サッカーを愛するみなさん、ご機嫌いかがでしょうか…金子勝彦と伝説的サッカー番組の舞台裏【ごはん、ときどきサッカー】

サッカージャーナリスト・森雅史がお送りする「ごはん、ときどきサッカー」は、サッカー関係者の人生をテーマにしています。第14回はサッカー中継の実況アナウンサーとして日本サッカーを見続けてきた金子勝彦さんにご登場いただきました。「三菱ダイヤモンドサッカー」はどのように始まり、そして終わったのか。そして日本サッカーを見続けてきた生き証人として、貴重なエピソードと持論を存分に語っていただきました。 (葉山のグルメカフェ

サッカーを愛するみなさん、ご機嫌いかがでしょうか…金子勝彦と伝説的サッカー番組の舞台裏【ごはん、ときどきサッカー】

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Jリーグができる以前

日本サッカーリーグのテレビ放送は年間に数回だった

そんな時代に週1回、海外サッカーを紹介し続けた番組があった

「三菱ダイヤモンドサッカー」は日本のサッカー放送の礎だった

 

いつもにこやかな温かい声で実況していたのは

まだ現役で話し続ける金子勝彦アナウンサー

ずっと日本サッカーを見続けてきた人物に

映ってきた風景と現在の放送について伺った

(文中敬称略)

 

三菱ダイヤモンドサッカーはいかにして始まったのか

サッカーを愛するみなさん、ご機嫌いかがでしょうか。

 

私が実況を担当して1968年から1988年まで放送されていた「三菱ダイヤモンドサッカー」は、諸橋晋六さん(故人)がロンドン勤務だったとき、1967年日英経済人会議で渡英された篠島秀雄さん(故人)にBBC(英国放送協会)の「マッチ・オブ・ザ・デイ」という番組を紹介して、そこから放送することになった番組です。その主旨は「サッカーを通じて国際人を作る」ということでした。日本の役に立つスポーツをイングランドから輸入しようということですね。

(註 諸橋晋六氏:元三菱商事社長、篠島秀雄氏:東京12チャンネル番組審議委員、元日本サッカー協会副会長、元三菱化成工業社長)

 

実は、放送資金の面や三菱グループ首脳陣のネゴシエーションまで含めて陰の仕掛け人として動いてくださったのは元日本代表でその後日本代表監督も務めた二宮寛さんでした。三菱グループのトップとメディアを結びつけてくださったんです。最初はお金の面がどうなっているか私は知らなかったのですが、あとで聞いたら二宮さんがいらっしゃらなければできなかったのが分かりましたね。

 

番組では1970年メキシコワールドカップの映像を海外メディア(テレシステマ・メキシコ)から輸入したんですよ。全試合カラーです。放映権だけで当時2億円かかりました。今とは貨幣価値の違いがあるにしても、大きなお金です。お金が無ければどんなにうまいことを言っても番組にはならないんです。二宮さんはそういう部分を全部面倒見てくれました。

 

番組は、何もかも想定外でした。サッカーとみんな一緒ですよ。事前に用意したり意図的に作られたものはなかったですね。独自のスタイルを築こうとも思っていませんでした。ただみんなサッカーが好きなだけ(笑)。

 

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海外取材で目撃した本当の悲劇

振り返りますと、幸せなことに何度も海外取材に出られましたし、日本代表とも2回、長沼健監督(故人)、岡野俊一郎コーチ(故人)のときには1ヶ月以上の海外遠征で同じ釜の飯を食べて、同じ洗濯機でユニフォームや下着を洗ってね。森孝慈監督(故人)のときもヨーロッパにずっと取材できました。

 

そういう友情も含めて、人生そのものになっていきましたね。大航海時代の経験をさせてもらったかな。エンリケ航海王子じゃないんですけどね。大会はほとんど取材できました。やっぱり覇権を賭ける試合は見て感動があるんです。

(註 エンリケ航海王子:大航海時代の重要人物の1人でポルトガルの王子)

 

1968年メキシコ五輪のとき、長沼さんと岡野さんは大ベテランの八重樫茂生さんをメンバーに選んだのですが、八重樫さんは初戦のナイジェリア戦で靱帯損傷してしまうんです。するとそのあと八重樫さんはみんなの洗濯を全部やってたんですよ。「マツ(松本育夫)、ガマ(釜本邦茂)、全部持ってこい。俺は試合出られねぇから貢献するよ」って。

 

そうやってまとまって戦ったチームが3位決定戦のメキシコに2対0で勝ったんです。試合直後は、みんな口も聞けないぐらい「exhausted」(疲れ果てた)な状態で銅メダルを貰って、帰ったら倒れたそうです。

 

それを見てデットマール・クラマーさん(故人)が涙を流したといいます。それがサッカーの全てだとは思いませんが、サッカーの象徴的な良さですよ。代表チーム、クラブチームはそのくらいまでに収斂(しゅうれん)、洗練されてくると、思わぬ力を発揮すると思います。

(註 デットマール・クラマー:「日本サッカーの父」と言われる日本代表コーチで、その後の日本サッカーリーグ創設を提言し、礎を作った)

 

1982年に日本代表がスペイン・ルーマニア・西ドイツ遠征を行ったときも同行しましたね。ルーマニアに行ったとき食事があまり満足に出来なくて困りました。レストランに食べるものがないし、日本からも持っていってないし。

 

日本大使館に藤田静夫団長と私がご挨拶に伺ったときにそんな話をしたところ、長谷川大使が司厨長を呼んで「まだお米あるか?」とおっしゃったんです。「10人分ぐらいのお米あると思います」「すぐにそれを炊いて塩むすびにしなさい」と、ステアウア・ブカレスト戦の前に大使館がおにぎりを作って、宿舎に持ってきてくださいました。

 

だけどお米が足りなくて小ぶりのおむすびが40個ぐらいしかない。若い人は腹が減っているから一口でどんどん食べていました。すると前田秀樹と田口ダンゴ(光久:故人)が食べないで、私たちのところへ人数分持ってきてくれたんです。「金子さん、今日実況でしょ?」って。そのおにぎりを1個食べて……本当に美味しかったなぁ。

 

そういう人間的な交流もできました。この前亡くなった当時のスタッフが、死ぬ間際までそのおにぎりのことを言ってましたよ。「美味しかった」って。そう言えばGKの田口さんも亡くなったんですよね。あの時は涙が出ました。

 

チャンピオンズ・カップ(現・チャンピオンズ・リーグ)も好きでしたから、1985年5月29日、ベルギーのブリュッセルで行われた決勝、リバプールvsユベントスにも行きました。あのときは試合前に二宮さんの親友のフランツ・ベッケンバウアーさんをはじめとしてFIFAの方や各国の首脳陣がパーティーを開いていて出席できました。世界中のサッカーマン、ヨハン・クライフ(故人)もいましたね。

 

ただ街にはリバプールのフーリガンも来ていて、昼間っから何だか危険な雰囲気だと感じていました。古い町のきれいな石畳なのにね、ビールを飲んだあと道路に茶色い瓶を投げて粉砕して叫び声をあげるのを見て、「なんかいやだな」と思ってたんですよ。

 

試合2時間ぐらい前にパーティーが始まり、試合開始30分前に「スタジアムに行きましょう」ということになったら、もう救急車と警察車両のフィンフィンフィン、バプーパプーバプーという音が聞こえてね。外に出たら緊急車両ばかりでびっくりです。

 

私はカメラマンを2人連れていたので、ムービーを回そうと思っていました。それでスタジアムに駆け込んだら、血だらけのファンを乗せたタンカが何台も出てくるんです。観客席で人が雪崩て下敷きになってるんですよ。上の人がどかないと下が抜けないのですが、周りの人が一生懸命抜こうとしてる。私も助けるのを手伝いました。その様子をカメラマンは撮影していましたね。「ヘイゼルの悲劇」です。

(註 ヘイゼルの悲劇:ファン同士の衝突から発生した事故で、死者39人、負傷者は400人以上。原因となったのがリバプールのファンだったため、その後リバプールが6年、イングランドのクラブは5年、国際試合に出場禁止となった)

 

日本でも「ヘイゼルの悲劇」はニュースで放映されたのですが、改めて「三菱ダイヤモンドサッカー」でそのVTRを放映しようということになりました。そうしたら、岡野さんが「ネコちゃん(金子氏の愛称)、オレはこんなこと初めて言うけど、あのVTRを本編で流すのは止めよう」とおっしゃったんです。それで止めました。試合だけにして私たちは黙祷した思い出があります。

 

ヘイゼルは最大の悲劇ですよ。みなさんが「ドーハの悲劇」なんて言うけれど、あれは悲劇でも何でもない。私はあれを「ドーハの悲劇」と言ったことはなくて、「ドーハの教訓」と呼んでいます。

 

この間、あるアナウンサーが「もう『ドーハの悲劇』を知っている人もいませんね」と言うから、「あなたは知っているの?」と聞きたかったですね。あの試合はテレビ東京が抽選の結果、最終戦の担当になって放送したんです。

 

久保田光彦アナウンサーに「君が行け」って、ドーハに行ってもらって、私は釜本邦茂さんと柱谷幸一さん(キャプテン柱谷哲二の実兄)、森孝慈さんとスタジオ担当でした。

 

終了間際に同点になってワールドカップに行けなくなった時に、思わず「天国と地獄を同時に見た」と言ったんです。それ以来いろんな人がすぐ「天国と地獄」を使うんですが、そんな軽々しく使う言葉じゃない。寸前まで「ワールドカップに行けるぞ」って、みんな歯を食いしばって見てたんです。

 

同点に追いつかれたら久保田アナウンサーが何も言えなくなりましたよ。1分間何にも言えない。だから褒めてやりました。あれはべらべら言ったらおかしい。久保田に「あれ、なんで何も言わなかった?」って聞いたら、「言葉が何も浮かんでこない」と涙を流してたって。そういうものなんですよね。

 

視聴率は低くても「視聴質は高い」と幹部を説得したが…

「三菱ダイヤモンドサッカー」は、放送時間が1時間から45分になり、30分になったりしました。深夜に持っていかれたこともありましたね。それは視聴率がね……。テレビはマスが対象なので、最低でも視聴者が100万人いなければダメなんです。「三菱ダイヤモンドサッカー」は1回に20万人とか30万人という数字でしたね。

 

そのぐらいの視聴者数だと、視聴率表に「※」印が書かれてきます。要するに小数点以下だという印ですね。だから放送界では侮辱なんです。でもそういう数字が溜まれば700万人にも7,000万人にもなります。それに「視聴質は高い」と、そう言って私たちは会社の編成局の幹部を説得していました。

 

それに会社の利益を抜きにして、「三菱」「サッカー」というブランドを東京12チャンネル(現・テレビ東京)から失くしたらメディアの価値と意味がない。スタッフはみんなそう思っていました。放送局としての、放送マンとしての責任ですよ。

 

私は東京12チャンネルの番組で業界を含め話題になっていたのは「演歌の花道」の北島三郎さんと「三菱ダイヤモンドサッカー」のジョージ・ベストしかないと思っています。

 

終わったのは、一番は視聴率が出なかったからですね。そのころテレビ東京の成績がすごく良くなってきてたんです。それで、視聴率1パーセント以下の番組をなくすということになりました。「三菱ダイヤモンドサッカー」もいい時には4、5パーセントもとったんですけどね。

 

1974年西ドイツワールドカップ決勝の中継が3.65パーセントでしたね。あのときは衆参同日選挙で、各局選挙結果の放送をする中で、東京12チャンネルだけがワールドカップのファイナル。外国特派員記者のみなさんはみんなサッカー見ていたということです。

 

1988年に放送が終わってしまって、その後Jリーグができましたから、ちょっと終わる時期が早すぎたというご意見ももらいます。ですが私はちょうどいいタイミングだったと思いますね。

 

番組が終了するとき、プレスセンターでクロージングパーティーがあったのですが、その時三菱の偉い方もみんないらっしゃって「なぜダイヤモンドサッカーが終わるんだい?」って。テレビ東京の中川順社長(故人)も「なんで終わるんだろう?」って言ったんです。終わらなくていいって。首脳陣がおっしゃってるのに終わったのは、二宮さんがヨーロッパ駐在で転勤していられたからでしょうかね(笑)。

 

「三菱というブランドを大事にしよう」という気持ちがみんなの中にあって、二宮さんの上司をはじめとして多くの大変素晴らしいみなさんに、チームメイト、ワンチームのメンバーとして認めてくださり、大事にしていただいた。

 

だから『「ダイヤモンドサッカー」の時代』という本が出版されたとき、本の帯に「日本サッカーの発展はこの番組の存在なくして語れない」と書いていただいたのだと思います。

 

最近の日本代表戦を見ていて、金メダルが取れると思ってはいませんでしたが、ようやくここまでサッカー文化が、根を生やして桜の花が咲くくらいになってきたと感じます。1936年ベルリン五輪では「ベルリンの奇跡」を起こしましたが、2021年で日本サッカー協会100周年と言っても、国際的な本格活動は戦後ですから。

 

長沼さん、岡野さんでも「ワールドカップって、何だ、それ?」と言った時代があって、当時の日本では最高の大会がオリンピックしかなかったわけです。しかもFIFAは偉そうに、オリンピックよりもワールドカップのほうが上だと言ってます。

 

それが今やワールドカップアジア2次予選トップで通過ですから。大したことないと思われるかもしれませんが、2次予選の国に対しても昔の日本だったら勝てないですよ。昔はビルマにも勝てなかったのだから。

 

よく涙して国立から帰りましたよ。でもそれは当時の監督や選手の責任ではなくて、日本のサッカー文化そのものがまだまだ育成されていなかったのです。1968年メキシコ五輪で銅メダルを取ったときは、限定されたエリートが特別に育成されたからです。

 

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サッカーが命を救ってくれた

これまで何度も大病をしたのですが、いつもサッカーが私を救ってくれました。2001年には肺腺癌を患ったんですよ。右肺の上葉に0.9ミリぐらいの異常があると言われたんです。発見したのは本田真先生という、東邦医大の医大リーグのゴールキーパーです。

 

そのころフリーランスで番組をスカパー!と J SPORTS で週に4本ぐらい持っていました。すごく忙しかった。自分でも健康に気をつけなきゃっていう時に、帰りの電車の中で胃けいれんみたいなのを起こしたんです。

 

慌てて病院に行ったのですが保険証を持っていなかった。そうしたらお医者さんが私の顔をじっと見て、「金子さん、あなたは『三菱ダイヤモンドサッカー』のアナウンサーでしょう」とおっしゃるんですよ。

 

それから先生は選手の名前をいっぱいお話しになるんですけど、「先生、私は胃が痛い」って。それで癌が発見されたものですから他の病院に行くことになって、私の親友が東京医大の加藤治文先生という国際肺癌学会の名ドクターを紹介してくれたんです。

 

私は2002年日韓ワールドカップの実況をスカパー!でやることになってたので、2001年に切るのをいやだと思いました。世界一の先生なんですけど、手術がいやだから逃げようって。それで妻と一緒に東京医大に行って「手術をしないでじっとして療養します」と言って、病院の裏手から帰ろうとしたんです。

 

そうしたら、そこに黒いハイヤーが止まって出ていらしたのが加藤先生なんですよ。「おう、入院手続きは終わったか」とおっしゃるから「終わりました。あの、先生、2002年日韓ワールドカップが来年で、私は担当することになっていますから、できれば手術を延期をしていただいて1年間療養したいのですが」と言ったんです。そうしたら「何を言ってるんだ。俺がやるんだよ」ってね、背中叩かれました。

 

私は「いや、先生、私はガンじゃありません。だって異常ないんです」と言いたかったんです。全然異常がなくて、フジテレビで風間八宏さんや菊川怜さんと一緒にずっと「マンデーフットボール」をやっていたぐらいですから。ですが先生は「来週月曜日に手術だよ。もう予定に入れてあるよ」って。

 

加藤先生に言われたら仕方がないと、プロデューサーを呼んで「メスを入れることになって当分休まなきゃいけないけれど、これは誰にも言わないで内緒にしてね」と言って、番組を降りたんですよ。それで月曜日に手術しました。

 

手術が終わってね、麻酔が切れたところで「先生、本当にガンあったんですか?」って聞いたら、先生が「このやろう」って顔してシャーレを持ってきて「この血の塊がガン細胞で、怪しいと周りのリンパも切ったから」とおっしゃいました。

 

それを「郭清(かくせい)」と言うんです。東京大学サッカー部OBで、TBSのドラマ『寺内貫太郎一家』なんかを演出した久世光彦さん(故人)に話したら、さすが久世さんだね、「これは医学用語で悪いところを取るという意味で、精神文化の世界でも『あいつの精神を廓清(かくせい)してやろう』と使う」と教えてくれましたよ。「郭清」なんていう言葉は初めて知りました。それで72針、すごく大変でしたね。

 

その手術が2001年10月でしたから、2002年はフル稼働できなかったですね。プロデューサーにイングランド戦は担当させてほしいと依頼して、イングランドvsスウェーデンを実況しましたが、それ以外はフジテレビの中井美穂アナウンサーと一緒にスタジオでやりました。海外から来ているゲスト、アーセン・ベンゲルをはじめ、そうそうたるゲストをお台場のスタジオに呼んで毎日放送できたのはよかったですね。

 

こうやってサッカーは私の命を救ってくれました。どこに行ってもお医者さんがサッカー部なんです。

 

私にはこよなくサッカーを愛していた義弟がいました。希望ヶ丘高校サッカー部のセンターフォワードであった彼は1963年11月の「国鉄鶴見事故」で亡くなってしまったんです。今でも義弟のことを考えるといつも涙が出てきます。私がこうしてサッカーに救ってもらっているのは、みんな義弟が私を導き、守り、「もっと働け」と言ってくれているんだと思っています。

 

アナウンサーとして生涯現役の心意気

今、日本語が「危篤」です。私たちは音声言語ですからアクセントという重要な問題があります。今、アナウンサーは関東圏だけじゃなくて全国から採用されているので、土地の訛りが取れない人がいるんです。

 

ことに気象予報士の方は大変で、無声化と鼻濁音ができる人はあまりいませんね。歌い手さんでも八代亜紀さんも最初は鼻濁音が出せなくて、練習して出したのではないかと思います。無声化と鼻濁音は日本語の特徴であり、体得してアナウンサーは出してください。

 

ただ、これは天性です。日本語に対する愛着ですね。私はドイツ語が大好きですし、英語もキライじゃない。でも日本語に関しては1960年のアナウンサー試験に合格してから徹底的に勉強しました。

 

築地小劇場の演出をやっていた和田精さんに芥川龍之介の朗読をはじめ読み書きを滾々(こんこん)と教わりました。学校とは違います。私たち7人のアナウンサー(新日本放送9期生)は和田さんの最後の生徒になったんです。すごく幸せな経験でした。

 

「夕闇迫る神宮球場、寝ぐらへ急ぐカラスが三羽」というアナウンスで知られるNHKの松内則三さん(故人)にも教わりました。私たちはNHKではないのに、最後の生徒なんです。

 

中学の時から日本語が大好きで、国語の先生は作家の菊池寛さんと同級生という大野佐吉さんだったものですから、その先生に日本語の美しさを教わりました。また漢文も教わりましたね。文字が持っている意味、言葉の意味は無限にあるじゃないですか。そういう知的な好奇心を失ったことはないですね。それが放送に生かされたのだと思います。

 

私は最初、新聞記者か作家になろうと思っていたんです。アナウンサーなんか受かると思っていなかった。ですが、NJB(New Japan Broadcast)、新日本放送ですね、1946年に開局した放送局に採用していただきました。

 

たまたま受験したら和田先生と高橋信三さんという当時毎日新聞の常務で、新日本放送の副社長(後に社長)の方が私のことを気に入ってくださったんだと思います。

 

私の声の質は両親がくれました。2人とも美声でしたね。若いときからの声質が変わらないとよく言っていただくのですが、私はまだ現役のアナウンサーですからね。生涯現役の心意気で生きます。

 

「三菱ダイヤモンドサッカー」の解説をしていただいた岡野さんの声柄もよかったと思います。岡野さんは美声でね。銀座のバーで流しが来て演奏してもらっては2人で軍歌の「麦と兵隊」をよく歌いました。声柄が私と似てるんですよね。ですからお互いの声のショックがない、あまり抵抗がないんです。音声学的には一番心地よく岡野さんの声も入ってきたと思います。

 

そう言えば『ニホンゴ キトク』という本をお書きになって、草サッカーを一緒にやった東大OBの久世さんは、私の日本語をすごく評価して下さいました。「ネコさんには直すことがないよ」とおっしゃるもんだから「そんなことないですよ」と言っていたものです。

 

岡野さんも言葉に厳しかったですね。それには理由があるんです。岡野さんと私が話をして、それが電波に乗って不特定多数の人に届きますね。その届いた人が内容を理解できなかったら、それは放送じゃないんです。自己満足なんですよ。解説の方が外国語を含め難しい言葉を使ったときには、私が「それはこういう意味ですか?」と聞くんです。それはすごく大切なことですよ。

 

多くの人々に支えられてマイクロホンの前に立っているのは岡野さんと私だけです。岡野さんが持ってらっしゃるもの、勉強されたものを全部吸収して、マイクを通じて視聴者の方々にフィードする。サッカーに対する理解が深くなり、それが得することじゃないですか。

 

「見ていて得したよ」「こんな言葉をはじめて知ったよ」という投書を随分いただいたことあるんです。ですから放送というのは送りっぱなしじゃなくてね、やっぱり相手のことを考えないのはダメですよ。

 

それから私は岡野さんの人格と言いますか、サッカーに傾ける情熱を知りたいと思っていました。岡野さんは「何も勉強しなかったよ」と言いながら東大理3(医学部)に入って、3年勉強してインターンになるときに、サッカーが好きで医学部の勉強ができないということで転部したんです。

 

それで文学部の心理学科が一番楽だろうって、医者になる予定が転部しちゃった。そのぐらいサッカーが好きだった。放送の中ではおっしゃいませんでしたが。そのぐらい岡野さんみたいな人を虜にしたサッカーってなんだろうって、ずっと考えてましたね。

 

そしてそういう方とマイクロフォンの前に一緒に立ってご紹介できるということは無上の幸せでした。私が視聴者の代表なんですよ。アナウンサーではあるのですが、視聴者の代わりに解説者に聞いているんです。

 

「この人がサッカーをどうご覧になるか」ということが中心なんですよね。その根本は、岡野さんがクラマーさんに言われたように、「シンプル」「コレクト」「チャーミング」、この3つなんですよ。この3原則はサッカー中継の基本です。

 

いつまでもそのプレーについてものは言わぬこと。正確に言うこと。間違いはいけません。それで言葉を選んで、チャーミングな言葉を使う。この3つ。あとはいらないんです。

 

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今のサッカー中継について思うこと

後輩に一言、と言いますか。新しい時代のアナウンサーに考えてほしいことがあります。

 

1968年4月13日に「三菱ダイヤモンドサッカー」がスタートした当時の世界の人口は38億5,000万人ぐらい、サッカーファミリーが5億人ぐらいでした。現在、世界の人口は間もなく80億人、サッカーファミリーは約20億人。そしてテレビは前回2018年ロシアワールドカップの視聴者がのべ35億7,200万人と、時代は大きく変わりました。

 

ですが今の実況放送は旧態依然。昔の「投げました」「打ちました」「取りました」と同じことを言ってますね。野球の放送と同じようにサッカーの中継をやってるじゃないですか。

 

変えたらどうですか。「センタリングが入った」「シュート来た」なんていうのは必要ないでしょう。「クロスが入った」もいらないですね。「ボールを回収した」って、ゴミじゃないんだから。そういう言葉は止めてほしい。

 

半分以上の言葉はいらないんじゃないですか。いろんな人がガチャガチャいて、勝手なことを勝手にマイクロフォンの前で言ってて、あれはうるさいですよ。「シンプル」「コレクト」「チャーミング」でいいんです。

 

たとえば選手の名前だけで、あとは解説の方が「今連携プレーでこの3人はこういうことを狙っていた」と言うだけでもいいと思います。効果音としてのアナウンスが必要ならば「シュート」「ゴールイン」といういい方を10通りぐらい持ってほしいのです。

 

私は表現をいろいろ変えていますよ。私はループシュートという言葉を日本で初めて使ったのですが、フッと入るシュートだから「ラモス、ループシュート、ゴールイン」と言いました。釜本さんがインステップでズドンという、ディフェンダーがぶっ壊れちゃうくらいの勢いでシュートした時には「釜本シュートゴールイン」ですよ。声と力を入れ過ぎず、そして美しい強さを感じさせてください。全部話し方を変えればいいじゃないですか。

 

1969年か1970年にZDFというドイツ第2放送でブンデスリーガの放送を最初に見たとき、カメラがスタンドの中央の上段とゴール裏の中段に置いてあって、この2台のカメラと画面の切り替えだけで放送していました。

 

アナウンサーが話すのはほとんど選手の名前だけでびっくりしましたね。ZDFのディレクターに「なぜコメンテーターは喋らないのか」と聞いたら「みんなが知っているからしゃべる必要がないんだよ」って。時は流れて、今、ZDFでもうるさいくらいしゃべるようになりましたが。

 

もっと日本の放送もエクセレントになるように、みんなが研究しなきゃダメです。しかも今は新型コロナウイルスの影響でスタジアムに入られない人が多いのだから、余計にみなさんの代表として一緒に見ているように放送しなきゃいけません。

 

私は女性アナウンサー、キャスターにも100人単位で教えてきました。女性は声帯の使い方が違うんじゃないですか。全体的に女性は高い声を出してしゃべれば若いと思われているんですよ。そういう流行なんです。

 

「演歌の花道」のナレーター、来宮良子さんが好きです。「浮世舞台の花道は、表もあれば裏もある。花と咲く身に歌あれば、咲かぬ花にも唄ひとつ」。こういうアーティキュレートされた、日本語には美しい音韻であるんですよ。

 

余談ですが寅さんの啖呵売もそうでしょう? 「豆腐屋の娘、色が白いが水臭い」「チャラチャラ流れるお茶の水」とかね。あの啖呵売も研究された日本語なんですよ。そういうものを今のアナウンサーに研究してはいかがでしょう。

 

それから最近ですと、解説者が他の解説者に対して丁寧語を使うんです。そもそも解説が3人も4人もいらないだろうというのもありますね。その3、4人が視聴者を置き去りにしてマイクロフォンの前で遊んでいる感じがします。

 

放送をする上で一番大事なのは、見ている少年、少女なんです。その人たちに日本語も教えなければいけない。自分より年下の、一緒にマイクの前に立った人に対して丁寧語を使うのは間違いです。

 

「さっき、○○君が指摘しましたが」でいいんです。それが日本語です。私は岡野さんに対して「岡野さんがご指摘のように」と使っていました。そういうことが乱れていますね。過剰敬語ばかり使うと歯が浮く。そして真実味が薄れてしまいます。

 

とんねるずの石橋貴明さんが言っていましたね。「サッカーの選手はみんな同じに見える」って。アナウンサーも、どのアナウンサーがやってもみんな同じになっています。だから本当にサッカーを愛しているのか分からないですね。

 

今のアナウンサーにはもっと純粋にサッカーというスポーツを、新しい時代で研究してほしい。本体はサッカーなんですよ。それをどう美しく表現するかを解説の方に伺うのが視聴者代表のアナウンサーの役割なんです。私は意見なんて何も言ったことがないんですよ。

 

何もアナウンスなんていらない。「○○さん」って話を解説の人に振ればいいんです。そうしたら解説の人がしゃべって、またしばらくして「○○さん」って呼びかける。岡野さんはそうでした。

 

私は1974年西ドイツワールドカップのときに岡野さん、二宮さんと何試合か放送しましたが、私はほとんど喋らないで、黙って岡野さんと二宮さんの顔を見ましたよ。そうすると岡野さんも二宮さんに対して多少の遠慮があるので、メインスポークスマンは岡野さんですが、岡野さんが二宮さんに水を向けるんです。

 

二宮さんはオランダとドイツに住んでいらしたから、一番分かっているんですよ。だから二宮さんが話せば放送はそれでいいんです。あと何もいらないじゃないですか。

 

だってすごいメンバーでしょう。クライフをはじめとして、ベッケンバウアーもベルティ・フォクツもいて、黙って見ていれば世界最高水準のサッカーがそこに展開されている。私の役割はミュンヘン競技場のドイツの勝った時の喜びを伝えることだけでした。でもいい放送だったと思います。

 

「葉山 パッパニーニョ」に来るとすごく幸せ

ところでなんでぐるなびさんがサッカーなんですかね?

 

私のおすすめのレストランは当然「葉山 パッパニーニョ」です。ベッケンバウアーさんが名付け親の店ですね。コーヒー、ココア、どれもオススメですし、食べるものは地産地消です。そして富士山と相模の海ですね。

 

ここは食の満足感だけじゃなくて、このカフェという舞台装置の満足感もある場所です。舞台もやっぱり食を助ける重要なセッティングだと思います。それからオーナー、従業員の方ですね。そういう方たちがいるから、ここに来るとすごく幸せですよ。何度か1人でタクシーでここまで来たぐらいです。

 

それから僕はお料理を作るの好きなんです。得意料理は焼きそばか鶏の唐揚げですね。ちゃんと若鶏の肉を買ってきて、スパイスを振るところから自分でやります。孫がみんな好きなんですよ。

 

孫が全部集まるとファミリーは14人いるので、ちゃんと若鶏を何羽か買ってきて、叩いて、ニンニクも青森ニンニクを使ってちゃんとおろして、6時間から7時間つけています。それから小麦粉をまぶしてで大きな鍋で揚げるんです。

 

そうすると子供たちがキッチンの周りで待ってるんですよ。「おじいちゃんまだ?」なんてね。揚げ物って揚がったら音が変わります。音が変わったのを確認して引き上げて、それでしばらく蒸すんです。私は冗談じゃなくて針一本落ちても分かりますからね。耳に視力みたいな「2.0」ってないのかな(笑)。

 

紹介したお店 

 

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photos by 平林健三/日本蹴球

 

金子勝彦 プロフィール

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中央大学を経て1957年、新日本放送にアナウンサーとして入社。その後、東京12チャンネル(現・テレビ東京)へ移籍し、「三菱ダイヤモンドサッカー」など数々のサッカー番組を担当。テレビ東京を退職後もサッカー実況や司会を担当し続けている。1934年生まれ、神奈川県出身。

 

著者プロフィール

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

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