石井正忠が選手交代に託したメッセージ……どんな選手にも交代させなければならない時がある

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は石井正忠さんに登場していただきました。選手時代は鹿島アントラーズでジーコと中盤を形成、指導者としてはアントラーズ監督としてクラブW杯決勝へ進出。現在は大宮アルディージャ監督を務める石井さんに、荒波にまみれたサッカー人生を振り返っていただきました。 (大宮のグルメランチ

石井正忠が選手交代に託したメッセージ……どんな選手にも交代させなければならない時がある

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この1年間で一番激動の人生を送ったのは誰か。

もしかしたら石井正忠監督かもしれない。

2016年12月はクラブワールドカップで準優勝に輝いていた。

 

だが2017年5月、鹿島の監督を解任されると

11月には残り3試合で大宮の監督に就任。

しかし2試合を戦ったところでJ2降格が決定した。

 

もっとも鹿島の監督に就任した2015年7月も

トニーニョ・セレーゾ監督から急きょ引き継いだ座だった。

そこから2016年、チャンピオンシップを制して王者に輝いたのだ。

 

人当たりがよく常に落ち着いている監督だが

キャリアはいつも荒波の中にある。

数カ月にわたる取材の中で自身を振り返ってもらった。

 

チーム状況が良くないときに監督をやる…これが自分に課された人生

大宮からオファーをいただいたのは本当に急でして、決断までにも時間がありませんでした。もしこれが、まったく関わったことのないチームだったら躊躇したかもしれないのですが、私は大宮の前身のNTT関東に所属してましたし、知っているスタッフもいました。それに残り3試合という状況でこのオファーを出してくれたクラブの事情も、すごく理解できたので、やっぱりここは受けるべきだと思ったんですよ。

 

まだJ1残留という可能性はあった中で、クラブは私に賭けたいと思ってオファーをくださいましたし、私もどうにかしたいという気持になったのでそのオファーを受けたんですけど……今思い返せば、何というか、違うやり方でもしかしたらJ1残留できたかもしれないという思いがあって……。

 

いい形でシーズンを締めくくることができなかったので、それは本当に申し訳ない気持ちです。期待してくれた人はたくさんいるので、その人たちに対して申し訳ない気持ちで一杯です。監督に就任して指揮してみると、選手の反応がすごくよかったし、なにかこう、この状況をどうにかしようという気持ちが伝わってきて、でも私がうまい選手の選び方とか、うまい能力の出させ方をできなかったというのが、すごく残念で……。

 

選手の能力はあると思います。その発揮のさせ方がうまくいけば、1年でのJ1復帰という可能性は高いと思うので、そこに向けて準備に入っています。ですが、J2は本当に難しいし、タフな戦いになるでしょう。試合数も多いですし。だからもっと選手に頑張ってもらわないといけないでしょうし、トレーニングを年間通してしっかりやっていけるように、このオフを使って考えたいと思います。

 

この1年は大きな波があった年でした。私が大宮の監督に就任したときは鹿島で監督に就任したときと同じで、チーム状態がよくないという状況でした。そういう場面でオファーが来るというのは、これが自分に課された人生ということもあるでしょう。

 

厳しい状態からうまい方向に持って行きたいと思って鹿島もやりましたし、大宮ではまだうまくいかなかったのですが、来シーズンはチームをいい状態に持っていって、まずは1年で直ぐにJ1に復帰できるような状態にはしたいと思います。やり甲斐はあると思うんですよ。期待されてオファーを受けたと思うので。その期待に負けないように成果を出したいと思います。

 

高校時代のスパルタ指導があったから今がある

私のサッカー人生の中で一番辛かったのは、高校生のときですかね。私たちの時代はスパルタ指導って普通だったじゃないですか。今思えば、その高校の3年間で鍛えられた部分があるからこそ今があると思います。思うんですけど、でも高校時代の3年間は厳しかったなぁと。

 

まず練習時間がすごく長くて。学校の始業の一時間半ぐらい前からまず朝練があって、その時間はウエイト・トレーニングをやってたと思うんです。筋トレのあとに授業を受けて、2時間目の終わりにみんな早弁するんですよ。

 

それでお昼休みは体育館でサロンフットボールを使ってのミニゲームがあって。1年生はその時間にグランド整備ですね。全部授業が終わって、放課後から本格的な練習なんですけど、2時間目の終わりにご飯食べちゃってるんでお腹が減るんですよ。先輩たちは私たち後輩に近くの店へパンなんかを買いに行かせて食べるんですけど、自分たちは買いに行くだけで食べちゃダメで。

 

練習も厳しかったですし、上下関係とか、鉄拳制裁もありましたし。今思えば、監督の愛情だったとは思いますし、自分たちを短期間で強くするためにやっていたのかなと思います。そういう点では、今ではあの3年間というのはすごく辛かったけど、人間形成という意味で役立ったのかなと。厳しいながらもサッカーに打ち込めたという3年間は自分のベースになってる部分があるんで。

 

そうやって中学校時代からスパルタで指導されてきたわけですけど、でも、その中で、こういう指導じゃない方法で何とか高校サッカーの強豪チームにできないかという気持ちがちょっとずつ芽生えてきたんです。高校2年生のときですかね。そのときに教員になりたいなと夢を持ったんですよ。

 

自分のサッカーの実力はわかってましたから。うまくなかったから。もうそのころに自分は黒子に徹しようという気持ちがあったんです。プレーするときも、技術的には上手じゃないので、うまい人のために一生懸命守備したりとか、そういうスタイルが出来上がってきてて、チームの中で1つのコマとして生きていこうと思っていました。

 

押し出しの強さとか、他の誰かを恨んだりとか、そういうのは自分の中でなかったですね。今までの人生でも。「アイツのせいで」と思ったことはなくて、自分がやっぱり何か足りないと思ってずっとここまで来たと思います。

 

その当時キャプテンをしていましたが、リーダーシップって、引っ張っていくタイプと、後ろからサポートするような、みんなで集まってやろうよっていうリーダーシップがあると思うんですよ。たぶんその当時は感じてなかったと思うんですけど、私はどちらかというと後者のほうに向かっていたんじゃないかと思います。

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初采配の試合前、泣きそうになった

2015年7月21日に鹿島の監督になって、しかも途中から引き継ぎましたけど、そのときは「やる」という選択肢しかなかったですね。本当に何の前触れもなく、「今日から指揮を執ってほしい」ということになったので。

 

朝、クラブハウスに行って、前節の振り返りのミーティングでトニーニョ・セレーゾ監督が使う資料を作ってたんですよ。ビデオを編集しているときにフロントから呼ばれて、「セレーゾ監督が解任になる。監督に推薦してるんだけど、どう思うか」と言われたんです。家を出るときは思いも寄らなかったことなんですけど、でもその場で結論を出せと。

 

すぐにその日の練習もありますし、自分の中でも「どうにかこのチームをよくしたい」という気持ちはコーチの立場としてありましたから。だからこれは引き受けるしかないという気に、自然となりましたね。

 

リスクはあったと思います。でも、監督に就任したら、その期間が7月から翌年の1月までだったとしても、やっぱりここはやるべきだと。なぜかわからないけど、そう思えました。選手のため、クラブのためですね。やっぱり自分のことを監督にすると評価してオファーしてくれたわけですから、それは受けなければいけないとならないという気になれたんです。

 

セレーゾ監督の解任と私の監督就任は、選手もみんな知らなくて、驚いたんじゃないかと思います。もしかしたら主力選手と強化部は事前に話をしていたかもしれないですけどね。私はわからないですけど。

 

選手も低迷は監督だけのせいじゃなくて、自分たちの責任もあると感じてるから、「やるしかない」と思ってるわけじゃないですか。私自身もこの状況を受けてチームをどうにかしなければいけないという思いもありました。それで、その日の練習の雰囲気はがらりと変わりましたね。私もそうですし、選手もクラブのためにやらなければいけないという気持ちが初日から出ていたと思います。

 

緊張はありました。一番緊張したのはミーティングのときですよ。無茶苦茶緊張しました。試合当日、スタジアムに行く前にミーティングがあるんですけど、そのときは本当に緊張して。

 

その前にサブマネージャーに鹿島神宮のお守りをいただいてたんです。「石井さん、これで頑張ってください」って。サブマネージャーは私がユースのコーチだったときに教えていたんで。

 

そのお守りを右のポケットに入れて、握りしめながらミーティングをやってました。多分選手は私がポケットに手を突っ込んで話をしているので「格好つけてんじゃないかな」と思ったかもしれないです。けれど全然そんなことなくて、緊張で握りしめてただけだったんです。

 

サポーターも、やっぱりすごくよかったんですよ。私の初戦はホームのFC東京戦だったんですけど、そのとき横断幕をたくさん出してくれたんです。だから私、試合の前にサポーターのところに行って、一礼して、それから試合が始まったんです。泣きそうになりました。

 

その後、選手が頑張って浮上させてくれて。ホント、選手の顔が変わってくれたというか、やっぱりやらなければいけないと、もう一度頑張ってくれたと思います。選手も私もそうですし、テクニカルもメディカルのスタッフも、鈴木満強化部長を始め強化部の人たちも全面的にサポートしてやってくれたので、クラブの一体感はすごく出ていたと思います。

 

感情的になるとパフォーマンスは落ちる

2016年は契約を延長してもらって、いろいろ選手の入れ替わりがありました。けれど、いなくなった選手のことは考えてもしょうがない。とにかく今いる選手でどうするべきか、でした。常に目の前のことだけを考えてやれたというのもよかったと思います。過去のことを引きずらないで、今のことだけに集中できました。だから落ち着けたんですね。

 

私はあまり感情的にならないというか、感情的になると自分のパフォーマンスって悪くなっちゃうと思ってるんです。怒りがすごくあったりとか不安に思っていたりとか気づくことが大切で。自分が怒ってると気づくことだけで、感情は修正できるんですよ。それを繰り返していくと、どんどん怒りが収まって、平常心に戻れるというか。

 

だから記者会見の質問も、いわゆる嫌な質問ってあるんですけど、それをちゃんと聞いて答えられるところは答えなければいけないし。記者さんと監督という立場の違いってあるから、ちゃんとしなければいけないなと。記者の後ろにたくさんのサッカーファンの人がいるので、その人に向けて説明してます。

 

正直に言うとむっとくる質問ってあるんですけど、でも日本の記者の人ってそんなに酷いこと聞かないですよね。ACLやクラブワールドカップに行って、初めて外国の記者の人たちはすごく厳しいことを聞いてくるとわかりましたよ。「明日は勝てると思いますか?」って普通に聞いてきますからね(笑)。

 

2016年の終わりは、奇跡的でした。2ステージ制でよかったと思います。2ステージ制には賛否両論ありましたけど、自分たちはファーストステージで優勝して、セカンドステージは調子が出なくて、でもチャンピオンシップに出る権利を持ってたわけですからね。

 

チャンピオンシップは、初戦のフロンターレ戦がすべてだと思います。あそこは負傷していた柴崎岳選手を出すか出さないか迷ったんです。でも絶対にあそこで勝って、次の浦和戦に行くという気持ちでメンバーから外して休養させたので。

 

フロンターレ戦の前、リーグ戦が終わってからチャンピオンシップまでの間に守備の練習を徹底的にやりました。フロンターレ戦では当然押し込まれる時間が長くなるというのがわかっていたんで。本来は自分たちからボールを奪いに行きたいんだけど、その前からプレッシャーをかけるやり方だけじゃなくて、自陣にしっかり引いてブロックを作るということも想定して、2種類の練習をしっかりやりました。それで全体の守備意識ができたんじゃないかと思っています。

 

そのフロンターレ戦を柴崎選手を出さないで勝てた。けれど次の浦和との第1戦では、まだ柴崎選手はサブで。結局、ホームで0-1で負けたんですけど、柴崎選手を投入したらすぐに攻撃の形ができて押し込めました。

 

柴崎選手が入ったときにどういうサッカーをするかってのは、みんなわかってますからね。どういうパスをするのか。ボランチからどうやって出て行くのか。今までやってわかってるんですよ。アントラーズの相互理解は高いと思いますけど、それは私だけじゃなくて、セレーゾ監督がいたときに積み上げたものがあり、そこに私がやりたいことをちょっと重ねてできたと思うんです。だからそれはセレーゾ監督がやってきたことの積み重ねなんです。

 

第1戦で柴崎選手を入れていい形が作れたから、アウェイの第2戦は先制されたけど、逆転できたのだと思います。そして、そのままのいい流れをクラブワールドカップに持っていけましたからね。

 

金崎夢生選手は交代させたときに激怒したことがあった

2016年のクラブワールドカップはね、サッカー界だけじゃなくて、普通にあの大会を見ていた人たちの心が、ちょっと動いたような気がします。あの大会の意義は大きかったですね。アジア勢で初めての決勝進出でしたし。

 

クラブワールドカップに出るとき、選手に「うちだけ4試合できる」と言ったんですよ。開催国枠だから、トーナメントの一番下からでしたから。そういう気持ちの持って行き方をしました。

 

選手はチャンピオンシップをやって当然みんな疲れてるんです。だからその疲れているっていうワードは絶対あの期間出さないようにしようと思ってましたね。「疲労」とか「疲れ」とか、記者会見でも言わなかったですね。そんな質問があったとしても。

 

決勝のレアル・マドリー戦では、やはりスタメンでかなり悩んだ部分がありました。ケガを抱えている選手がいたり、みんないろいろあったので。あとで振り返ると、もうちょっと違う形のスタメンで、もっと違う戦い方はできたんじゃないかとは思いました。

 

でも、開催国枠ですけど決勝まで行って、そこまで行ったということで世界中のいろんな人が注目してるし、ここで日本のチーム、日本を代表するチームというのを出したいという気持ちがありましたね。

 

いざ決勝が始まってみると相手の試合への入り方が緩かったですし、9分に点を取ったら、さらにその緩さが続いたんですよ。人間一度緩くなったらなかなか戻らないですね。そこで前半終了間際に柴崎選手がゴールを取って、後半逆転したら、向こうに火がついた感じになっちゃいましたね。でも、終わった後は本当に悔しいというか。

 

「後半終了間際にセルヒオ・ラモス選手が退場になっていれば」ってよく言われました。でも、試合をやっていて、選手たちも力の差って本当に感じたと思うんですよ。ピッチの横に立っていて見てると、本当に自分たちはじっくり観察されて、コントロールされてるなって感じてました。

 

準決勝のアトレチコ・ナシオナルとレアルにはレベルの差を感じましたね。それでも差があっても勝つのがアントラーズというか、必ず勝てる要因ってあると思ってたんで。うまくいった、とは思わないんですけど。

 

勝つ要素はあると思ってたんです。でも、まさかあんな展開になるとは思わなかったですね。私の予想では失点するにしても、もうちょっと時間が進んでからだと思ってたんです。でも思ったより早い時間に失点してしまったんで。実は、「これはボロボロにやられちゃうかもしれない」と1失点目のときには思ってましたね。

 

でも相手が緩んで、アントラーズは緩まなかった。それはチームの中心に小笠原満男選手と曽ヶ端準選手がいたというのは大きいと思うんですね。あの2人は決して緩まずに、どんな試合でも勝たなければいけないというのをプレーヤーとして示すじゃないですか。そこが大きいと思いますよ。クラブワールドカップを通じて若い昌子源選手、植田直通選手、鈴木優磨選手はすごく伸びたと思います。その成長にも、やっぱりベテランの小笠原選手と曽ヶ端選手が欠かせない存在でしたね。

 

でも、そんな大事な選手でも交代させなきゃいけない時があります。私は交代のときは、このタイミングでこの選手と交代させればメッセージ性があると判断するんです。ミーティングでやってなくてもメッセージ性があれば選手たちが反応するのってわかるんですよ。

 

チャンピオンシップの第2戦で、73分に小笠原選手を交代させたじゃないですか。私は彼のことを信頼しているからこそ、ああいう交代ができるんです。小笠原選手は嫌な顔してましたけど、でもそれは当然のことだと思いました。金崎夢生選手も交代させたときに激怒したことがありました。あれも選手としたら当たり前です。

 

私が交代を決断できるのは、相手がある程度理解してくれるだろうと信頼しているからなんですよ。それぞれの選手のいろんなところを見ているので、何かちょっとパフォーマンスが落ちてるとか、判断が鈍ってきたとわかるんです。

 

だから、チャンピオンシップの第2戦では、58分に鈴木選手を入れて88分に交代させましたが、あれも普段からよく見ているので決断できたんです。私はずっと見てたし、選手はわかってくれる。そうと思ってます。今でも私は選手たちのことを信頼してますよ。

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大宮のグルメはまだ探索中

私の実家は市原の小料理屋です。内房線に「八幡宿」という駅があるんですけど、そこから歩いて5分ぐらいの「こけし」という小料理店です。3歳上の姉が生まれたときに店を始めたらしいので、もう54年ぐらいやっている店です。地元の常連の方がいつもカウンターにいるような、本当に小さな店です。お勧めはウナギですね。私は実家にいるときからウナ重が好きでした。

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そういう家に育ちましたから、小さいころから和食が多かったですね。だから小さいころは洋食が食べたくて。ハンバーグとか、そういう子どもが好きそうなものを食べたかったんですよ。小さいときはお刺身とか出されても「おかずにならない」と思ってました。でも今大人になってみると刺身定食なんて最高ですからね。

 

鹿嶋のお魚もおいしいですね。そう言えば、アントラーズのクラブハウスの近くには、お弁当屋さんがあるんですけど、そこのメニュー表は私が作ったんですよ(笑)。

 

コーチ時代、よくそこのお弁当を買いに通ってたんですけど、たしか値段が変わるっていうタイミングで「じゃあ私が作りましょう」って、プリントアウトして持って行きました。今でも使ってもらっています。あの蓋が閉まらないくらいのボリュームの弁当はお勧めですね。

 

行方市にある「体験型農業テーマパーク なめがたファーマーズヴィレッジ」内にあるレストランも気に入っています。そこには、ベジタブルッビュッフェがあり、少しずつプレートに盛って食べるんですけど、これがおいしいんですよ。私の小学生の娘も家内も大好きです。

 

大宮でのオススメの店は……、実はまだあまり作れていないんですよ(苦笑)。最初はホテル住まいだったので。でも、僕がNTT関東の選手だったとき一緒にプレーしてた一つ下の後輩が連れて行ってくれた焼き肉屋さんには感動しました。宮原駅の近くの「池田屋」ですね。ここの肉は本当においしい。そこだと私に合う確率は高いかもしれません(笑)。

池田屋
〒331-0812 埼玉県さいたま市北区宮原町2-22-11

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それから、ホテルに住んでいたとき、近くに小料理屋さんの「手作り厨房 楓家」というところがあって気になっていました。あるときふらりと寄って食事をしたら、サービスで味噌汁が出てきたんです。初めて行ったのにうれしいなぁと思っていると、実はその店主さんが大宮アルディージャのファンで、私のことを知ってくださったんですよね。

楓家
〒330-0854 埼玉県さいたま市大宮区桜木町4-68

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カウンターが6席ぐらい、奥に小上がりの座敷で、4人掛けの席が2つぐらいと、そんなに大きなところじゃありません。落ち着いて食べられると思います。シーザーサラダはスライスされたチーズが本当においしかったのでお勧めします。近くに行くたびに寄りたいと思っています。

 

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石井正忠 プロフィール

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1989年、順天堂大学よりNTT関東へ入団。1991年には住友金属へ移籍し、Jリーグ発足後は鹿島アントラーズとチーム名が変わる中、中盤の選手として活躍した。
引退後は指導者となり、2015年にはシーズン途中で鹿島アントラーズ監督に就任。クラブW杯決勝へと導いた。2017年には大宮アルディージャ監督に就任した。

1967年生まれ、千葉県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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