
僕は、ピッチの上で他の選手に大声で指示を出すタイプではありませんでした。「オレの背中を見てくれ」というほうだったと思います。
でもピッチを離れると、みんなと話をしていました。清水エスパルスでの現役時代はよく若手を連れて食事に行ったものです。最初に呼びかけてくるのは中堅の選手。安藤正裕とか興津大三が、「ノボリさん、行きましょう!」ってやってくるんです。
オフの前はとことん無礼講で朝まで…
行くのは駿河区にある焼き肉屋さん。今でも選手は通っていると思います。僕が店に到着すると、最初に誘ってきた選手が別の若い選手も連れてきて、いつも5、6人は連れて食事していましたね。もちろん、会計は僕が払わなければなりませんでした(笑)。普通の食事のときもありましたし、オフの前だと、そこから移動して朝までカラオケで歌っていたりもしました。
その場では、あんまりサッカーの話はしなかったと思います。いや、したのかもなぁ。覚えていません(笑)。途中から話した内容を覚えていないくらい飲んでいましたから(笑)。その場には先輩も後輩もありませんでした。とことん無礼講です。
降格の危機に直面し「僕が裏でまとめなきゃダメだ」と感じた
そんなプライベートな食事会を気が向いたらやっていました。でも、2005年だけは違いました。この年は本当にチームをまとめなければいけないと思ってやっていました。
2005年は長谷川健太監督の就任1年目でした。ケンタさんは初めてのJリーグの指揮で、本当は最初にコーチとして入閣できればよかったのでしょうが、チーム事情から監督になったようでした。
ちょうどチームも世代交代の最中で、なかなか勝てませんでした。ケンタさんはすごく頑張っていたけれど、勝ち点が積み上げられない。ケンタさんも本当に辛かっただろうと思います。ピリピリしていましたね。
降格の危機すら感じました。だから、これは僕が裏でまとめなきゃダメだと感じたのです。何回も選手だけでミーティングをやりました。ケンタさんがやりたいことはわかっていたので、それを他の選手たちに伝える。こういうときはこう動けとか、こうやって声を出せとか、そういうミーティングですね。
監督には内緒で選手だけの決起集会を開いた
僕がそういうことをやっていたと、今でもケンタさんは知らないと思います。練習が終わった後、監督は監督室に行くので、筋トレルームにみんなを集めて話をしたりしていましたから。表だってやっちゃうと、監督の立場を悪くするとも思っていました。それに監督に、「選手たちだけでミーティングやっていいか」と言うのはイヤじゃないですか。「何をやってるんだろう」と思われるだろうし。食事しながら話したり、決起集会を開いたりもしてましたよ。
ケンタさんとは元々仲はよかったんです。けれど、監督と選手という立場になると、ここから先は行ってはいけないというラインがあります。ケンタさんもボクに気を遣っていたし、そういう微妙な空気はお互いが承知していました。でも、その壁があったからよかった。
その阿吽の呼吸がエスパルスっぽかったと思います。信頼関係が選手の時からできていたから。エスパルスにはいつまでもそんな、みんなが息の合ったクラブであってほしいですね。
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