体張って潰し屋ができる。ホントにヘタクソなんだけど、そいつがいたら中盤のボールが全部取れる。そんな選手たちに囲まれてやってました。

 

海外移籍があったから自分を変えられた

 海外のリーグにいると大変ですけど、でも傍から見るより、自分は楽しんでやってました。もちろん試合に出たいという気持ちもあったし、出られなかったから悔しいという気持ちもありましたけど。

 

それ以上に得られるものが多かったし、だからまぁ、身近な人たちにも「移籍したの失敗じゃないか?」って言われましたけど、でも実際海外に行ってみないと、成功するか失敗するかなんてわかんないし、自分のレベルが今どれくらいかって確かめるのは国内じゃできないし。

 

「自分のこれが足りない。でもこれはある程度通用した」というのが明確にわかったというのはありましたね。だから移籍に関して、別に失敗っていうわけじゃなかったという気持ちがありました。

 

それに向こうはサテライトリーグもしっかりあったんで、トップで試合に出られなくても毎週そっちで試合があったし。そういう意味では試合勘ってそんなに変わらなかったと思うんですけど。

 

そのリザーブリーグは基本、若い選手たちの試合なんですけど、その中でもしっかりと引っ張っていこうという意識ができてやってたし。向こう行ってそういう——なんだろう、キャラ的にも自分を変えられたかなっていうのがありましたね。

 

実は2009年ぐらいに千葉のチーム統括本部長だった昼田宗昭さんがセルティックまで来てくれて、「帰って来いよ」みたいなことを言ってくれたんです。けど、そのタイミングが僕にはちょっと早かったですね。「もうちょっとチャレンジしたい」という話をして。

 

そこから1年後ぐらいに、「これはやっぱり試合に出るためには戻ったほうがいいのかな」って、千葉にもう一回話をしたんです。でも、その時点で千葉はもうA契約選手の枠が一杯になってて、断られちゃったんです。

 

ただ、タイミング的にはもう帰らないとサッカー選手として厳しくなってくるという思いがあって。そのときJ1のあるチームとと、J2のレイソルから話が来たんです。レイソルは当時J2でしたけど独走してて、代理人は「もう確実にJ1に上がる。いい選手が揃ってる」って話をしてて。

 

ただ、「じゃあすぐにレイソルに行こう」ってことじゃなくて。やっぱり最初千葉にいましたからね。同じ千葉県内のレイソルに行くっていうのはどうなのかって、難しい移籍だったんです。でもその……もちろん今まですごい情とか、自分の中で千葉っていうのを……うーん……捨ててと言うか離れてまで、レイソルに行っていいのかなっていうのですごい悩んだし。

 

葛藤はありましたけど、でも選手として潰れたくはないという思いがあって。それで、移籍したんです。

 

MRIを撮ったら右膝の前十字靱帯が切れていた

もともとセルティック行ったときに両膝、軟骨除去の手術して。そのときは1カ月半ぐらいで復帰できていて。でもセルティックから帰ってきて、レイソルではなかなかコンディションが上がってなかったんです。

 

ネルシーニョ監督から「お前、コンディションはどれくらいだ?」って聞かれたから「まだ6割ぐらいですね」って答えたら、「試合に出てプレーしないとコンディション整わないから。とりあえず次の試合メンバーに入れるから」って。「はい、わかりました」って準備したんですけど、それが運命的に千葉との試合で。

 

それで84分に出してもらって、それから7、8分かな。相手選手と当たったときに「あれ? 何か膝おかしくなったな」って。伸びなくなったんです。「あれ、おかしいな。でも走れるからいいかな」って思って、で、残り全部出てプレーして。

 

試合のあとドクターに「ちょっと膝おかしいです。ちょっとひねったかな」って聞いたら、「明日、練習試合できる?」って言われて。「いやぁ、ちょっとわかんないですね」って家に帰ったらバーンと腫れちゃって。それが右膝の前十字靱帯のケガでしたね。

 

普通、前十字靱帯傷めたら動けないじゃないですか。でも試合の残り全部やったし、しかもスプリントとかもバンバンやってたから。だから「そこまで大きなケガじゃない」って他の選手もドクターも思ってて。

 

オレも「大丈夫だろう。平気だな」ってぐらいで、腫れたあとにMRI撮りに行ったら、ドクターが「あぁ切れてるね」って。「え?切れてるって?」って聞いたら「前十字靱帯断裂」って。

 

「だってみんな大丈夫って言ってたよ」って言ったら、ドクターは「切れてあそこまで走る選手もなかなかいない」って。プレー続けたから切れたってことでもないと思うんです。もしそうだったらやったとき以上に痛くなってると思うんですけど、それはなかったから。で、結局全治半年。靱帯の再建施術もして。

 

そこから苦しい時期でした。リハビリ長いじゃないですか。しかもチームの練習見えるところでリハビリやるから「なんであそこに立ってないんだ」「あそこに行きてぇ」「なんでこんな地味な練習やってるんだよ」という気持ちがすごいあって。

 

そのときに、キタジ(北嶋秀朗)さんに桑田真澄さんの話を教えてもらって。キタジさんももう膝がボロボロだったんですけど、桑田さんが大きな手術をしてリハビリをしてたときの言葉で「リハビリのプロになれ」っていうのがあるって。

 

もちろん自分はサッカー選手なんだけど、サッカー選手だと思ってリハビリをやってると辛くてできない。自分は「リハビリのプロ」だと思って、自ら取り組んでいかない限り身にならない。イヤイヤやってってもしょうがない。

 

キタジさんはそんな話をしてくれて。で、それからしっかりリハビリをやったんですよ。「もう一回頑張ろう」って気持になれて。そういう周りの環境っていうのが、いい先輩がいつも近くに入れてくれて。

 

プロに入ったときは一年目から「隊長」坂本將貴さんがずっと面倒見てくれて。常に「おい、晃樹」って。隊長から言われたら、予定が入っててもいつも付いてってましたね。人には恵まれてたと思うし、前十字靱帯やったときもキタジさんが支えて復活させてくれたんですけどね。

 

2013年に移籍した甲府では、キャンプですごい調子よくて、「これは開幕スタメン行けるだろう」と思ってたら、左足の足底筋膜炎と足の裏の骨挫傷が重なって。クロス上げるときに踏み込んだら痛みが来て、そこから踏み込めなくなっちゃって。復帰まで結局3カ月ぐらいかかりました。かかとはずっと痛くて、今でもヒールパッドって、靴のかかとに柔らかい素材を入れながらやってます。

 

それだけいろいろあったけど、挫けないというメンタルとか、精神的な部分は清水商業高校時代に鍛えられたから。ちょうど先日、嫁さんから「1年目から3、4年はレギュラーでいたけど、そっからコンスタントに試合にも出られなくて、これだけ長くやってる選手もなかなかいないでしょう」って言われましたね。「それでもやれてるってのは、意味があるんじゃないの」ってね。

 

高校時代は正直、そんときは……何だろう……苦しいとかじゃなくて、メチャメチャ厳しくて。「これを超えるものはないな」っていうのを味わったから。だからある程度、他の人がキツイって思うこともオレはそう思わないし。

 

これはいいのかどうかわかんないけど、当時は肉離れしてても、「そんなのはケガじゃない。テーピングしたら走れる」って言われてましたから。それがいいかどうかわかんないけど、そうやって鍛えられたし、ボロクソ言われたりもしたから。

 

だからある程度のことは慣れちゃってて、多少のケガならプレーできちゃうし。そういう中で揉まれて、鍛えられてきたから、この世界に入ってもいろんな辛いこととか、ケガで苦しんだこともあったけど、あのときを思い出せばこれくらい乗り越えられるってくらい思えるのかなって。

 

他のチームを蹴って千葉に戻ったけど…

2014年シーズンいっぱいで甲府との契約が切れたあとって、いくつかオファーがあったんですよ。それで2015年に千葉に戻ったときは正直、千葉でサッカー辞めようかなって思ってましたね。子どもがちょうど小学生に上がる年だったし。

 

他からのオファーは、これを言うといやらしく聞こえるかもしれないんですけど、金銭的に全然千葉よりいいオファーだったんですよ。倍までいかないんですけど、それくらい差があって。

 

でもJ2のチームだったんですよ。J2に行くと、そこには千葉もいるのに、オレは他のチームに行けないって。だから家族には「金銭的には苦しくなる」という話をして、「それでもオレは千葉への思いは強いから行かせてくれ」ってお願いして。それで、他のチームを蹴って千葉に戻ったんです。

 

千葉に行って、なんとかJ1に上げて、自分のキャリアが終われたらいいなって。そう思って帰ったんですけど、いろいろあったり、考えさせられることもあったりして……。結局よくわからない感じで契約更改の話も進まなくて、仙台に行くことになりました。

 

鳥栖から背番号50になってますけど、それまでは常に、セルティックでも29番、レイソルでも甲府でも29番だったんです。それって千葉の1年目の背番号と同じで。自分の中で、育ててもらったという気持ちもすごい強かったし、そういう思い入れがある番号だったから、常に29番で。

 

鳥栖では谷口博之がずっと29番で、譲れないって言うんで、普通の番号を付けると29番に失礼な気がして、一番最後の番号をつけようっていうことで、50番になったんです。

 

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考えさせられた平山相太の引退

高校時代、インターハイの準決勝で当たった平山相太が引退して、自分たちもそういう歳かって。自分としては昔からの設定として35歳までは最低限プレーするって決めていて。でもどう考えても見えないんですよ。自分の引退する姿が。

 

いろんな引退した人の話を聞いたりすると、「セカンドキャリアを築きたかったから、もうちょっと早く切り替えて引退してもよかった」とかいう人もいたりするんですけど。でもオレは3歳からサッカーを始めて、そこからサッカーしかやってこなかったし。

 

だからどうなのかわかんなくて。大ケガして「もうサッカーできないよ」って言われない限りやり続けるんじゃないかって思ってしまう。でも家族もある身だし、提示される年俸とかによっては、また他のクラブに移らなきゃいけないのかなって思うかもしれないけど、嫁さんは「別にそうなっても好きなだけやったら」って。

 

一番助かってんのは子どもかな。子どもがナイーブだったら、移籍して転校が続くのって厳しいと思うけど、うちは打ち解けるのが早いんで。引っ越ししたあと、荷物を解くのに忙しいから子どもを公園に行かせたら、すぐ友だち作って遊んでたりとか。そういうのに助けられてます。

 

サッカー以外何もできないと思うし。料理が好きで、後輩を呼んで作ってたりするから、「料理屋さん開いたら」って言われるんですけど、料理屋さんって難しいから。現役のサッカー選手だから名前を知ってもらえるけど、引退したら何も言われないですよ。

 

しかも高校の先輩たち、長くプレーしてる人多いから。その先輩が現役を終わる前に終わっちゃダメって気持ちもあるし。(川口)能活さんと正月会ったんですけど、「お前、オレより早く終わるなよ」って申しつけられました(笑)。

 

九州は肉がうまい……移籍で出会えた名店

九州に来てうまいと思ったのは、まず焼肉ですね。すごいとこがあるんですよ。言い方悪いですけど、換気が効いてなくて。店の中、真っ白になってて、人が多いときは余計に換気扇が効かないから、入り口のドア開けて営業してる。

 

店内は脂ギトギトで、今どき懐かしい、マッチとかで火を付けるコンロを使って。網は最初から真っ黒なんです。しかも波打ってる。知らない人は食べる前に「網交換してください」って言うくらい。そうじゃないと焼けないぐらいのボロボロの網で。

 

メニューもタレしかないんです。塩がない。自分でメモ帳に何を何人前とか書いて店の人に渡すんです。ロースやカルビって書いてある横に、「正」の字を書いて。しばらくすると、一つの銀のプレートに全部の肉が乗って出てくる。だっておんなじタレだから。

 

タンもあるんですけど、タンって基本、塩じゃないですか。それがタレなんです。それまでタンのタレって食べたことなかったんで、びっくりしてたんだけど、食べてみたら「え? うま!」って。

 

で、それをインスタグラムに上げたら、仙台のときに一緒にプレーしてて、今清水に行ったGKの六反勇治から急に電話が来て。六反は福岡出身で、「晃樹くん、なんでそこ行ったの?」って。「そこうちの嫁の友達んち」だって。春日市の「玉福(たまふく)食堂」って店です。

 

あとは鳥栖にある「花やしき 本店」のお肉はとにかくおいしいんですよ。お店の庭も広くて綺麗だし、雰囲気もいい感じで。社長さん、スタッフさんも話しやすくて人柄がいい。チームのみんなで食事会をしたことも何度かあります。鳥栖に来たら、ぜひ食べてみてくださいね。

 

r.gnavi.co.jp

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水野晃樹 プロフィール

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清水商業高校から2004年、ジェフユナイテッド市原に入団。翌年には出場機会を増やし、ワールドユースにも出場。2007年には日本代表にも選出された。

2008年からはセルティックに移籍するも出場機会に恵まれず2010年からJリーグに復帰。チームを渡り歩き現在はロアッソ熊本でプレーしている。
1985年生まれ、静岡県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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