引退する前にピッチへ立つことができて良かった……石川直宏が最後に見せておきたかった「生き様」とは

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は石川直宏さんに登場していただきました。Jリーグで活躍し、五輪代表、日本代表など華々しい舞台にのぼりつめながら、昨年、愛するクラブ・FC東京で引退し、選手生活にピリオドを打った石川さんから、ケガとの戦いや揺れ動いた心情を語っていただいております。また、渋谷や吉祥寺近辺のグルメについても少しお話を聞くことができました。 (渋谷のグルメランチ

引退する前にピッチへ立つことができて良かった……石川直宏が最後に見せておきたかった「生き様」とは

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石川直宏はこの連載をよく読んでくれていた。

「いつか引退したときは出てね。ずっと先に」

「そうですね。まだまだ先ですね」

そんな言葉を交わし合っていた。

 

選手にとって引退の日はいつか来るものだが

そんなときはずっと来ないでほしいと思う

ましてケガで引退を決意するなんて

本当に無念だったことだろう。

 

だが石川には引退を発表し

最後に試合に出ることまでに特別な思いがあった

 

最後のJ3ではCKから決勝点のアシストを決め

石川は勝って現役を終えた

それは石川が見せたかった生き様そのものだった

 

 

ケガとリハビリ……このままでは終われなかった

この連載に登場することになったの、意外に早かったですね。2016年も引退を考えてて、結構切羽詰まってたんですけど。だけど、もう1年続けてプレーしてる姿を最後に見せないとというのがあったので。

 

2016年は覚悟を自分でもしてたし。そのときは自分がこのクラブにいてもいいのかっていう葛藤があって。やっぱりプレーできない選手が契約をするって、生ぬるく見えちゃうし、後輩たちにそういう姿を見せたくなかったし。このクラブにいるためには、それだけのパフォーマンスなりプレーをすることが必要で、そうじゃない選手はここにいるべきじゃないというのを自分として示したかったんですよ。

 

それで自分が契約するっていうのは、罪悪感じゃないんですけど、引っかかる部分があったので。普通に考えたら相当なコストパフォーマンスの悪さだから。でも自分に価値を見い出してくれた人たちがいたし。

 

気持ちが割り切れたのは、やっぱり待っててくれる人がいたのと、最後にあるべき姿が示せればいい、ピッチで結果を出せればいいだろうっていう思いでした。自分でそこに意義を感じてリハビリを頑張ったというか。みんなはみんななりに何かを感じてくれたと思ってます。このままじゃ終われないというのがあったし。何とか最後はプレーできました。

 

出場したJ1の最終節のFC東京vsG大阪と、翌日のJ3最終節のFC東京U-23vsC大阪U-23にオーバーエージ枠で出場した時は興奮もしましたし、疲れました(笑)。G大阪戦は57分間出たんですけど、出場時間はもっと短いと思ってました。ホント18分ぐらい、背番号ぐらいで交代するんじゃないかって勝手にイメージしてたんですよ。

 

でもあのときは本当に体が今までにないくらいに軽くて、膝も痛くなくて。試合に間に合うように治療もしてきて、一番いい状態で臨めるように準備はしたんですけど、あんだけいろいろ苦労してたのが、まさかああいう感じで最後にちゃんとプレーできるとは思ってませんでした。

 

原博実監督に誘ってもらってFC東京に移籍してきたのが昨日のことみたいで、あっという間でしたね。こうやって話をしているのはウソみたいで。

 

FC東京に来たときは、自分はここで活躍しなければもう横浜F・マリノスに戻れないという危機感でいっぱいでした。活躍するためにFC東京に来たけれど、もちろん活躍できる保証はないし。

 

それでもそこでチャンスをつかんでから、2002年、2003年、2004年はヤマザキナビスコカップ取りましたけど、そこまでぐらいかな。その2年半ぐらいは、余計なことを考えずに、いい意味でですけど自分のことだけ考えて、そのことに対して周りがサポートしてくれて。本能剥き出しでサッカーをやってたというか。あのころが一番自分にとって楽しい時期でしたね。

 

怖いものがなかったし、ケガも無かったし。どんどん突破していましたね。だからみんなボールを預けてくれたし、その期待に応えたいと思ってやっていましたし。そのとき見ていてくれた人たちは、自分に、躍動感とかワクワクする感じとか、そういう感じを持ってくれたんじゃないですかね。

 

もちろん相手も自分のことをケアしてきたりする中で、自分がいろいろ考えて。クラブも一年ごとに変化して、サッカーもそうですし、監督も代わって。そういうところに自分を追いつかせるために必死だったというか。アジャストさせるというか。

 

カットインして左足でシュートとか、周りとの連携だったりで進歩しようとしてました。とことん練習したし、練習しても痛くなるところも疲れもなかったんで、何本でも蹴ってましたね。あの当時は納得するまで練習していました。今の自分の体や膝の状態だったらフルパワーで10本ボールを蹴ると危険なんですけどね。

 

 

 

手術は7回……2009年から始まったケガ

つらかったのは、ピッチに立てないときでしたね。結局、手術は7回したし、ヘルニアも手術してもおかしくないくらい3回ひどくなったし。そんな現役時代でした。

 

最初に左膝の前十字靱帯を傷めたのが2009年で、あれからずっとでしたからね。あのころ無理してやってた代償がその後に影響しちゃって。でも2010年にはワールドカップがあったから、手術しないで温存療法で治そうということになって、膝は緩んだ状態でプレーしていたんですよ。結局2010年はワールドカップにも行けず、パフォーマンスもよくなくて、J2に落ちてしまって。

 

J2落ちたから余計に自分がやらなきゃという感じになったんですけど、J2の2011年も、膝の影響があって。大腿の裏から腱が延びてスネにくっついてるんですけど、それが骨ごとブチッと剥がれたんですよ。それで3カ月から4カ月ぐらいリハビリしてました。東日本大震災があってしばらく試合がなかった時期は、リハビリしてたんです。

 

こういう症状になることはあんまりないよって言われました。本当は手術してくっつければよかったんですけど。温存療法でやっていたら剥がれたのが膝の横で固まっちゃって。すると足も曲がらなくなってしまいましたね。そんなケガで序盤でつまづいて、途中からまた試合に出られるようになったんですけど、ほぼ途中出場でしたね。

 

自分の走り方がケガを招くんじゃないかというのは思ってました。でもあの走り方をしないと調子が出ない。そこが難しかったですね。自分を変えながら今まで来ましたけど、結局変えすぎると自分らしくなくなる。

 

原監督もよく言ってくれてたんですよ。「僕の走りをみんな期待してくれるよ、そんな選手ってあんまりいないよ」って。もちろんサッカーだからプレーとともに結果も出さなければいけないんですけど、それでも自分には自分らしく走る姿があって、そこが自分のサッカー選手としての生き様だと思っていたから。

 

自分は、どう期待してもらえるプレーヤーになるか、どういうプレーだったらお金を払って見に行く価値があると思ってもらえるかって考えてました。特に原監督はそういうことをしょっちゅう言ってたんで。

 

 

引退表明をあえて8月にした理由

その中でもやっぱり一番つらかったのは2017年かな……。最後の年は一番大きな壁だったと思います。自分が出られないだけじゃなくて、チームの状態もすごくよくなくて。そこで自分は何もできないもどかしさというか。プレーヤーなのにプレーで示して形にすることができない。

 

自分のできることは全部しようと思って、いろいろ発信もしたし、選手にも伝えたし、ただ、そう簡単にはうまく行かないし。でも出られないし、なおかつ調子が悪いのを変えられないというもどかしさというか。ただそうやってアクションを起こすことが大事だというのはわかったんで。

 

2017年に2002年のころのプレーができていれば……ね。本当は自分が別メニューの練習してたりすると他の選手たちにいろいろは言いにくいんですけどね。でもこれは言わずにはいられないというか。言ったし、伝えたし。そのあとにどうするかは選手次第なんで。

 

ずっとリハビリしていると、疎外感を感じたり、みんなから離れて見られないようにやっている人もいると言いますけど、あまり自分は自分自身を隠せないんですよ。包み隠さず、面倒くさいんで出しちゃって。

 

そうやって素直に出しているほうが、素直な反応が戻ってきたりもするんで。隠れてやっているのは、人によってはいいかもしれないですけど、自分の中ではそれができないというか。だからみんなと直接的に話ができたと思うんです。チームメイトもそうだし、ファンやサポーターに対してもそうだし。

 

チームは練習行くときに元気がないし、戻ってきてもロッカールームでは話なんかもない状態で。そこで自分は何ができるだろう、自分のいる価値って何だろうって。本当はピッチにいなければいけないけど、それは考えても今はしょうがないから……とか。そういう葛藤がずっとありました。

 

それをどうやって乗り越えようかと。それを考えたら、自分はケガで最後まで出られなかったって現役を終わることだけはやりたくなかったんですよ。どうにかしてでも、乗り越えた姿を自分にも示したかったし、ずっと応援してくれて待ってくれた人たちにも、クラブにも示したかったし。

 

引退表明を8月にしたのは、みんなに「まとまろうよ」っていうメッセージを伝えたかったというのもありましたね。もちろん、そう簡単にまとまるとは思ってなかったですけど。一つの生き様として「選手はこうあるべきという姿を示さなければいけない」と。

 

自分の中では納得した形で引退を決意したんですけど。何かしらちょっとしたきっかけにならないかなって。選手でいるということはこういうこと、ピッチに立つってこういうことなのかって。

 

引退をきっかけにまとまるというよりは、みんなが考える一つのきっかけになってくれればと。みんなというのは選手だけじゃなくて、ファンやサポーター、クラブも中にいる人たちに対してもそうで。自分が何かが起きる可能性をアクションとして起こす、そのうちの一つを会見としてやりたかったんですよね。

 

本当に自分が納得した形で発表したんで、あとは自分に対してのプレッシャーじゃないけど、最後残りの期間をしっかりリハビリしてピッチに立たなきゃという面もあって。今まで言ってきたことを実践しますと。

 

あの時点で残り4カ月でしたから、そこまで2年近くリハビリしてたところで発表して、正直言えば本当に復帰できるかというのはわからなかったですね。でも一か八かと言うより、自分は何とかそこで形にして、結びつけて引退するという、使命じゃないですけど。……やれましたね。

 

いろいろ周りを巻き込ませてもらって、クラブも協力してくれて。本当はそこでタイトル取ったりACL出たりとかやりたかったんですけど、それができない現実の中で……何かしらの姿で……自分の魂をそこで……伝えられる……環境にみんながしてくれたというか。

 

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子どもにプレーしている姿を見せなければという思い

子どもにね、やっぱり最後に自分の姿を見せたかったですよね。たとえば運動会、幼稚園の運動会があって、走る競技はそんなになかったんですけど、綱引きをやっても、やっぱり膝が怖いから、大体妻が出るんですよ。

 

「なんでみんな他の家族はパパが出てるのに。パパ出られないの?」って思ってるんじゃないかという気になってました。うちの子どもたちは、膝をケガしてるってわかってるんですけど。他の父兄の人たちもケガのこと知ってるんで「無理しないで」って言ってくれるんですけど。でも子どもたちは、ホントはそう思ったんじゃないかなって。

 

あとはテレビやインターネットでFC東京の試合を見て負けたりしていると、子どもが「早くパパ復帰しないとダメだよね」って。「パパいたら勝てるよね?」って言われると、「そうだよ」って言いながらね……。

 

まぁそう言ったからには最後にプレーしている姿を見せなきゃいけないと思ったし、勝っている姿を見せたかったですし。

 

自分の引退についてはいろいろ家の中での取材もありましたから、子どもながらに雰囲気は感じてたと思うんですよね。試合に向けての緊張感もありましたから。僕は変わらずに普通に過ごしてきましたけど、妻も緊張感を持って日々過ごしてくれていたと思うし、それを感じた子どもたちもいろいろ気を遣ってくれて。

 

「今風邪引いちゃいけないから」って遠くに行ったりとか、僕がひとりで寝られるようにって妻と子どもたちは一つの部屋で寝て、僕は自分だけで寝たりとか。そういう細かいところで子どもたちも気を遣ってくれてました。だから試合が終わったら子どもたちも風邪引いたりしてましたね……。

 

 

ずっと伝えたかったことを最後の試合で示せた

最後のG大阪戦とC大阪U-23戦では、自分がこういう姿でピッチに立ちたいとか、こういうことを示したいというのができたんですよ。

 

スタジアムの雰囲気だったり一つになる感覚だったり。やっぱり「こうあるべきだよね」っていう姿を自分は示せたと思ってます。その姿がみんな待ち望んでいた姿だし、FC東京としてはこういう姿を目指して毎試合戦うんじゃないかって。そういうのを子どもたち、ファンやサポーターの人たちが見てくれれば、感じるものは何かしらあったと思うんですよ。それをずっと伝えたかったんです。

 

試合後に相手のファンからもらったコールもありがたくて。ずっとJリーグで切磋琢磨してやって来た中で、僕はずっと相手やレフェリー、ファンやサポーターにもリスペクトを持って接してきてたし。

 

引退発表をした後にアウェイでマリノスと試合をしたときは、マリノスのサポーターから横断幕を出してもらったし、挨拶もさせてもらいましたけど。G大阪にしろC大阪にしろ所属したことはなかったけど、ずっと切磋琢磨してやって来たので。やっぱりサッカーファミリーというか、Jリーグの良さというか。

 

僕はそういう思いでずっとやって来たし、自分はずっと育成から育ててもらったクラブのマリノスからFC東京にやって来たときも、別にマリノスが嫌いで出たわけじゃないし。でも出たことで、そういう捉え方もした人もいたと思いますね。だからマリノスと対戦するときはずっと特別な思いだったし、リスペクトしてますし。

 

僕はずっとクラブも仲間も、ファン、サポーター、みんなを愛してきたし、自分が愛したぶん、みんなも愛してくれたかなって。サッカーを続けていく中で1つのクラブでずっと戦い続けるって、今の時代には難しい話ですけど、いるからにはそこでそのクラブのためにならなきゃって。生ぬるい雰囲気じゃなくて、お互いに言い合えて、いい関係の中で切磋琢磨して、個人もクラブも成長して、同じ成長曲線を描くことが実感が湧くような、個人の頑張りをやっていけるようにね。

 

 

茂庭照幸より先に引退なんて思ってもなかった(笑)

「この連載に僕が出るのはまだ先ですね」って言いながら、やっぱり遠くないタイミングだろうなって思ってました。今日この話をするということで、自分なりの経験や自分にしか感じられないことを伝えられるのがありがたいと思います。

 

本当にこの1年でさらに深い話ができるだけの経験もできたし。最後にピッチにも立ったときの感情も、ピッチに立てない感情もあって。ケガをしてたら、いろいろ感じられたと思ってます。

 

もし膝の状態がすごくよくて、まだやれるってことになったら、引退を撤回してたかもしれないですけど。引退した人は痛かった部分がよくなったって言いますし。でも自分の中では出し切ったし。まだ膝は腫れてますから。

 

誰かがいる限りは引退しないって考える人も多いみたいですね。自分ひとりの中だと持たないんですよ。そういうところに意味合いを持たせて、コイツには負けたくないって。最後までそういうふうになっていくんでしょうね。

 

僕は人を見るまではいけなかったですね。自分に精一杯で、自分だけに向かい合うことしかできなかったですからね。茂庭照幸がまだやってるのは悔しいですけど。アイツより先に引退するなんて思ってもなかったですからね(笑)。

 

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子どもに「これが前十字靱帯だよ」って教えながら食べていた

ひざが悪かったんで、鳥軟骨は食べてましたね。中国の方では傷めたところと同じ場所の食べ物を食べるといいというのがあるんですか? 今度はそういうのを意識してみます。

 

前十字靱帯を傷めてたから、鳥を食べていても自然に目が行くんですよ。子どもたちに、「これが前十字靱帯だよ」って教えながら食べてました。子どもや妻は驚いてましたけどね。

 

僕は焼肉が大好きで、家族連れで月に1回以上は焼肉に行ってたんですよ。名前は明かせませんけど、吉祥寺に九州テイストの焼き肉屋さんがあって。それから同じく吉祥寺に鹿児島の黒豚を使った鍋の店にも行ってました。

 

馬刺しも好きで食べに行ってましたから、よく考えるとこれも熊本の店だったし、宮崎へは毎年合宿で行っていて食事がおいしかったので、「ふるさと納税」で食べ物を手に入れたりしてて、食では九州と縁が深かったですね。

 

九州の味が楽しめる店を1つ紹介しておきますね。東京都渋谷区神泉にある「熊本バル うせがたん」の馬肉料理はおいしいです。ここのマスターがサーフィンをやっていて、そんな繋がりもありました。

 

「熊本バル うせがたん」と吉祥寺のお店はどうか探してみてくださいね。

 

熊本バル うせがたん
〒150-0045 東京都渋谷区神泉町10-17 コルベール神泉2F
4,000円(平均)1,000円(ランチ平均)

 

 

 

石川直宏 プロフィール

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2000年に横浜マリノスユースからトップチームへ昇格。2002年にFC東京へ移籍し、2004年、2009年にはJリーグカップのタイトル獲得も経験した。
2003年には日本代表に招集され、2004年にはU-23日本代表としてアテネ五輪に出場。
2017年に引退を発表した。

1981年生まれ、神奈川県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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