僕には今でも愛社精神がある…黒崎久志が語り継ぐJリーグ以前の時代【ごはん、ときどきサッカー】

サッカージャーナリスト・森雅史がお送りする「ごはん、ときどきサッカー」は、サッカー関係者の人生をテーマにしています。第11回は元鹿島アントラーズで日本代表だった黒崎久志さんにご登場いただきました。現在は中国スーパーリーグ山東魯能泰山のヘッドコーチに就任し、異国の地で挑戦を続ける黒崎さんに、Jリーグが始まる以前の日本サッカーについて、様々なエピソードを披露していただきました。 (六本木のグルメブラジル料理

僕には今でも愛社精神がある…黒崎久志が語り継ぐJリーグ以前の時代【ごはん、ときどきサッカー】

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©TOMIKOSHI PHOTOGRAPHY

 

2021年2月、1人の元日本代表が中国を目指した

激動のサッカー人生はアマチュアからスタートした

ところが入った会社はJリーグへの参加を見送る

だがあえて1年間そのチームに残った

 

そんな黒崎久志には今も1人の指導者の影響が残っている

それは自分を鹿島アントラーズにも引っ張ってくれた恩師

自分のサッカー人生と食事を振り返ってもらったとき

最初から最後までその名前が出てきた

 

本田技研で出会った宮本征勝という恩師

今の若い人ってJリーグが出来る前のことをもうあまり知らないですよね。僕は1987年に高校を卒業して本田技研に入り、社会人として働きながらサッカーをしてたんです。本田技研に行くことになったのは監督だった宮本征勝さん(故人・1968年メキシコ五輪銅メダル、鹿島アントラーズ監督)に熱心に誘っていただいたからですね。

 

他のチームからもお誘いはいただいてたんです。5チームぐらいかな。後に日本代表監督になる方にお会いしたりとか、日本代表のコーチになる方に話をしてもらってたりとか。大学に行く話もありましたし。

 

その当時の日本サッカーリーグ(JSL)の中で本田技研は新興勢力だったんです。御三家の三菱重工、古河電工、日立製作所に加えて、ヤンマー、読売クラブ、日産自動車が強豪だったんですけど、宮本さんが早稲田大学の監督から本田技研に来て、関塚隆さんとか早稲田出身の人を呼んでチーム作りをしていく中で、次第に力をつけてたんです。

 

若さも勢いもあって、これからのチームという感じで、そこに宮本さんから「育てたい」という話をいただいて。それで自分も本田技研に決めました。

 

当時はプロリーグが出来るなんて噂もないです。自分が会社に入る前の年の1986年に奥寺康彦さんがドイツから帰ってきて、木村和司さんといっしょに国内初のプロサッカー選手になったってころですからね。

 

自分も小さいころから「三菱ダイヤモンドサッカー」というテレビ番組を見て「海外でプロサッカー選手になりたい」っていう夢は持ってて。本田技研で頑張ってやれば海外への道は開けるかな、と思ってたんです。

 

実際、本田技研でも「海外研修」ということでブラジルに半年行かせてもらったり、日本サッカー協会に手配してもらって、デットマール・クラマーさん(故人・日本サッカーの父と呼ばれる1964年東京五輪チームのコーチ)の伝手でバイエルン・ミュンヘンに練習参加させてもらったり、貴重な経験をさせてもらってました。

 

でもアマチュアですから、会社員として午前中は働かなきゃいけないんですよ。朝8時始業でだいたい12時までラインで働くんです。本田技研の白いつなぎを着て、緑色の帽子を被ってバイクを作ってました。いろんなバイク作ってましたね。それこそ1300ccの大きなバイクだったりとか。その足回りみたいなのを作る「車体組立課」っていうところに配属されてたんで。

 

体が大きいからか、力があるからか知らないけど、車体組立ってフレームだったりそういう重たいものを使うから、車体組立課にはサッカー部の他の選手もいました。午前中だけでも結構大変な作業でしたね。ずっと立ちっぱなしだし。

 

でも、周りの主任さんなんかがうまく自分のところに入ってサポートしてくれてたんで、慣れれば楽しかったですね。それにラインの最後に出来上がるバイクのかっこよさもありましたんで。高卒だとだいたい2年ぐらいはそういうラインの現場に入って、2年経つと事務的な仕事に回るみたいでしたね。

 

午前中の仕事が終わるとかなりクタクタで、12時になったらいそいで食堂でご飯食べてました。若かったから1食じゃ足りなくて、食券2枚買って2人分食べたりしてましたね。ちょっと休んで15時ぐらいから練習でした。

 

練習は2時間ぐらいで、それから1時間ぐらい筋トレでしたね。若手だとどうしても筋トレがマスト、やらなくちゃいけないんで。それに当時50歳ぐらいの宮本さんもみんながやってる横で自分も筋トレを黙々とやってるんですよ。選手以上に。だからこっちもやらなくちゃいけないんです。

 

それから本田技研に入ってすぐは、筋トレの前に宮本さんと向かい合わせでボールを蹴るっていうキックのトレーニングが毎日30分ぐらい、3カ月ぐらいだったと思うんですけど、やってました。

 

30〜40メートルぐらいのキックを宮本さんと向かい合わせでやるんで、もちろんちゃんと蹴らないといけないから緊張もしてたけど、でも野球のキャッチボールじゃないけど、上手い人のボールを受けてると、だんだん自分が成長してるっていうか、球質だったりとか、そういうのが自然と似てくるっていうか。宮本さんは3カ月間ミドルキックの練習をやったら、次の3カ月間はヘディングの練習をさせるわけです。それが後に生きたんですよ。

 

仕事もやってましたけど、会社はすごくサッカーに理解があって、サッカーも盛んな場所でした。当時のJSLで本田技研とヤマハが試合をする天竜川決戦は、自分が入社する前は本当にすごかったらしいですけどね。

 

たくさんの人が見に来て、選手たち以上に周りの、会社の人たち同士が熱くなってしまう雰囲気があったみたいな。ケガして倒れてる選手がいたら相手チームの応援に来てる人たちが「試合の邪魔だから」ってピッチから外に出しちゃった、なんて話を聞いてました。

 

当時思っていた将来像は、30歳ぐらいまでこのサッカー部でやって、その後また仕事かなっていう感じでしたね。本田技研っていう会社は、トヨタほどメジャーじゃなかったと思うんですけど、これから伸びていくっていう、そういう会社の雰囲気だったし、いろんな人の話を聞いて、これからもしっかりして伸びていくだろうって思ってました。

 

他の同期入社した人に比べると、自分は午前中だけで抜けちゃうから仕事の面では多少遅れちゃうなっていうか、そういうのは少し感じた部分っていうのはありました。けど、ある意味サッカーで会社に入ってるようなもんだから、そこから頑張って日の丸付けるようになれば、何か違う道がまた開けてくるかなって想像してました。

 

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©TOMIKOSHI PHOTOGRAPHY

 

古巣への愛と鹿島アントラーズへの移籍

そしてJリーグが始まる1993年の2年前、1991年に本田技研はJリーグ参加見送りを発表したんですよ。それは結構自分としてもショックだったというか。本当にこれから日本リーグの中で優勝が狙えそうだったし、プロができたらそこでも優勝できるようなメンバーもたくさんいましたし。力をつけて、成長した部分っていうのはあったんで。

 

Jリーグに参加する、プロになるっていうことに対して宮本さんもすごく力を入れて、いろいろ動いてくれてたんです。もう最終的にトップのところでそういう判断が下されたっていうところで、うん……。そこはすごくなんか残念だったっていうか。

 

だって僕は本田技研に対する愛社精神が今でもありますからね。最初に入った会社ですし。それに本当にいい人っていうか、浜松って口は悪いですけど情に厚いというか、工場って本当そういう気質の人がたくさんいたんで。

 

それで宮本さんが鹿島アントラーズに移って、1992年のシーズン前にそこから引っ張ってもらったんです。そのときに本田泰人だったり長谷川祥之だったり、それに内藤就行さんとか、自分含めて6人、本田技研から行ったんです。

 

その前年度に本田技研からいろいろ他のチームに移っていって、北澤豪だったりとか勝矢寿延さんだったりとか、半分ぐらいはJリーグに参加するチームに移籍してたんですよ。でも僕は、1年待ちました。最後ね、プロになるギリギリまで本田技研で活躍したかったっていうのがあって。バラバラになるんだったらちょっとでも何か本田技研に残せるよう、最後にいい成績をあげたいって1991年までやったんです。

 

結局、1991年のカップ戦では2つとも準優勝までいったんですよ。JSLカップ(リーグカップ)は読売クラブに3-4だったし、ヤマザキナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)の前身だったコニカカップでは、決勝戦でトヨタと延長戦まで戦って5-6とか、それぐらいのすごいの点の取り合いを国立でやってたんです。

 

今、本田技研の時代を振り返ると、すごくしんどかったですけど、大変だったけど、すごく貴重な経験はできたって思いますね。アマからプロに変わる、そこを経験してる人はそんなにいないじゃないですか。それを選手として体験できた、日本サッカーの歴史の中でもすごく大きな過渡期に、そういう場にいられたっていうのは、すごく幸せだと思いますね。それに今でも本田技研はずっとアマチュアのトップチームの1つでいてくれるから、やっぱりOBとしてもうれしく思ってます。

 

それに最初に会社でいろいろと社会人としての研修をちゃんと受けられたのはよかったと思うんです。サッカーを離れれば1人の社会人として見られるわけだし、それに本田技研という看板を背負って試合をやってたという経験は、現役終わった後に生きたかなって思ってます。

 

鹿島に入ってプロになって、今度はサッカーが仕事になりましたし、Jリーグを成功させなければいけないっていう責任も感じてましたね。それからプロとしてサッカーでご飯を食べていくっていう大変さだったり、個人としては試合出るための大変さっていうのはありましたね。

 

1993年にJリーグがスタートしたんですけど、5月16日の名古屋との開幕戦はベンチに座って終わってしまったんですよ。シーズン前から日本代表の合宿に行ってて鹿島の合宿には参加できなくて、その間にチームが出来上がって。代表選手なのにレギュラーとしてピッチに立つことができないという悔しさがありました。

 

日本代表っていうのは1番トップのチームじゃないですか。そこに入ってることはすごく名誉なことなんですけど、それなのに自分のチームでは試合に出られないっていう。そういう時期は苦しいっていうか。

 

ただ、個人としてはすごくショックだったんですけど、チーム作りの大切さだったり、チームが開幕戦で名古屋に対していいサッカーをして、ジーコがハットトリックしてアルシンドが2点取って5-0で勝利してね、これがプロっていうもんだなっていうのを教えてもらった1つのきっかけでしたよね。自分がその鹿島のピッチに立つために何をしなくちゃいけないか、すごく考えさせられて。

 

プロとして試合に出られるチームに移籍したほうがいいんじゃないかとか、そういう考えもちらほら自分の心の中にはあったんですけど、でもやっぱりそこで宮本さんが監督だったというのもあって留まりました。

 

それからジーコがある日、鈴木國弘通訳を介してサシで話をしようと言ってきてくれたことがあったんですよ。自分のうっぷんがすごい溜まってるのが態度に出てたかどうか分からないし、周りの人もそう思ってたかどうか知らないんですけど。

 

ジーコは、僕のことを理解してるし、ジーコもそういう経験をしたことがあるから悔しさは分かるって。「でも必ずチャンスが来るからそのためにしっかり準備してくれ」みたいなことを言われたんです。そういうのを見極めてくれていたというか。それに救われましたね。

 

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困難を承知の上で中国行きを決めた

僕が日本代表に最初に呼ばれたのは横山謙三監督のときで、1989年5月5日にソウルでやった韓国戦でデビューしたんです。20歳でした。そのあと1990年イタリアワールドカップ予選で1989年6月25日の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)にも出てます。そう考えると日本代表としては順調にというか、恵まれてました。

 

それで1994年12月、加茂周監督が就任して、最初の頃はケガで選ばれてなかったんですけど、そのあと試合に絡めるようになって、1995年2月にダイナスティカップ(現・E-1選手権)で日本が優勝したときや6月にイングランドのウエンブリースタジアムでやったアンブロカップのメンバーにも選んでもらってたんです。

 

当時、日本代表はみんな「日本を強くしたい」「ワールドカップに出たい」という思いがめちゃくちゃ強くて。それにJリーグを成功させたい、そのためにやっぱ代表が強くないと、Jリーグも盛り上がらないだろうみたいな感じで。

 

ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)の人たち、ラモス瑠偉さん中心に、柱谷哲二さん、都並敏史さん、北澤とかカズ(三浦知良)さんとかいて、そこに横浜マリノス(現・横浜FM)の井原正巳さんがいて、他にゴン(中山雅史)ちゃんとか僕がいて、みんなサッカーが好きでしょうがないというか、サッカーがないと生きていけないような人たちが揃ってたから(笑)。

 

一緒に練習しててすごく楽しかったですよ。みんな練習から本気になって、文句の言い合いやケンカになるくらいだったし、そうやってみんなでチームをよくしようって思いは一緒だったんで。ただ、自分はケガ持ちだったりしたんで、1997年の途中ぐらいまでは代表に入っていたんですけどね。最後ケガで外れて、それから呼ばれなくなったっていう感じでした。

 

そのとき年齢は29歳ぐらいで、その当時若い選手が、たとえば城彰二とかが出てきてたんで、そこに押される形になっちゃったのかな。ワールドカップが1996年だったらよかったんですけどね。それだったらちょうどいい時期だったかもしれないですね。

 

1998年フランスワールドカップは、やっぱり自分もその場にいたいという、そういう悔しい思いはありました。けど「日本がどれだけできるのか」って、ある意味客観的に見てましたね。メンバーが発表されるまでは主観的に見てましたけど、そのあとは日本のレベルがどういうものかって考えてました。

 

そして選手でいれば日本代表に入る可能性はあるし、どこでプレーしてもプロとして最高のパフォーマンスを見せてたら、その結果として日本代表に呼ばれるだろうと思って、「やれることをやるしかない」と考えてました。

 

ただそれと同時に、ある程度年齢行くと自分の夢を次の世代、若い人に託すという役目もあるのかな、って思いながらやってました。

 

そのときの気持ちとまるで同じというわけじゃないんですけど、1月末までアントラーズのアカデミーのテクニカルコーチという役を担当してました。どれか1つのチームを持つんじゃなくて、アカデミー全体を見るようなコーチですね。

 

1人ひとりを見て、プロになるためにはどうしたらいいのかってアドバイスをしたり、試合だったりトレーニングの中で行き詰まってるっていう選手に一声かけたりだったり。プロになるためには何が必要かということを話すという感じですね、自分も50歳も過ぎて、みんな孫みたいなそんな感じでしたよ。昔、ジーコが僕にしてくれたようなことをしてました。

 

2010年から2012年まではアルビレックス新潟で監督をやりましたし、まだまだ監督をやりたいという気持ちは持っています。今まで自分が教えてもらった指導者って現場主義の熱い人たちばっかりだったし、そういう人たちの思いっていうか、背中を見て育ってきてるんで、自分もそういう人たちに追いついて追い越したいじゃないけど、そういう指導者になれるようにどんどんこれからもチャレンジしたいって。

 

それで2月から鹿島を離れて中国スーパーリーグ山東魯能泰山のヘッドコーチに就任することになりました。鹿島に残る道もありましたが、覚悟を決めて新たな挑戦をします。困難は承知の上でいろいろ経験してキャリアアップが出来たら、と思っています。

 

こうやってチャレンジできるのも多くのサッカー仲間や家族のおかげだと思います。しばらく日本を離れることになりますが、頑張ってやってきます。中国国内でもアカデミー含めて施設環境が素晴らしいと言うことで楽しみにしています。新型コロナウイルスが落ち着いて海外に行き来が出来るようになったら、ぜひ遊びに来てください。

 

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©TOMIKOSHI PHOTOGRAPHY

 

オススメはやっぱりシュラスコ、新潟ならノドグロ、鹿嶋市なら宮本ステーキ

僕はオススメのレストランっていっぱいあるんですよ。ただその中でもやっぱりシュラスコだったブラジル・レストランになりますかね。シュラスコの雰囲気だったり、食べ放題だったりというのが好きで。

 

今はだいぶ食べる量も落ち着いてきましたけど、選手時代はすごく食べられたというか。シェラスコの店で「もう肉がない」って言われたこともあります(笑)。通っていたのは鹿島の「レストラン ベリンバウ」や東京の「バルバッコア」だったりです。どちらもおいしいですよ。

 

バルバッコア 六本木店
〒106-6105 東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズウエストウォーク5F
8,000円(平均)

 

新潟のときはやっぱり魚でしたね。ノドグロだったり。冬場はカニですね。駅前によく通っていた、「葱ぼうず」という郷土料理のお店があったんです。地場の食べ物がたっぷり置いてる店で、ぐるなびで探してみてください。ノドグロは東京だと高級かもしれないんですけど、新潟だとリーズナブルです。駅から近いので遠征したときにもいいですよ。

 

あとは鹿嶋市の「とんかつ きたき」は紹介しておかなきゃいけないですね。ここは鹿島の新人選手が必ず先輩に連れて行ってもらうところなんです。おすすめはもちろんトンカツなんですけど、ステーキも美味しいんです。

 

裏メニューで「宮本ステーキ」っていうのがあって、宮本さんが食べていた塩コショウだけで味付けしたステーキなんですよ。メニューには「ステーキ」ってだけ書いてあるんで、「宮本風で」っていうと「宮本ステーキ」が出てきます。頼んでみてくださいね。

 

葱ぼうず
〒950-0911 新潟県新潟市中央区笹口1-10-1
5,000円(平均)

 

黒崎久志 プロフィール

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©TOMIKOSHI PHOTOGRAPHY

宇都宮学園高等学校を経て1987年に本田技研へ入団。89年には日本代表入りし、その後アントラーズへ移籍し黄金時代を支えた。指導者としても監督やコーチを歴任し現在は中国・山東の地で挑戦中。1968年生まれ、栃木県出身。

 

著者プロフィール

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

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