日本人は自分が考えていることを言わない……27歳で初めて日本代表になった高木和道の後悔と夢

サッカージャーナリスト・森雅史がお送りする「ごはん、ときどきサッカー」は、サッカー関係者の人生をテーマにしています。第17回は清水エスパルスで頭角を現し、27歳で初めての日本代表を経験し、様々なチームを渡り歩きながらも引退し、現在はガンバ大阪の下部組織で指導者を務める高木和道さんにご登場いただきました。年代別日本代表の経験がまったくないまま日本代表入りした異例の経歴を持つディフェンダーは、引退後の指導者生活で現役時代の経験をどのように活かしているのか、様々なエピソードとともに語っていただきました。 (静岡市のグルメ和食

日本人は自分が考えていることを言わない……27歳で初めて日本代表になった高木和道の後悔と夢

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©Miki SANO

 

2008年、188センチの大型DF高木和道の人生は急にスピードアップした

長谷川健太監督の下で順調にレギュラーを獲得していた高木に

西野朗監督が率いるアジアチャンピオンからオファーが届く

さらに岡田武史監督からは日本代表に召集された

 

それまで年代別代表にも呼ばれたことのなかった選手の人生は

大きな渦の中に引っ張られることになる

その時期がこれまでのサッカー人生で一番忘れられないという高木に

長くプロ生活を送った土地のオススメの店を聞いた

 

27歳で初めての日本代表…年代別代表の経験もナシ

自分の番はいつかな〜なんて思うてたんですよね。まだかな〜って(笑)。来ていただいてありがたいです。

 

自分のサッカー人生でキツかったのは、岡田武史監督に呼ばれて日本代表に行ってたとき、2008年から2009年ですね。27歳、28歳でした。体も辛かったし、僕、年代別の代表も全く経験なかったじゃないですか。で、初めてキャンプ呼ばれて、オマーンに行ってとか、結構しんどかったです。

 

特に2008年のほうがキツかったですね。清水エスパルスで長谷川健太監督にずっと試合に使ってもらって、でもナビスコカップは決勝で負けて、そのころに西野朗監督がやってたガンバ大阪からお話いただいてとか、いろいろあって。

 

代表にも呼ばれたから、リーグ戦、カップ戦以外にも試合がどんどんあるじゃないですか。肉体的にもきついし、疲れがあっていいプレーできなくなって精神的にも苦しくなるし。代表では岡崎慎司と一緒にいたのがまだよかったです。あいつはポジティブやし。それから代表チームのコーチに僕を清水に誘ってくれた大木武さんがいたのもよかったと思います。

 

岡田監督って厳しい人ではありました。でも岡田さんから個人的に何か要求されたとかっていうの、あんまり記憶になくて。ただ「チームとしてこうやっていこう」「ワールドカップのベスト4を本気で目指していこう」っていうのはずっとおっしゃってました。

 

岡田さんは強さを求めるタイプでしたね。ちょうどセンターバックにサイズを求められるようになってきたぐらいだと思うんですよね。僕とか、川崎の寺田周平さんとか、190センチ前後の選手が2人いて、やっぱり高さっていうのをすごい求められてると思ってました。

 

相手のクロスを跳ね返すっていう部分では自信がありましたけど、僕はなにぶん経験がなかったですね。代表チームって集まって2日後には試合とかじゃないですか。だから戦術を落とし込むような時間はなくて、集まってすぐ試合する感じなんですよ。

 

そのころ長谷部誠とか松井大輔とか、海外でやってる選手もいて、彼らがどういうプレーするのかってテレビで知ってるぐらいで。でもそういう選手と呼吸を合わせなきゃいけない。

 

それで近くに中澤佑二さんとか田中マルクス闘莉王っていう、本当にいいお手本がいたから、僕は見て学んでる感じでしたね。でもカタールに行ったとき、紅白戦でメンバーから外されて控え組にも入れなかったりして。いろんな経験させてもらいました。

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©Kenichi ARAI

本当の世界レベルに打ちのめされた

2009年には清水エスパルスからガンバ大阪に移籍したんですけど、本当に迷いました。

 

ガンバは2008年にAFCアジアチャンピオンズリーグで勝ち進んでいて、結局その年のチャンピオンになるんですけど、そういうクラブから話が来てうれしかったですね。でももちろん清水ではケンタ(長谷川健太監督)さんに本当お世話になったし、清水というクラブに本当育ててもらったようなもんなんで迷ったんですよ。

 

それでケンタさんに、本当「どうしたらいいですか?」ぐらいの感じで相談しました。そのとき多分止めて欲しかったんでしょうね。でもケンタさんは「もちろん一緒にプレーはしたいけど、自分で決めろ」っていう感じで言ってくれたんです。

 

で、やっぱりガンバっていうアジアチャンピオンからオファーが来たので、行くっていう決心をしました。多分ナビスコカップのファイナルの前ぐらいだったと思います。決勝を前に多分決めてたと思うんですよ。カップを取って恩返しをしようって。でも、結局勝てなくて。そういうことがいろいろあって本当しんどかったんです。

 

日本代表は8月の札幌ドームのウルグアイ戦でデビューしたんですけど、ウルグアイは本当に強かったですね。今でも覚えてますよ。ルイス・スアレス出てましたからね。スアレスのこと知らんかったから、「なんや? コイツ」って試合後に名前調べて。

 

緊張はあったと思いますけど、そういうこと関係なくボコボコにされました。個人的にも。そもそも僕はずっとそうやってボコボコにやられながら育ってきたようなもんなんですけど、でもあれはちょっとやばいと思うくらいやられて。

 

岡田さんが試合後に「相手が本気で来てくれたのがすごいよかった」って言ってました。(中澤)佑二さんに、「これが本当の世界レベルだよ」って言われたのをめちゃくちゃ覚えてます。「これが世界のトップなんや。頂上見えへんな」と思って、そのときに1回打ちのめされましたね。

 

それからは、もうどことやってもウルグアイよりは弱いと思いました。日本代表では全部で5試合出場したんです。ウルグアイ戦で思いっきりやられたんでもう代表には呼ばれないかとも思ったんですけど、その後もなぜかチャンスいただけて。

 

10月に新潟でUAEと対戦して1-1で引き分けて、11月に神戸でシリアと試合して3-1で勝って。翌2009年の1月には熊本でイエメンと2011年カタールアジアカップの予選に出て、それも2-1で勝ちました。

 

ただやっぱり僕は力が足りなかったです。全然。基礎的な技術とかもそうですし、考え方とかも。そのころはプロとしてしっかり生活してるつもりでしたけど、もっとできるなって今だったら思うし。自分の体をいじめることもそう、生活もそう。もっとサッカーのためにできることは多分あったと思います。

 

今だったらあの時期、もっとサッカーのためにとか……あの当時もやってたつもりなんですけどね。もっとチームのみんなとしゃべってコミュニケーション取ったり、他の人のいろんな知識とか、いろんな経験を自分の中に取り入れて消化できれば、さらに面白かっただろうと思いますね。でも周りを見る余裕がなかったんですよ。

 

年齢重ねてケガが増えて、だんだんストイックになっていったんですけど、もしケガする前からそうだったら、もっといい選手になれてたかわかんないすけどね。けど、力がなかったです。もっと力あったら使ってもらえてもらえたとか思いますよ。今となっては日本代表っていい思い出ですけど、そのときは本当大変でしたね。

 

その次に呼ばれたのは2月に国立でやったフィンランド戦で、5-1で勝ったんですけど、でもガンバで試合に出られなくなってたんで、そこからはもう代表のほうは見てなかったですね。とりあえずガンバで試合に出たいと思ってたんで。そのころガンバで試合に出られなかったんですよ。

 

2008年のシーズンが終わって、ほとんどオフなしで2009年1月のイエメン戦だったんです。そこからガンバの合宿に行ったんですけど、ガンバのキャンプは最初グアムでやって、宮崎で2次キャンプをやってて、僕は宮崎の途中から行ったんです。遅れて合流してるから完全に出遅れてましたね。

 

それに、当然ケンタさんと西野さんのサッカーは全然違ったんですけど、僕の体には結構ケンタさんのサッカーが染み付いてたんですよ。その変換を自分の中でうまくできなくて、なかなか西野さんの求めるところについていけてなかった。

 

ケンタさんは結構細かいと思います。戦術、守り方、ポジション、ここで相手のボールをこう取るっていうようなことはすごい細かいんですよ。西野さんは逆に全体的なことしか言わない。全体のことを指示して、そこから先、選手が自分で判断してプレーしたことを咎めないんです。

 

練習も選手同士でいろいろ話しながらやってましたけど、試合中でも「相手のどこどこ弱いから」とか、「相手のどっちサイドまで行こう」「今、時間かけようか」とか何かそういう感じですよ。

 

遠藤保仁さんとか明神智和さんいたのも大きいと思いますし、橋本英郎くんもそうです。試合の流れを読める選手すごい多くて、実力と経験を兼ね備えた選手がすごいいっぱいいましたからね。

 

せっかく移籍してきたのに試合に出られなくて、しんどかったですね。最初の半年ぐらいは特にそうでしたね。代表外れたという焦りもあったし、うまくいかなかったですね。

 

ガンバで頑張って出なあかんってなって。でもガンバもそうそうたるメンバーがいるじゃないですか。ディフェンスラインにも山口智さん、韓国代表経験のあるパク・ドンヒョクに、中澤聡太もいて。

 

けどまぁ「くそう」という思いを一言二言出して、ブツブツ文句は言いながらも練習はしっかりしてましたけどね。やっぱり使ってほしいから。プレーやめるのは簡単なんですけど、でも止めたら自分のためにならないんで。

 

それで最初に試合に使ってもらったのはサイドバックからなんですよ。確か最初の試合では両ふくらはぎ、両太もも、ツリました。でも僕は試合に出られればどこでもいいというタイプなんで。

 

サイドバックのときはもう守ることだけですよ。右の加地亮がどんどん行くんで、左の僕は「ちょっと待っとけ」「前に預けといたら大丈夫や」ってことになってたんで。

 

それで加地が攻めに行って、そこでできたスペースを攻められたらディフェンス陣はスライドして埋めに行くんですけど、僕はそのとき左から中に入ってきてクロスをヘディングではね返す場面がありました。そういうところは求められてたんで、(山口)智さんとも結構連携とってやってたし。

 

それで試合に出られるようになって自信も戻ってきたんですけど、サイドバックでも代表行きたいとは全然思ってないですよ。もうガンバで試合に出て勝つだけでしたね。代表への視線は全然切ってて。

 

だいたい清水のときも日本代表なんて視野に入ってなかったですからね。だって世代別代表に1回も呼ばれたことないようなヤツ、なかなか日本代表に入らないですよ。

 

だから、今でも初めて代表に呼ばれた選手とかいるじゃないですか。気持ちはすごいわかりますよ。やっぱり本当に難しいですからね。代表って。行ったことある人しかわからないと思います、これは。

 

そのころはとにかくガンバでタイトル取りたかったですね。2010年の元日は天皇杯を取ったんですけど、その試合、出場停止だったんですよ。準決勝のイエローをもらったとき頭抱えました。でもまぁタイトル取れたんで、それは本当うれしかったです。

 

2010年はセンターバックとしてほとんどの試合に出ました。そのころは代表に戻りたいという考えは多少あったかもしれないですね。ずっと出続けて、やっぱ順位も上のほうにいたし。そのころはちょっと意識してたかもしれないです。

 

2009年かな、サトシ(山口智)さんが呼ばれたんですよ。「やっぱりガンバやし、これは代表の可能性あるわ」と思ってて、そういうの見てるから2010年南アフリカワールドカップも可能性はあるかもしれんと思ってましたけど、でも本当はそんなに意識はしてなかったと思います。

 

岡田さんはサッカーの本質のところをよく言ってた記憶あります。「戦う」とか、そういう部分を自分の本能の中に刷り込めってよく言ってたのを覚えてます。「ワールドカップでベスト4を目指すっていうのを本気で思え」ってずっと言ってました。毎回。

 

合宿のたびに「本気で狙え」ってずっと言ってたし、そういう目標があるからこういう練習をするっていうのはすごい言ってて。僕でも「もしかしたらいけるのかな」っていう気になってましたからね。そのときのヤット(遠藤保仁)さんとか、佑二さんとか中村俊輔さんとかはもっと意識してたと思いますけどね。

 

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タイ生活を家族全員で楽しんだ現役晩年

あとは現役時代の大変さで言うと、まぁまぁ大変なことの方が多いんですけどね。

 

僕は大木さんに見つけてもらって大学を中退して清水に入ることになったんで。なんで目を付けてもらえたのか……大きかったからですかね。最初は石垣島のキャンプに呼ばれたんですよ。大学生が5人ぐらい呼ばれたと思います。

 

そうしたらなんかすごい大きい選手ばっかりいて。DFもFWも背のでかいのがまとめてキャンプに呼ばれて、僕がその中じゃ一番ちっちゃかったですからね。それで練習試合に出してもらって、オファーをいただいたって感じです。

 

オファーをいただいたんで、大学を中退することには全然迷いがなかったですね。あのときのメンバー見たら行きたいですよ。そうそうたるメンバーがいて。斉藤俊秀さん、森岡隆三さん、戸田和幸さん。でもその人たちがおったら、もう全然試合にも絡めへんし。けど今思えば力ないし。それは大変っていうより、何か壁を見てた感じすね。

 

それで清水に入ったら、監督がスティーブ・ペリマン監督から、ゼムノビッチ・ズドラヴコ監督、大木監督、行徳浩二監督、アントニーニョ監督、石崎信弘監督、そして長谷川健太監督といっぱい変わりましたし。

 

それからヴィッセル神戸、大分トリニータ、FC岐阜、ジュビロ磐田、タイのエアフォース・セントラル、JFLのMIOびわこ滋賀って、いろんなとこ行きました。

 

ガンバから神戸行ったときも結構大変でしたね。ケガが多くて。ガンバにいた2011年の最後のほうにリンパ節炎の病気になって、ほとんどプレーしなかったんですよ。でもそのまま神戸に移籍して、で、ケガの繰り返しになって。もうコンディションは全く上がらず、試合出ても全然ダメでチームもJ2に落ちるみたいな。そのころは大変でした。

 

それで大分に行ったんですが、大分は大変じゃないって言ったらおかしいし、大分のときもJ2に落ちてるんですけど、成績は出せなかったですけど、充実はしてました。タイも面白かったです。

 

でもタイにいたとき嫁の血液に癌が見つかって、一度は治ったんで僕は翌年の契約もしてたんです。けど、再発したから帰国したんですよ。でももう嫁も元気になってるんで、全然大丈夫です。タイの生活を家族全員楽しんでたし、多分嫁のほうがもっとタイにいたかったと思ってるでしょうね。

 

日本人の子は自分が考えていることを言わない

今はガンバのジュニアユースのコーチをやってるんですけど、雷が鳴ったとき、選手は僕の下に隠れます。まぁ子供守るためにはしゃあないなって。背を伸ばす方法、一番教えたい(笑)。ないんですよ、それ。僕、背が高くてよかったってすごい思います。それは本当、親に感謝しかないですね。それで生きてきたんで。

 

指導者になったら、「どういう選手を育てたいか」って質問が多いじゃないですか。でも僕は育てるとかじゃなくて、本当サッカー楽しんでほしいんですよね。僕がそうやったから。

 

必死にやるのももちろん大事なんですけど、必死にやれるように、まず夢中になってほしいです。だから、押さえつけるところとそうでないところのバランスを考えなきゃいけないと思ってます。

 

選手が自主的に遊んでるところをあんまり止めたくないし、ボールにどんどん触れてほしいし、遊び心持ってやってほしいと思いますね。もう本当楽しんでほしい。

 

それから日本人の子ってね、自分が考えてること言わないじゃないですか。大人もそうですけどね。何か心に持ってても言わないことが多いんですよ。

 

だから、聞いてあげないといけないと思いますね。質問して相手から言葉を出させないと。もう明らかに何か思ってる顔をしてるのに言わないってありますし。自分もそうかもしんないですけど。

 

だから発言はさせたいと思います。でも、こう言うと「パワハラ」ってなるかもしれないじゃないですか。無理矢理しゃべらされましたって。難しい時代ですよ。上よりも下のカテゴリーのほうが難しいところってありますからね。けどそれが面白いところでもありますから。

 

僕の将来の夢みたいなのは……ありますよ。海外でサッカーを教えながら楽しく生活したいです。これは本当もう、目標とかじゃなくて夢です。子供たちにサッカーを教えながらのんびり生活できたらいいなと思いますね。

 

近未来の目標としては、やっぱりガンバのトップには関わりたいと思います。ガンバが勝つために力になりたいと思いますし、いつか清水にも関わりたいと思います。

 

今ジュニアユースだからユース、そして縁があればお世話になったクラブのトップチームで何かできればなと思いますね。お世話になったチームがたくさんあるんで、全部行かなあかんですね。特に清水には何かしら恩返ししたいですね。

 

「ひめの家」のアジたたき丼、カツオのたたきが美味しい

メシの話……言ってた。言ってました! 忘れてました(笑)。大丈夫、あります。いろいろあります。

 

静岡の「ひめの家」さん。ここですよ、静岡だと。魚がおいしいです。その中でも特に「これ」っていうのは……「これ」っていうの何かあるかな……。「これ」っていうのは難しいですね。大将におまかせで。

 

そうだ、アジたたき丼とか、カツオのたたきとか美味しかったですね。全部叩いてきますね。魚じゃないのもあったと思います。ネギ豚膳とか。でもこのメニュー、今もあんのかわかんないですけどね(笑)。初めてここに行ったときは横山貴之さんと一緒で多分20年近く前です。

 

大阪の店も紹介しておきたいんですが、どうしましょうかね……。そうだ、焼き肉屋さんの「いやしん坊」さんで。肉は全部オススメで、僕がよく食べるのはハラミですかね。万博記念公園駅からガンバとは反対方向に歩いて行くとこです。

 

他の地域もいろいろあるんですけど、とりあえず在籍期間が長かったこの2つだけまず紹介しておきますね。

 

今日はありがとうございました。来月ぐらいまたやってもらってもいいですけど(笑)。ガンバの誰か別の人やってくれたら横にいますから!!

 

紹介したお店

ひめの家
〒422-8036 静岡県静岡市駿河区敷地2-21-7

 

 

高木和道 プロフィール

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2000年、京都産業大学を中退後、清水エスパルスへ入団。2008年には日本代表に選出。ガンバ大阪や大分トリニータなどへの移籍を経て2018年に引退。現在はガンバ大阪下部組織でコーチを務める。1980年生まれ、滋賀県出身。

 

著者プロフィール

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

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