名波浩の言葉が忘れられない……44歳で現役を続ける土屋征夫の原点と運命が変わった瞬間

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は東京23FCの土屋征夫選手に登場していただきました。トレードマークのスキンヘッド、高校では書道部、卒業後にブラジル留学しプロ契約を経てヴェルディ川崎へ加入した異色の経歴、田中達也選手との出来事、44歳のいまも現役という驚異的な身体能力など、サッカーファンには印象深い選手ではないでしょうか。そんな土屋選手がプロになるまでの話を中心に、ラモス瑠偉さんや名波浩さんとのエピソードなど、さまざまなお話を明かしてくれました。 (八王子のグルメランチ

名波浩の言葉が忘れられない……44歳で現役を続ける土屋征夫の原点と運命が変わった瞬間

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ブラジルでプロになったものの日本に帰ってきたら練習生

しかもトップチームとは一緒に練習させてもらえなかった

そんな選手が44歳まで現役を続けるとは誰が予想しただろうか

 

そんな土屋はどんなバックボーンを持つ人物なのか

どうやってキャリアを積み重ねたのか

そして土屋が常に脳裏に浮かべる人物は誰か

 

土屋は今、関東サッカーリーグ1部でJリーグ入りを狙う東京23FCでプレーしている

「J5」相当と言えばわかりやすいかもしれない

今も19歳のころと気力は変わらない

 

若手たちがうますぎて苦痛…きつかったヴェルディ時代

辛かった思い出ってプロのサッカー人生に入ってからで言うと、最初の1年目、ヴェルディに入ったときですね。ラモス瑠偉さんとか、カズ(三浦知良)さんとかがみんないたときは、きつかったです。

 

自分は超下手で、練習生から入って、トップチームと一緒になんか練習できなくて。Jリーグを夢見て留学に行って、やっとJリーガーになれたけど、ユースの高校生と一緒に練習して。でも当時のユースには平本一樹や飯尾一慶とかいましたから、みんなすごいうまくて、この中でももうキツいなっていう感じでしたね。プロになったのに。

 

高校を卒業してブラジルに行って、あっちで3チーム、一応向こうではプロでやらせてもらってたんですよ。それで帰ってきたらすごい人たちがいて、自分は予備軍というか。若手たちがうますぎて、毎日が苦痛というか、もう技術的に付いていけない。

 

でもまぁその当時のコーチに「やり続けることが大切」ってすごく言われたし、自分にはそれしかなかった。でもやり続ける中で、少しずつみんな認めてくれて、で、トップに呼んでもらって試合に出たりできたんですよ。

 

最初はサイドバックだったんです。足が超速かったし、それしかなかったんで。「とりあえず走れ」「走ってチームの役に立て」みたいな。とりあえずサイドを走るんです。ボール出てこないけど、とにかく走ってオトリになってという感じです。

 

そうやって試合に出るまでは苦しいというか、あとで考えればいい経験だったってすごい思いますけど、そんときは結構……。すごい人たちにメッチャクチャ言われて。

 

誰って、それはR・Rさんとか、もう(笑)。極端じゃないですか。「すごいよ!!」って言ってもらったり、「もう辞めちゃえ!!」って言われたり。今はすごい仲良くしてもらってるし、当時の人たちは今、すごいよくしてくれるんですけどね。あのときがあったからこそ今があるって。当時はキツかったですけど。

 

そのあとも自分は周りの人に助けてもらって、20年以上Jリーグでプレーさせてもらって。その中で39歳のときには前十字靱帯損傷で6カ月の大ケガもしましたし。それって年齢を考えると普通はサッカー辞めるじゃないですか。

 

でもドクターから「将来は指導者やりたい?」って聞かれて「やりたいです」って答えたら、「じゃあ動けるほうがいいから手術したほうがいいよ」って勧められて。ただ、いざ手術をしたら弱気になって、嫁には「もうキツいよな」って話をしてたんです。

 

そうしたら名波浩さんが手術の翌日に見舞いに来てくれて、自分が「もう無理でしょう」みたいなことを言ったら「いやいや、ふざけるな」って。「リハビリやってみなきゃわかんかいから、そんなこと言うな。ピッチに戻ってやれ!」みたいな。名波さんは病室に色紙を置いてってくれて。そこには「お前は仲間の夢。同じ年代のやつら、仲間たちの希望だからやり続けろ。蘇れ」って書いてあって。

 

それでもう一回やってみようかなっていう気持になったんです。チャレンジしようとしたら、甲府もすごい助けてくれた。みんなが助けてくれるんだから、もう一回プレーしたいって思えたから。いろんな人の助けがあって、また復帰できて。

 

自分はヴェルディでの1年間しか名波さんと一緒にやったことなかったんですけど、すごいよくしてくれて。それでどこのチームに行くときも、契約延長するときとかも、毎回電話させてもらって、いろんな相談に乗ってもらってます。名波さんってそうやって1回関わったというか、そういう選手たちを、アニキみたいな感じで接してくれるんで。いいっすよね。

 

働きたくなかったからブラジルに留学したけど…

幼稚園からサッカーやってたんです。三菱養和クラブに入ってたんですけど、中3のときに引っ越して遠くなったんで、一度サッカー辞めて、高校入ったらまたやろうかと思ってたんです。

 

ところが入った工業高校はサッカーの強豪校でもなかったし、いろいろ面倒くさい上下関係があったんで、サッカー辞めました。だから中3から高3までの3年半、本当に仲間と遊んで暮らしてました。

 

それで高校を卒業するとき、みんなは工業高校だから就職していくんですけど、自分は働きたくなかったんです。仕事、本当にしたくなくて。そんなときに「サッカーでブラジル留学」っていうのを見つけて、親父に言ったんですね。

 

僕は今、6児の父親ですけど、3年半遊びほうけてるヤツからいきなり「ブラジル留学したい」って言われたら「お前、ふざけるなよ」って言うじゃないですか。でも親父は「いいよ。行ってこい」って。親父がどういう気持ちでそう言ったのかわかんないですけど、たぶんブラジルとか異国に行ったら人間的に成長すると思ってくれたのかもしれないです。

 

それで2年の予定でブラジルに行ったんですけど、1年目が終わると帰る子も多かったんで、それにつられて自分も諦めて帰ろうとしたんですよ。それで親父に電話したら「帰ってくるな」って言われて。「お前、2年って言っただろう」って。

 

帰れないからしょうがない感じで、2年目は本当にサッカーをやり続けました。「この1年間やってプロになれなかったら辞めよう」って言って。たぶん、そのときに「やり続けよう」っていう気持ちが自分の中にすごい育ったというか。せっかく助けてくれてる人がいるんだから、負けちゃダメなんだって。

 

それまで自分はすごいガキだったんですけど、そこで一気に大人になったというか、考え方が変わりました。「やんなきゃダメなんだ」「助けてもらってるのにやり続けないで、投げ出して帰ったらただの無駄金だ」って。やり続けて、それでダメだったらダメでしょうがないって吹っ切れるだろうけど、とりあえずあと1年、必死になってやろうと思って。

 

そのとき仲のいい同級生の留学生がいて、彼と一緒に1日に3、4回練習してました。当時はスタジアムの中に住んでたんで、夜は電灯の下で2人で基礎練やったり。本当に365日、ずっとサッカー漬けだったんですよ。

 

そうしたら、そのチームが「プロにならないか」って言ってくれたんです。やっぱりやり続けてることがよかったのかなって。とりあえず一つ目の結果が出たから。もし、あのとき親父が「帰ってきていいよ」って言ってたら自分はプロになってないですよね。

 

今、自分の息子も大学に行ってるんですけど、同じことを言い聞かせてます。「やり続けるのは大事だから」って。それ、自分が20歳のときに思ったことですね。その思いで44歳になってもプレーしてます。

 

その親父は5カ所ぐらいガンになったんですよ。2007年に大宮からヴェルディに移ったのは、親父の近くでサッカーをしたくて。「親父の近くで、親父が見られる距離でサッカーをしたい」って大宮の社長に相談したんですよ。そのとき東京Vの監督だったラモスさんも声をかけてくれたから、それが一番の移籍した要因ですね。

 

親父は亡くなる前に寝たきりの状態になったんです。それでB級コーチライセンス取りに行く前に親父のところに行ったんですよ。正月でした。親父が亡くなったのが1月14日だったんで、その前ですね。

 

正月って高校サッカーやってるじゃないですか。親父の意識って、もう当時はなかったんですけど、自分が行ったらいつも寝たっきりなのに、いきなりむくっと起き上がって「おう」みたいな感じで。「具合どう?」って言ったら起きてベッドに腰掛けて。

 

親父は何もしゃべんないんですけど、自分は「大丈夫だな」みたいな話をして帰ったんです。母親が言うには自分が帰ったとき、ちょうどテレビで高校サッカーが映ってたらしくて、親父はずっとその高校サッカーを見てたって。

 

母親は、たぶんJリーグだと思って見てたんじゃないかって。僕がプロサッカー選手になったことを、すごくうれしく思ってくれてたから。

 

親父の意識があるときにヴェルディでプロになったところを見せられてよかったですね。もしずっとブラジルにいたら見せられなかったから。

 

親父は自分の中では神なんで。すべて自分で道を決めてきたけど、親父にはいつも同意を取ってました。親父は「お、いいよ」ってしか言わないんですけどね。「移籍するよ。どう思う?」「いいんじゃない」という感じで。

 

すべて「いいんじゃない」「いいよ」「やれよ」しか言わないんだけど、自分にとっては必ず同意をもらう最後の人、っていうか。別に相談に行かなくても「いいよ」って言うんですけどね。でも話に行って親父が「いいんじゃない」って言ってくれるだけで、自分が次の困難に向かっていけるような存在だったから。

 

今も必ず何かするときって、お墓参りに行くんですよ。2017年、京都に移籍したときも墓参りに行ったあとに京都に向かって。全部親父のところに報告に行ってます。自分の中で、納得するというかね。何かな。そういう……今はそういう親父になりたいですけどね。子供たちにもそう思ってほしいですね。6人のうち、1人ぐらいはそう思ってくれないかな(笑)。

 

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これまでJリーグはのべ7チーム、いろんなことがありました

これまでにたくさんのクラブに行って、いろんなことがありました。どこのチームの人とも今でも連絡取り合っていて、フロントの人とも仲良くしてもらってます。結局Jリーグではのべ7チームに行きましたけど、それはすごいよかったというか、そういう面がたくさんありましたね。

 

いろんな人と出会って、いろんな選手たち指導者、フロントのやり方を見ることができたから。ビッグチームだったらフロントはこんな感じだとか、あまり大きくないクラブだと、こういうこともしなければいけないんだとか。そういうことを見られたのは自分にとってみるとすごくプラスだったし、人としゃべるのが好きだし(笑)。

 

今は東京23FCというクラブでプレーしてますけど、それもまたいい経験で。最初は環境面で「えっ?」っていう思うこともありましたよ。ブラジルでやってたから、大体のことは大丈夫だろうと思ってたんですけど、練習場は人工芝だし、朝7時から練習だし、そのために朝5時起きだし、風呂はないし。練習後、風呂に入ると入らないじゃ全然違いますからね。

 

でも、みんなこういう中で上を目指してがんばってるのを見てると、一緒にがんばって、目標に向かって行きたいなって思いますね。もちろんプレー面や生活面で甘いところはあるから、そういう部分でも僕ができる限りのことはしていきたいと思ってて。

 

監督は自分より4つ年下なんですけど、最初に話をしたんです。「監督はあなただから。自分は監督をサポートしていくから」って。だから監督がやりたいサッカーを伝えてほしい、それを自分が選手に落とし込むからって。すごいいい監督だし、フレンドリーでフランクな監督だから。難しいこともたくさんあると思うから、みんなで助け合ってやっていければいいと思ってます。

 

好きなのは肉、そしてブラジル料理

好きなのは肉ですね。神戸のときは神戸牛食べてました。今は横浜の港北ニュータウンにある「焼肉ひゃら亭」っていうところがうまかったですね。

 

何でも結構おいしく食べられるんですけど、ブラジルに行ってたからブラジル料理のお勧めの店を教えますね。八王子に「Brasil FUTEBOL Bar NossA(ノッサ)」っていう、ちょっとこじんまりした店があります。

 

ブラジル料理バーというか、料理屋なのかな。カウンターがあってテーブル席は2つぐらいしかない店で。そこは日系ブラジル人のおばちゃんが、料理を作ってて。お肉とかもおいしいし、フェジョンとか、鳥も、ポテトとかも、全部ブラジルみたいな感じです。

 

ブラジル風味も日本風の味も知ってるから、どっち好みでも頼むと出してくれるると思います。ブラジルのお酒もあるし、ブラジルのビールもあるし、ガラナもあるし。楽しい店なので行ってみてくださいね。

 

焼肉ひゃら亭
〒224-0015 神奈川県横浜市都筑区牛久保西2-26-7

r.gnavi.co.jp

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土屋征夫 プロフィール

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田無工業高校を卒業後、ブラジルに留学。現地でプロ選手になり、1997年にヴェルディ川崎へ移籍。1999年に移籍したヴィッセル神戸で開花し、2001年には日本代表候補にも選出される。

その後は数多くのチームを渡り歩き現在は関東リーグ1部の東京23FCに所属。愛称はバウル
1974年生まれ、東京都出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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