審判を辞めなくてよかった…誤審で世界を騒がせた大塚晴弘が仲間たちと泣いた日【ごはん、ときどきサッカー】

サッカージャーナリスト・森雅史がお送りする「ごはん、ときどきサッカー」は、サッカー関係者の人生をテーマにしています。第7回はJリーグのレフェリーを務め、過去には国際審判員、プロフェッショナルレフェリーとしても活動した大塚晴弘さんにインタビューしています。過去の誤審、復帰までの道のり、そして経営するカフェについても伺ってみました。 (姫路のグルメカフェ

審判を辞めなくてよかった…誤審で世界を騒がせた大塚晴弘が仲間たちと泣いた日【ごはん、ときどきサッカー】

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もう日本では覚えていない人が多いかもしれない

2016年のリオ五輪アジア最終予選で誤審があった

韓国とヨルダンが戦う試合で

副審の判定が誤っていたのだ

 

1回の旗の間違いで

副審の人生は大きく変わった

彼が築いてきた地位は

ガラガラと音を立ててすべて崩れ去った

 

生活をかけているのは選手だけではない

朗らかで良くしゃべる大塚晴弘副審だが

その時の話では言葉を詰まらせる

その後の話とともに語ってもらった

 

国際試合で痛恨のミスジャッジ

2016年1月、リオ五輪のアジア最終予選を兼ねたU-23アジア選手権がカタールで開催され、当時、国際審判員でプロフェッショナルレフェリーだった私は準々決勝、韓国vsヨルダンの副審を務めました。

 

あの大会はアジアから33名のレフェリー、主審と副審が招集されまして、レフェリーにとってもリオ五輪本戦に行けるかどうかという選考になっていたと思います。日本からは私が主審の佐藤隆治君と一緒に参加させていただきました。

 

グループリーグを3試合担当して、なかなかいい評価をいただいていました。毎日、前日の試合の振り返りをして分析するんですが、際どい見極めで結構いいシーンがあって、「やっぱり日本のレフェリーはいいな」みたいになり、準々決勝のレフェリーに選ばれたんです。

 

試合は韓国が1点先行し、いくつか際どい場面がある展開の中で、後半にヨルダンが反撃したときのことです。

 

ヨルダンの選手が右サイドを深くえぐって私の目の前からマイナス気味にクロスを上げ、中央の選手がオーバーヘッドでシュートしました。ボールはゴールに向かってなかったのでミスみたいになりましたが、そこに別の選手がいてヘディングシュートしたんです。

 

それで……結論から言えば私のミスジャッジです。本来は得点とするべきシーンだったんですけど、オフサイドと判定して旗を上げてしまったんです。本当にヨルダンには申し訳ないと今も思います。

 

私の目の前にいるクロスボールを上げた選手はオフサイドポジションにいました。ですがその選手はその後のプレーに関わってないんですよ。そしてヘディングした選手はオフサイドではありませんでした。

 

副審はゴールライン近くまでドリブルした選手がいるときは付いていって、ラインからボールが出ないかどうかを確認しなければいけませんし、そこでのプレーやクロスが上がった後のシュートのときにファウルがないかも見ます。

 

でも副審の任務で一番重要なのは、しっかりとオフサイドラインをキープし、オフサイドの反則があるかどうかを見極めることです。

 

私は最初のクロスボールが上がるところでゴールライン付近まで付いていって、クロスが上がったときは一生懸命戻ってるんですけど、オフサイドラインまで戻り切れていませんでした。しかもオーバーヘッドを凝視してしまったんです。

それでパッと目を移したときにヘディングした選手がオフサイドポジションに見えてしまって。

 

私とヘディングシュートした選手の間に韓国DFが2人いて、見えにくいので頭を傾けて覗く感じになってしまったんです。それが余計に間違えた判定の要因になる動作にもなって。

 

副審の一番の基本はラインキープなんですけど、位置がずれると間違って見えてしまうんです。オフサイドラインになる後方から2人目の競技者は常に入れ代わるんですが、それでもラインから5センチもズレてはいけないんです。

 

できればミリ単位でラインの上げ下げに付いていくんですよ。だから副審は本当に専門職なんです。

 

国際サッカー連盟(FIFA)やアジアサッカー連盟(AFC)からは、正しい位置にいて正しいジャッジが出来たら「素晴らしい」と言われます。ですがラインからズレていて正しいジャッジをしても「お前はラッキーボーイだ」「ただのラッキーだよ」と評価されるんです。常に正しい位置にいることが求められるんですよ。

 

常にオフサイドラインをキープするというのは物理的、時間的に難しいかもしれないんですけど、それをできるかどうかが、ワールドカップ本戦や五輪に行けるかどうかの大きな分かれ目なんですよ。そういう際どい場面が起きないという運もレフェリーには必要かもしれませんし、そこを難なく見極め、正しく判定できるのが大きな差であると思います。

 

ミスがないように我々も研鑽を日々積んで常に努力を重ねてはいるんですが、難しいシーンってやっぱり出てくるし。それをやっぱり乗り越えるのがプロであるし……。ということをね、本当に深く感じた……あの大会であの試合、あのシーンでした。

 

オフサイドになったときってヨルダンの人たちは何も言ってなかったんですけど……でもやっぱりああいう1つの判定で大きく……人生すら大きく変わってしまうと思うので。結局、試合はヨルダンが0-1で負けて、試合の終わった後に非難の声が来ました。試合終了直後にヨルダンのコーチがやってきて「映像を見ろ」と。「あれは絶対オフサイドじゃないから」と言われましたし。

 

レフェリーアセッサー(審判を評価する立場の人物)も、普通は試合直後にジャッジについてあまり言わないんですけど、そのときは審判控え室に入ってきて即座に「申し訳ない。我々のミスだ」っておっしゃったんです。私1人のミスなんですけど、アセッサーの方もチームという形で「我々」と言ってくださって。私も「ああ、そうなのか……」って。

 

インターネットのニュースにはすぐ載りましたね。そしてこの準々決勝の翌日の午前中、大会の最後まで残る、あるいはもう帰国させられるレフェリーがブリーフィングで発表されました。佐藤君は最後まで残ったんですけど、私は当然帰るリストに名前がありました。

 

えー……。ホント、全員、32人のレフェリー全員が……私のところに来てくれて……。予選グループのパフォーマンスは見てくれてたし、お前は本当に良くやったってみんなハグしてくれて……。みんな……泣いてましたね……。私も……泣きました。悔しさと申し訳なさと……そういう言葉をかけてくれる仲間が温かいと思ったし……。

 

そのあと……うーん……結局あの試合のあと……一定期間海外の試合の割り当てが停止になって。でも、それはしょうがない。

 

そして2月からはJリーグがスタートしたんです。私としては、あのミスに対して物理的、技術的、心理的とかいろんな要因を考えて、分析できてたつもりではいました。Jリーグでは割り当てもいただいてました。ただ、自分の思ってる以上に精神状態も……頭も整理が出来てなかったなって。今振り返ると思うんですけども。

 

Jリーグでもオフサイドのミスがいくつか続いたんです。オフサイドじゃないのにオフサイドにしたり、オフサイドを見逃したりという両方ありました。ひどい精神状態だったんだなって、今振り返るとやっぱり思いますね。そこはでも……うーん……何とかクリアして、乗り越えていかなきゃいけないので、何とか踏ん張ってはいたんですけども……。

 

そのころ、ちょっとうれしかった出来事があったんですよ。1月にミスがあってから、3ヶ月経った5月にアジアチャンピオンズリーグ(ACL)の割り当てが来たんです。自分でも「あれ? 行っていいのかな」って最初思ったんですけど。

 

過去には大きなミスジャッジをして、国際審判員の資格停止になった方もいますし、だから3ヶ月で復帰したときは軽すぎるとか、もう国際審判としては終わりだろうという意見もありました。でもそこで任せたいというお声もいただいて。

 

そのACLの試合を任されて……で……すごくうれしかったですね。正直、もうこれで国際試合は担当せずに終わってしまうのかなって思うぐらいだったんですけど……そこで担当させていただいて……。うれしかったし、その試合はミスなくできたんですけど、でもやっぱり立ち直るってそんなに甘いもんじゃないと思ったのが……うーん……。

 

その後、やっぱりJリーグでも自分の状態が良くなくて。自分から日本サッカー協会(JFA)のスタッフの方に相談させていただいて、今後の国際審判員としての活動も、Jリーグもちょっとお休みさせていただけないですかって。体だけじゃなくてね、心もすごい影響があって。

 

だから国際審判としては2016年5月のACLが最後で、ACLが終わってJリーグを何試合か担当したんですけど、それがその年の最後でした。

 

夏には翌年の国際審判員の候補がノミネートされるんですけど、その状態だとやっぱり国際審判員は務められないし。プロフェッショナルレフェリーは「国際副審である」というのが条件でもあったので……当然、復帰が出来なければプロも2016年で終わりだなって……。

 

「これでももう国際審判員やプロフェッショナルレフェリーのキャリアが終わってしまう」という恐怖よりも、これ以上、審判の仲間、選手、チームには迷惑をかけられないという……そういうことで……もう本当に……。そこは残念でした。

 

大学卒業後、自衛隊に所属しながら1級審判員に

私は身長が165センチなんですが小学校から高校を卒業する時までずっとGKでした。身長170センチでGKとFWという二刀流をこなしてたメキシコ代表のホルヘ・カンポスに憧れましたね。派手なユニフォームもそうだし、ペナルティーエリアから飛び出していくタイプですからね。

 

ただケガも多かったんですよ。それでも何かサッカーに関わっていきたいと思ってて。それで中学や高校時代から地元の出身の少年団へお手伝いに行ってたんですけど、その中で「あ、審判面白いな」って感じて、高校卒業してから審判の資格を取りまして、4級審判員からスタートしたんです。

 

今の審判員は高校生から「ユース審判員」と言って資格を取れる制度があるのですが、私のころは高校卒業しないと資格が取れませんでした。そこからずっと上にステップアップしていくんですけど、その都度体力テストやルールテストがあり、実技試験もありました。

 

それで日本体育大学に入った時点でサッカー部に所属せず、神奈川県サッカー協会に所属して審判活動を続けてきました。大学を卒業してスイミングのインストラクターをやったのですが、26歳のときに自衛隊に入隊しました。

 

警察や消防自衛隊の採用試験も受けていたのですが、私の少年団時代のコーチで2級審判員だった恩師が自衛隊の地方連絡本部という部署に勤めてらして、「大塚、自衛隊来いよー」って言われて。審判を目指したのもその方の影響だったので断れないですよね。それで海上自衛官として10年間勤めました。

 

自衛隊は、「体育特別訓練」ということで、サッカーも含めていろんなスポーツをやってるんですよ。当然任務はしっかりやりますが、それとは別にスポーツ、トライアスロンとかマラソンとかいろんな種目もみんなそれぞれやっています。実業団に行くはずだったけど、自衛隊に入った人もいましたし、トップのアスリートもたくさん存在していましたね。

 

そして陸海空それぞれサッカーチームを持ってます。自衛隊としての任務を全うしながら、体力強化のためにサッカーをみんなやってて、「全国自衛隊サッカー大会」というのが毎年4月末に行われるんです。各地域で予選をちゃんとやる本格的な大会です。全員自衛官なんで、相手チームに当たり負けと走り負けはしない。後半になってもバテない。それはもう絶対やらなきゃいけないことでしたね。

 

私がいた神奈川の自衛隊には「厚木マーカス」というチームがあって、今は神奈川県リーグに所属しているのですが、私が入った当時は関東リーグに所属していました。

 

昔、厚木マーカスは関東社会人リーグからJFLを目指していました。ですがJFLに上がると全国に遠征に行かなければいけないということで難しくなりました。また、アマチュアとセミプロにはサッカーのレベルの境目があるんですよ。それでもみんな上を目指して頑張ってましたけど。

 

実は、まだ自衛隊に入る前に、2級審判員として厚木マーカスの練習試合や公式試合も担当していました。それで自衛隊に入るとき、「自衛官として任務を全うしながら審判活動もがんばってほしい」というお声がけいただいたんです。

 

だから普段は自衛官としての任務を全うしながら、厚木マーカスの選手が「体育特別訓練」をするとき、そこに私も一緒に行って、紅白戦になるとジャッジをしたり、審判員としてのスキルアップのための活動をずっと続けていました。

 

入隊したのが2001年です。今、日本のレフェリーの登録者数は全体で約28万人と言われてますが、あのころは約25万人ぐらいだったんじゃないでしょうか。その中で当時、1級審判員は日本全国で170人ぐらいですね。

 

私は28歳だった2003年に一度、1級審判員の受験をしたんです。そのときは不合格でした。1試合ジャッジして、それでダメだったんですよ。

 

今は受験制度が変わったのですが、私たちの時代は全国で30人しか1級審判員になる審査を受けられませんでした。私は関東サッカー協会に所属していたので、700人ぐらいいる2級審判員の中から7人しか受験枠がなかったですね。

 

そして1次試験から3次試験まで1年間かけて実施されるんですけど、1次試験は実技1試合だけなんです。それで2次審査に進めるのはだいたい半分ぐらいになります。実技の試験の時は試験官が2人いらっしゃって、良かった点と改善するべき点を指摘され、次に進めるか、そこで終わりかということが判断されます。

 

2次審査は、JヴィレッジでU-18の全国クラブユース選手権があるとき、そこに泊まって体力テストや試合を何試合も吹いて、そこで2次審査に通過すると、秋口に3次審査があります。関東と関西で1試合ずつ笛を吹くんですよ。

 

1次審査が1試合だけというのは厳しく感じるかもしれませんが、常にいいパフォーマンスができるかどうか判断されるので、そこをクリアーしなければ先に進むことはできません。

2003年は私もヘタクソで1試合でダメだったので、めげずに2004年、2005年と候補にはなるんですけど一皮むけなくて受験できなかったんです。

 

2003年の自分を振り返りますと、自分が中心と言いますか、レフェリー目線と言いますか。自分の評価のためにやってしまってたなと。笛の数も多かったですし、カードもバンバン出ますし、自分としてはやりきった感があるんですが、選手としては「何これ? オレたちサッカーやりたいんだけど?」みたいな感じだったでしょう。だから落ちても仕方がなかったかなと。

 

最初はどうして落ちたかわからなかったんですけど、厚木マーカスに戻って、選手目線、監督目線、スタッフ目線、グラウンドキーパー目線、観客目線とか、いろいろサッカーに関わる方の目線でサッカーをもう一回見返したんですよ。

 

そこで審判員は試合の一員であって主役ではないと考え方を大きく変えました。

 

罰するところは罰するけど、まず選手に安全・安心に、公平・公正で、楽しんでもらうということを一番に重きを置いて臨もうって。そうしたら2006年にまたチャンスをいただけたんです。

 

2級審判員を8年やらせてもらったのは長かったんですけど、でも2003年の悔しさがなかったら今にもつながってないでしょうし。2003年の不合格があって振り返る時間があって、そこでまたチャンスをいただいた。本当にありがたかったですね。

 

2006年は2次試験まではスムーズに行きました。「落ちたらどうしよう」とか、そういうことを一切考えずにやってました。「選手のために」という考えで臨んでいたので、落ちたら仕方がないと思っていましたし、失敗するという頭がなかったですね。

 

最終テストは最初に関西で1試合ジャッジして、最後に関東で1試合でした。大学生同士の試合だったんですけど、一番最初のファウルが試合開始直後3秒だったんです。「ピー」とキックオフの合図をして、最初の選手がボールを蹴ったらそこにアフターファウルでガツンといったんですよ。

 

私はそこでイエローカードを示しました。もしそこでカードを示してなかったら今の私は存在してないです。試合の最初だから「まぁまぁ」となだめるってやりがちなんですけど、それは絶対に許されないファウルでしたし、3秒だろうがなんだろうがしっかりと吹いてカードを示すことが、試合をコントロールする上で大事だと思いました。

 

そうしたら、それで試合がすっと落ち着いたんです。選手の安全とか公平・公正さとかいろんなものを加味して準備していた集大成がその2006年でした。それで合格したんですけど、そのとき1級審判員になれたのは、受験した30人のうち4人でした。

 

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副審のやりがいに目覚め遂にプロフェッショナルレフェリーに

実は1級審判員の受験は「主審」で受けます。みんな審判員を目指すとき、主審になるのが大きな目標だと思うんですね。私も主審として1級審判員になって、最初に担当したカテゴリーはアマチュアリーグのJFLでした。

 

ただ、JFLでは主審も副審も両方担当するんですよ。そしてレフェリーアセッサーの方が良い点と改善すべき点を指摘してくださって、試合後に反省会をやり、後日点数付きでレポートが送られてきます。

 

その点数でカテゴリーが上がるかどうかということになるんですけど、神奈川の名だたる先輩から「大塚は、なんで副審のときは堂々としているのに、主審になるとダメなの」って言われてたんです(笑)。

 

自分でも自分の性格や能力や、短距離が得意だという点を考えると「私は副審タイプなのかな」って昔から思ってました。主審は最終決断を下しますし、責任ある任務なんですけど、副審も実はギリギリのオフサイドを見極めたりとか、得点に関わるすごい専門職でやりがいがあると感じていたんです。

 

やっぱりみんな主審をやりたがるし、学生のころって「おい、誰かラインズマン出せよ」って言われて嫌々やるんですよね。でも私は率先して副審をやってましたし、その魅力をずっと感じてたんです。それで1級審判員になった後の最初の研修会のときにJFAのスタッフの方と面談をする機会があって、「将来的には副審として上を目指したい」と話をさせてもらいました。

 

JFAのスタッフの人や地元の方から不思議に思われたんですけど、ただ、私の中では主審を経験して副審になるのもいいけど、私の性格や能力、31歳という年齢を考えたら、副審で上を目ざしたいという意思表示はしたかったんです。

 

それで1級審判員としての活動が2007年からスタートし、半年間JFLで主審、副審として担当させてもらいました。主審としても実は結構いい評価をいただけたとは思うんですが、副審のほうがより高い評価だったんです。主審を8試合やって点数が良かったんですが、副審4試合ぐらいの評価がものすごく良かったんですよ。

 

それで2007年の後半に入ると、J2の副審担当になりました。そして2008年シーズンからはJ1の副審担当になって、2009年には国際審判員に登録されました。

 

ところがここでいくつかの問題が出てきました。自衛官は国家公務員なので副業が認められないんです。Jリーグは審判の手当てが出るんですけど一切受け取れない。それは仕方がないことでした。

 

ただ国際審判員になると海外にも行くんです。そこで自衛官としての制限が出るのが、行ってはいけない国の存在です。中国やロシア、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とか。当然向こうも受け入れないし。

 

それに休みの日を使って審判活動を行うのですが、Jリーグの試合を担当する数が増えるといよいよ休暇もなくなってきました。それで次の仕事を探さなければならないと思っていた時に、JFAからプロフェッショナルレフェリーのお声がけをいただいて、それで契約する運びとなりました。

 

副審でプロフェッショナルレフェリーになったのは私で3人目でしたね。なりたくてもなれない仕事だったので、自衛隊が嫌だったわけではなくて、もっと自分のスキルアップとかサッカーのために何かできないかと考えたときに、契約を受けたという流れですね。

 

プロフェッショナルレフェリーになって一番違ったのは、自分の生活の全てを審判活動に注げること、そして注げられる契約だったということです。それから1年契約だということですね。

 

契約のお話をいただいたときに、「1年契約で、その先の保証はない。でもそれだけ全力で審判に注げる時間と対価があるから一生懸命やってほしい」「保証がないので、たとえば資格を取ったり、その先のビジョンも考えながら、第3の人生も考えて契約してくれ」という説明がありました。

 

ただ、プロフェッショナルレフェリーになったことで自衛官のときに行けなかった国に行けるようになりました。自衛官のときは年間5、6回ぐらいしか海外に行けなかったんですけど、プロフェッショナルレフェリーになってからは、平均すると年間15回ぐらい、1週間から長い大会だと1カ月ぐらいは海外に行きました。

 

一番多い年で年間合計140日は海外に行ってましたね。1年の3分の1以上は海外でした。帰ってきて、Jリーグの試合を担当して、また海外に行って。海外から別の国に行ってという生活もありました。ただ、そうやって活動できたから、2016年のU-23アジア選手権にも行かせていただけたと思います。

 

 

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辞めなくてよかった…復帰した試合で押し寄せた感情

2016年にあれだけ世界を騒がせる大きなミスジャッジをして、いろいろ書かれました。2016年後半の何もやってないときが、しんどかったですね。

 

そこで国際審判員もプロフェッショナルレフェリーも両方務められなくなり、正直、自分ではもう十分やり切ったと思ったんですけど……。でも、そのときに止めなかったのは体を動かすことでした。以前みたいに無理はしなかったんですけど、ちょっとずつ体も精神状態も戻そうと思って。

 

そうしたら気付いたんです。国際審判員とプロフェッショナルレフェリーいう責任や重圧がポンと外れたときに、めちゃくちゃ肩が軽いって。自分で追い込んでいたというか。あとで分かったんですけど。

 

それで2017年のピッチに立つためにまた2月に体力テストを受けたんです。それで何とか合格して。最初はJ3の担当でした。今まで国際試合とJ1だったんですけど、一気にカテゴリーを2つ落として。今までFIFAのワッペンを胸に付けてたんですけど、1級審判員の金色のワッペンを付けて。

 

それで若いレフェリーと一緒に組んで、2試合担当させていただいて、ピッチに立ったときに泣きそうになりましたね。やっぱり帰ってきたなっていうのと、何と言うんでしょう……。めちゃくちゃ軽かったんです。体も。

 

それまで仮面を被ってやってたんだなって。プロだから、国際審判員だからミスは許されないと自分でがんじがらめにしてて。でもその2つがポンと外れたときに、やっと大塚晴弘としてピッチに立っているなっていうのが実感できたんですよね。なんかこう、あぁやっぱりサッカー好きなんだなって……。

 

サッカーに携わってる思いとかありがたさとか。「自分らしく、楽しんで」というのは語弊があるかもしれないですけど、でも純粋に90分の試合の1分1秒を楽しんで自分らしくピッチに立てるというのはそれまでなかったので。

 

だからホントに、あそこで……本当に……あの復帰した試合をホントに……忘れられないですし、審判インストラクターやアセッサーの方からも、前より生き生きしてるって言われて。だから本当に貴重でしたし、ありがたかったですし、その経験がね、あったから今もこうしてピッチに立ち続けているんだと思います。

 

2017年はJ3で2試合担当した後、残りのシーズンはずっとJ2を担当することになりました。2018年からJ1担当に復帰し、今もなお試合を担当し続けています。

 

今、45歳になってJリーグの試合を純粋に楽しみながら、でも選手のために一所懸命やろうと考えながらピッチにいます。その場所に立てるのは、ホントにありがたいですし、あの時、本当に辞めなくてよかったと思います。

 

レフェリーと並行し食物アレルギーを持った人向けの食堂を経営

最後、ごはんの話ですよね。私、話はしやすいんですよ。兵庫県姫路市大津区にあるカフェ「ametuchi」というのを経営してますから。

 

元々料理は小学校の頃から好きでした。たまに家庭科が得意な男子がいるじゃないですか。それです。私は裁縫も得意なんですよ。自衛官は階級章を自分で縫い付けなければならないんですけど、苦じゃなかったですね。アイロン掛けも得意です。

 

「ametuchi」って「天」と「地」なんですよ。その間の恵みをいただいて我々は生かされてるので。だからその食べ物の大切さをお伝えしたいという思いでオープンしたんです。食物アレルギーを持っているお子さんとか大人の方向けの食事を出してます。

 

たとえばお子様にアレルギーがあると、大きなショッピングモールにも出かけられないという話があるんですよ。フードコートで同じ年代の子たちが美味しそうに食べてるけど、アレルギーがあると食べられない。となると、親御さんとしては、出かけるのも苦になってしまう。

 

アレルギーがある人向けの食堂は、何か1つの材料とかいくつかのメニューをこだわっている店ってあるんですけど、うちの場合は全部こだわろうって。「あそこだったら大丈夫」って、そういう場所をつくりたいと思って。それでスタートさせたんですけど、なんせ材料費がめちゃくちゃ高くて。しかも日持ちもしなかったり、値段も高くなったり。

 

でも兵庫県内だけじゃなくて県外からも足を運んでくださるお客様も多いんです。席数が限られてて、電話予約をいただかないと席と食材が確保できない状態で、ありがたいです。

 

今、面白いのがJリーグのサポーターの方も結構来てくださるんですよ。ヴィッセルとかガンバという近いところの方だけじゃなくて、愛媛とか、磐田とかも。「この前のオフサイドじゃないでしょう」なんて声かけられるんですけど、文句を言うというより会うのを楽しみに来てくださってて。レフェリーと話す機会ってなかなかないでしょうからね。

 

Jリーグが再開して、試合に行ってるときはお店ができないんですけど、今年の過密日程でお休みの日が増えてしまっています。「休みすぎだよ」って言われるので、「休みの時が一番走ってるんですよ」って説明しています(笑)。

 

一番の人気メニューは、そうですね、今はやっぱり「ヘルシープレートランチ」ですね。ワンプレートで日替わりなんですけど、真ん中に平飼い有精卵の温泉卵が乗ってて、山芋のとろろ、ジャガイモとカボチャのマッシュにくるみを混ぜたもの、キャロットラペと言って人参をリンゴ酢とオリーブオイルでちょっとマリネしたもの、チンゲンサイのゴマあえ、なすのミートソース、「車麩(くるまぶ)」という丸いお麩(ふ)があるんですけど、それに味噌やてん菜糖を塗って、米油で揚げたヘルシーな揚げ物で。これ、お肉ですかって言われるくらいなんです。それに鶏胸肉のハムを低温調理器で柔らかくじっくり仕上げ、無農薬のサラダと、アオサの味噌汁。ごはんもこだわって毎朝お店に来てから玄米を五分づきに精米して、黒米を混ぜて炊くんですけど、もちもちの食感がすごい良くて好評なんです。

 

あ、あとそれから似顔絵も描いてます。カフェの営業中はなかなか難しいんですけど、お写真があればお会いしてなくても結婚式のウエルカムボードとか、おじいちゃん、おばあちゃんの還暦とか金婚式のお祝いとか、入学のプレゼントとかいろんな用途で使っていただいてます。

 

実家が小学校の目の前の文房具屋だったんですよ。だから画材って売るほどあるじゃないですか。ホントはサッカー経験より絵を描いてるほうが長いんですよ(笑)。

 

紹介したお店

ametuchi

住所:兵庫県姫路市大津区306-6

TEL:079-227-6109

http://ametuchi.jp/

 

大塚晴弘 プロフィール

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日体大在学中に2級審判員となり、卒業後も自衛隊に在籍しながらレフェリーとして活動。その後自衛官を辞職しプロフェッショナルレフェリーも経験。現在は審判員活動のほかカフェ経営にも挑戦している。1975年生まれ、神奈川県出身。

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

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