テレビに映る早野宏史氏の姿にはいつも違和感を感じてしまう。
オシャレでちょっとキザっぽい立ち姿。
そして時折「ぶっ込んで」くるダジャレ。
しかし監督のときの様子はそうではなかった。
笑顔は絶えなかったものの、度胸満点の顔で、
もっとギラギラしていたのだ。
驚いたのは実際の試合前に、
戦術や攻略のポイントを聞いたときだった。
簡潔だが明確に答えてくれたのだ。
実際に試合が始まると早野監督の言葉どおり。
事前に語った戦術で攻撃していた。
やられるときまでも心配していた形だった。
試合直前とは言え、戦略を語るのにはリスクがある。
もし攻略のポイントが違ったら監督批判を招くからだ。
だが批判など気にしない素振りで早野監督は振る舞っていた。
同じようなことをした監督はもう1人いた。
清水と柏にいたスティーブ・ペリマン監督だ。
こちらは正直なイングランド人気質と言ってよかった。
早野監督はなぜメディアに話をしてくれたのか。
今でこそメディアという立場にいるが、
当時は監督という常に批判を浴びる立場だったはずだ。
すっかり解説者としての姿は板についた。
ユーモラスな解説を楽しみにしている人もいるだろう。
だが、もう一度監督として活躍する姿も見てみたいものだ。
解説者、監督とそれぞれの時代を振り返りながら、
当時の裏話をじっくり聞いてみた。
そして監督復帰の気持ちがあるのかも。
日本代表の敗退が悔しくて走り始めた
今日もインタビューの前に走って体を動かしてきたんですよ。
2015年のオーストラリア・アジアカップ、日本がUAEに負けた翌日からずっと走ってますよ。あのとき、準決勝のテレビ解説をすることになっていて、準々決勝は見ないでニューカッスルに行ったんです。バーのテレビで見ていたけど、日本が負けるわけないと思ってた。PKになっても大丈夫だろうって。だけどPK戦で負けてしまって、次の日の朝、起きたら胃がムカムカする。
だからこれは走ろうって、海岸沿いを走ってました。気温37度ぐらいだったけど、悔しいから走りたくなったんです。その次の日も2時間ぐらい走ってたら、UAEの選手が散歩してる。悔しくて追い抜きましたね。何の意味も無かったけど。「オレだけは負けない!」って。
今考えたら暑かったから、そんなに急に運動したら危ないですよね。で、それからずっと走ってます(笑)。1時間弱で10キロから15キロのペースかな。ただ、年取ると、トレーナビリティが出てくるまでに時間がかかりますね。
そのときも帰国して思ったけど、食べ物は日本のほうがおいしい。中国に行って中華料理を食べても、日本で食べる方がおいしいですよ。イタリアに行くときも、帰ってきて日本のイタリア料理店に行ったほうが満足できます。日本のクオリティのほうが高い。
トリノで食べた料理は凝ってたし、リゾットもなかなかで、パスタもおいしかったけど、やっぱり日本のイタ飯屋のほうがいいんです。特に関内にあった「オリヂナル・ジョーズ」はよかったですね。故・松田優作さんの歌の歌詞にも出てきたくらいでしたから。あれがなくなったのは本当に残念でした。通ってたんですけどね。
監督をしていたときに、選手がどんなものを食べているか調べたんです。試合前って、実はワンパターンになりがちだから。炭水化物を取るので、パスタ、ごはん、うどん、サンドイッチだったり。しかも結婚してない若い選手はあまり考えないで食べてる。
あるGKはチャーハンと焼肉だけ、あるMFはオムライスばっかり(笑)。だからガンバ大阪のときは、ホームゲームの前にパナソニックの厚生施設の「パナヒルズ」で前泊させてもらって、そこでしっかりとした料理を出してもらってました。そこで選手の栄養補給をコントロールしてました。週1、2回ちゃんとしたご飯を食べることで、選手に習慣を付けさせたかったんです。今はずいぶん変わったでしょうね。
テレビ解説で「ダジャレ」を始めたきっかけ
テレビ解説という仕事は、最初に自分から売り込み行ったんですよ。でも、若気の至りというか「監督の仕事が来たら解説の仕事は辞めていいですか?」なんて条件もお願いした。ところが、NHKはそれでいいからとサポートしてくれたんです。そうやって出たり入ったりしながら、もう20年経ちましたね。
基本は、現場に戻るための勉強という気持ちと、わかりやすくサッカーを伝えて、なんとか広めたいという考えですよ。Jリーグの放送が始まった最初のころは「サッカー用語は控えめに」「誰でもわかるように」なんという決まり事がありました。「オフサイド」って毎試合どんなルールなのか解説して。だから今でも背番号をつけて名前を言ったりしているのは、そのときの名残ですよね。おじいちゃん、おばあちゃんにわかるように話すって、本当に難しかったですね。
サッカーに興味を持ってくれた人を阻害するような話になっちゃいけない。「わからない」って思わせるのが一番よくない。そう気を付けることがサッカーの普及やファンを作るために大切だと思ってるんです。
最初の仕事は加茂周監督の紹介でした。オヤジ(加茂氏)が「こいつなら出来る」と言ってくださったんだけど、試合の前には一言、「お前は余計なこと言うな」って釘を刺されて。「選手起用について、お前がああだこうだ言うんじゃない」ってね。そのときは「どうしよう?」って慌てましたよ。考えた末に技術論の話をすることにしました。テクニックのどこが凄いのかとか、スローで見てやっとわかるような相手との駆け引き――わざと相手を近寄らせて、そこでパスを出している――とかを語ることにして。
そして「この交代どうですか?」って話を振られても「わかりません」って答えることにしました。その後監督をやって、選手起用については外からどんな話が出てもちょっと違うというのはよくわかりましたよ。監督になると毎日、一番長く選手といて、ずっと観察してるんだから。名前だけを見て「この選手を使ってほしい」と言っても、それが合ってるとは限らない。そして「選手起用について語ってはいけないという」のは加茂監督の指令だから忠実に守る(笑)。
コーチングの中には「トーク」というのがあって、それはコミュニケーションのツールで、使い方はいろいろあるんですよ。そのツールを使って「伝える」というのはコーチの仕事でもあるし、それは解説も同じなんですね。だからそのツールをどう使うか。
で、僕は最初「ダジャレ」なんて言ってなかったんですよ。もっぱら「比喩」。たとえば「ぬるま湯に入っているようなプレー」だとか、「寒いときにボールをいきなり蹴ったら、イヌにかじられたような痛さがある」という表現を使ってたんです。だけど、ボキャブラリーがない(笑)。するといつの間にか「ダジャレ」になってた。まぁ、せっかくだったらオリジナリティがあったほうがいいと思ってね。
ところが、NHKは怖がって最初は生放送で使ってくれなかった。試合をじっくり見た後にアフレコで声を入れるんです。僕はテープを何度か見て台本を作って収録に臨んでました。ところが録音が始まると、アナウンサーの人が話して、ときどきこっちに話を振ってくる。それが自分の話そうと思っているタイミングと違うと、一番面白い話ができない。だからアナウンサーの人を観察して、息を吸うときに自分から話したりとか、そんな工夫もしていました。
まぁ、ただ本当は海外のいろいろな試合を含めて、プレーも本当にこれが正しいのか、どんな流れになっているか、戦術はどうかとか選手の起用方法などを見ていました。監督として現場に戻るための勉強としてね。その中で、ツールとしての「言葉」をどう使うか考えていきましたね。今もしゃべりたいことの半分も話せないくらい、戸惑いながらやってますよ。実は本番中の脈拍って180ぐらいあるんですから。よく見ていただくと、足が一歩も動いてないと思いますよ。動けないんですよ、怖くて。
監督時代はメディアに「何書いちゃってるの?」と思うことも
Jリーグの監督は合計4回やりました。1995~1996年に横浜マリノス、1999年から2001年にガンバ大阪、2004年から2005年に柏レイソル、そして2007年に横浜F・マリノス。
監督のときって、メディアに対して「何書いちゃってるの?」と思うけど、書かれたことは消せないし、それが真実かどうかは確かめようがないですよね。本人の感受性で書いてるわけだから。
気をつけなきゃいけないのは、言ってもいないことを書かれることで「それは違うな」と思うんだけど、ほとんど記事は見ないから、書かれていることを知らなかったりしてね。現場にいるときはそんなのを見てもしょうがないし。人づてに聞いたときは「人それぞれに感じ方があるから」って返してます。自分がやっていることを評価してもらうしかないので。
Jリーグ始まったころは新聞でもサッカーに詳しい人が少なかったからね。だから「明日の先発を教えてください」なんていきなり聞かれたりしてましたよ。「そりゃ無理だよ」って苦笑いしてたね。メディアの人も難しかったと思いますよ。選手をどう起用しているかというのは、長く見ないとわからないことだから。
チームが出来上がってくるとメンバーの用途が決まってくる。ところがチームを作り上げている最中は、ある程度メンバーを固定しなければいけない部分もあるんです。そのときに負けると、意図をメディアにわかってもらうのは大変ですよ。レギュラーに挑戦させなければいけない選手がいて、2番手の選手はその次の機会に挑戦させなければいけない。ベースができない限り、いろんな選手を使っても統一感が保てないと、僕は思います。だから腹を決めて選手起用するしかないんです。
選手交代にしても、ハマるときもあればハマらないときもあるし。信じて交代させるしかないんです。パッと見て、目が輝いていたというのがあってもおかしくないし、控え選手を見渡したら目が合ったということで出場させることがあるかもしれない。それは監督の「勘」だけど、ずっと見てきて、ベンチメンバーまで決めているんだから。一概になんの根拠もないということではないんです。
監督とメディアは立場が違うからお互いに勉強していけばいいと思いますよ。そしてお互いに討論ができればいい。「なぜ勝てないんだ」というような大きなテーマではなくて、「何がしたいのか」「どこに向かっているのか」という会話ができればいいと思っています。メディアと現場は相容れることは、今は少ないですよね。
2007年に横浜Fマリノスの監督に就任したときは、「岡田武史監督でもダメだったくらい下り坂なのに、火中の栗を拾うんですか?」と質問されましたよ。「OBでもあるし、少しでも手助けするつもりですし、火の粉は被るつもりなので、何を言われても構いません」って答えたんですけどね。その後、バッシングがひどかったというのは聞いてます。でも、オファーをもらって何とかしなければいけないと思っていたので、気にはしませんでした。半分腹切るつもりでしたからね。
クラブからの条件は「若手を育てる」「3位以内」「攻撃的なサッカー」で、今までとずいぶん違うと思ったけど、プロとして受けたからには言い訳しちゃダメなんです。もっとできるかと思ったところもあったけど、もちろんそうじゃない部分もあって、だったら全員で奪いに行って全員で攻めるというベースを作らなければいけなかったですね。若手にはいい選手、たとえば乾貴士もいたけど、まだ荒削りだったから。乾からは恨まれていると思いますよ。自分ではもっとできると思っていただろうから。
でもG大阪時代の二川孝広もそうだったけど、若い選手は最初に自分の課題を攻守にわたって考えないといけないんです。特に「守」は若い時代にやっておかないと、身につかない。攻撃しかできない選手は、試合の途中で「守」の時間が来ると、何にも出来なくなってしまうんです。ヤス(安永聡太郎)もそうだったし、ヤット(遠藤保仁)もそうだったから、みんな同じような厳しさで接しましたけどね。
僕は1978年に日産自動車に入ったけど、当時は日本サッカーリーグ(JSL)2部でね。弱かったからとことん走らされました。大学時代も試合に出てはいたけど、レギュラーと言えるほどじゃなかった。4年生になるとケガばっかりだったし。そこを加茂周監督に拾ってもらったんです。
加茂監督はいつも12分間でどれくらいの距離を走るかで選手の体力を測るクーパー走をやらせてました。それで僕はアスリートレベルとしても「いい」に分類される3600メートルぐらい走れるようになったんです。ということは、それまでは気持ちが弱かったんだなぁってね。走れるのに走らなかったんですよ。
それでもまだまだ甘かった。加茂監督は期待してくださってたと思うんですよ。いろんなポジションやらせてもらったから。当時は1週間で13試合ぐらいの練習試合が組まれてたけど、ずっと出してもらってた。その中で、監督の指示として「日陰から出ろ」といわれたのは僕ぐらいでした。鍛えてもらってたのに、「やらされてる」と思ってしまってた。今考えるとビッグチャンスですよ。苦しいけど、考えてやってたらもっと未来は違ったと思います。
監督が帰ってこない……マリノス監督就任の舞台裏
1995年に横浜マリノスの監督に就任したのは予定外でしたね。その年にS級コーチライセンスを取得してコーチとしてチームに入って。チームも調子がよくて、ファーストステージ10試合を残す中断期間を首位で迎えてました。
それでオーストラリアキャンプに行ったら、アルゼンチンに戻っていた監督が帰ってこない。どうしようかということで、とりあえず練習を1日だけやって、それで日本に帰ってきた。当初の予定では、たしかあと1週間ぐらいオーストラリアにいる予定だったんですけど。あのときは3日間寝られなかったのを憶えてますよ。オーストラリアと日本とアルゼンチンと連絡を取り合うんだけど、時差の関係で情報が入るまでにすごく時間がかかって、そのせいで寝る時間が無かった。
あのシーズンは初めて外国人の監督を招聘して、それまでと違った雰囲気でスタートしました。砂浜を10キロ以上走らされて、青春ドラマみたいに洟垂らしながら追い込んできた。それって、もちろん優勝したいからですよ。万年3位って言われてたから。辛いトレーニングを我慢してやってシーズン最初から勝ち続けた。でも中断前にちょっと勢いがなくなってたんです。それでもう一度ねじを巻こうということになった。それでオーストラリアまでやって来たのに、監督がいない。選手が不審がってましたね。でも結局、埒があかなかったんです。
帰ってきたら、「お前、監督をやれ」って言われた。「え?」ですよ。コーチやってもっと勉強して、それで監督になりたいと思っていたので。オファーをもらったという話を奥さんにしたら「あなた、何言ってるの?」と言われたのを覚えてます。「だって、受けなかったらクビになっちゃうよ」と言って説得しました。ただ、これで勝てなかったら僕に非難が集まるのは間違いなかった。
そのときに思い浮かんだのは、チームが始動したときの宮崎の合宿で、選手たちがみんな必死になって走ってた光景でね。一緒に走ってたから、選手たちの気持ちがよくわかった。アイツらを投げ出すわけにはいかなかったんですよ。話をもらって、翌日までに返事がほしいといわれて焦りました。だから日本に帰っても寝られませんでした(笑)。
やれるかどうかわからなかったけど、一緒に戦おうと決心しました。そのときにクラブにお願いしたのは「クラブも本気で優勝する気になってください」ということでしたね。監督が悪い、選手が悪いではなくて、一緒に戦ってくれるんだったらやりましょうって。
ファーストステージ最終節の1節前が清水でのアウェイ戦でね。ホテルに優勝パーティーの準備がしてあるのがわかったんですよ。ところが試合が始まると選手は右足と右手が一緒に出るようにガチガチになってた。最初にポンポンと入れられて、終了間際のCKにGKの川口能活を上げてヘディングシュートまでしたんだけど入らなかった。
そのあとにまだ災いがあったんですよ。新幹線で帰ることになっていたんだけど、試合後の取材対応が長引いて、静岡駅に到着したらちょうど最終の新幹線が行ったところ。仕方がないから横浜までバスに揺られて帰って、結局クラブに戻ったのはみんな深夜2時でしたね。
追い込まれましたけど、最終節は、もう徳俵に足がかかった状態だから余計なことを考えなくてよかった。まぁ優勝できてよかったですね。
セカンドステージになるともうチャンピオンシップに焦点を絞ってね。あの当時のレギュレーションだったら、両ステージに優勝してもチャンピオンシップをやらなければいけなかった。だからセカンドステージは優勝にこだわらないで、若手を使いつつ、どうやってチームを作るかというのを考えていました。上野良治を使ったりしてチームを膨らませたかったんです。その翌年までにどうやってチームを大きくするかで、特にマツ(故・松田直樹)とかヤス(安永聡太郎)なんかは調子に乗っちゃうほうだから、そのまま放置するわけにはいかないのでね。
その当時はヴェルディ黄金時代で、世間の評価はヴェルディ対マリノスは97%対3%でヴェルディの勝ちって思われてましたよ。そしてそのときには自分にとにかく経験値がなかった。迷いながら、でもやっぱり背中を向けないようにしなきゃいけないくて、それは勇気がいることで。チャンピオンシップでは都内のホテルに泊まってたんですけど、一晩中研究してました。相手がネルシーニョ監督だったので、戦術を何パターンか持っていたから、そのそれぞれに対して対策を練ったんです。そうしたら朝になっちゃった。
そのとき、経験ないからホワイトボード3枚に書いて選手にレクチャーしましたよ。今考えると、そんなことをしても選手の頭に入るはずがない。今だったらそこまで選手に伝える必要がなかったんだけど、絶対優勝したかったからちょっとでも何かしなきゃいけない。分厚い資料が出来ちゃってね。もうちょっと経験があれば情報をコンパクトにして選手に伝えて、試合が始まってから必要なことを選手に吹き込むって、今だったら出来ると思いますけどね、そのときは全員に同じように理解させたかった。
ただ、そのときも結局最後は言葉によるモチベーションなんです。
「歴史を作れ」
「お前らほど走ってるヤツはいない」
「プレッシャーは見えるものじゃない。プレッシャーは感じたら終わりだ。だからプレッシャーと向き合え」
「プレッシャーから逃げると必ず背中に乗ってくる」
そんな話をしていました。考えていった言葉じゃなくて、自分が経験したことを短い言葉にしたんですよ。そのあとは選手が必死にやってくれました。運もよかった。戦術もはまったと思います。ヤス(安永)には「ゴールを取りたいだろうが、ニアサイドで潰れ役になってくれ」とお願いしてたんですよ。第1戦の後半3分に、そういう形が出来てダビド・ビスコンティが決勝ゴールを取ってくれました。
39歳で監督になったんですけど、実はこれ、ちょっと思い当たることがあってね。結婚する前、23歳か24歳のときに奥さんと一緒に横浜駅の前で手相を見てもらったんです。そのときに言われたのが「結婚しないほうがいい」(笑)。それと、「大器晩成。39歳で転機が来る」ってことだったんですよ。だから、監督になったとき「もしかしたらいけるかも」と、少し思ってました。
言われたことをやろうとする日本人選手
当時は焼肉が好きでしたね。一番通ったのは、新子安の炭火の焼き肉屋さん、味道苑。網に肉を隙間なく乗せて、どんどん焼かないと間に合わないくらい。ユースのチームが来たら、引率の先生とそこに行ってサッカー談義してたのも憶えてますよ。60歳を超えて、もう昔みたいなペースでは食べられなくなりました。今はおいしいモノをちょっとずつ。カルビじゃなくて、ハラミ。一枚ずつ焼いてます。そういえばガンバ大阪に行ったときも焼肉がおいしかったな。
あのころは必死に一秒ずつ前に進んでいったという感じですね。そして1999年、ガンバ大阪の監督に就任したときは同じことをやろうとして戸惑いました。すごく若いチームで、マリノスと同じようなことをやろうと思っても出来る段階ではなかった。マリノスのときよりも、もっと若手をしっかり育てなければいけなかった。
だから苦しみましたけど、試合前にメディアの人たちから質問されたら、できる限り正直に答えようとしてました。経験が無かったからかな。ま、本当を言うと、「逃げ」がいやだったんですよ。隠しても、試合が始まったらわかることだし。だから背中向けて逃げたら、そこにスキが出来ると思ってたんです。一歩でも引いたら、何歩でも引いちゃうからね。だから腹決めないと。
同じように報道陣の質問に答えていたのが、スティーブ・ペリマン監督だったらしいですね。ペリマン監督とも思い出があってね。ガンバ大阪の指揮をしていたとき、ペリマン監督の柏と対戦したんですよ。ペリマン監督はコーチングエリアに出っぱなしで、当時は本当は指示を出したらすぐ席に戻らなければいけなかった。
だけどペリマン監督は戻らないわけです。それを見て竹本一彦コーチが僕も出ずっぱりのほうがいいんじゃないかと言ってくるんです。「え? そこも戦うの?」と思ったんですけど、「よし、負けない!」って、その試合はずっとコーチングエリアに出てました。
監督って試合が始まったら、状況を見ながら戦術を変えたり、選手を代えたり、ストロングポイントを変えたりするくらいしかできないんですよ。でもとにかくベンチも戦わなきゃいけない。本当はコーチングエリアに出て大声を出しても、選手に届くわけ無いんです。大観衆の歓声にかき消されてるから。でも、監督が出てきて踊ってたら選手も「何してんの?」って見てくれるかもしれない(笑)。
一番の被害に遭ってたのはマリノス時代の左SBだった鈴木正治ですかね。テレビの解説で「鈴木正治に何か特別な指示を送っているのでしょうか」って言われてたけど、あれは一番近かっただけで。攻めるほうが逆になると右SBの鈴木健仁が被害者だったかな。正治は「うるさかったですね~」って言ってました。野田知はときどきベンチに来て「どうします?」って聞いてくれてたから、非常に助かってました。
ただ、監督の声が届き過ぎるってよくないと思いますよ。選手が自分で判断するというのもサッカーの大事な要素ですからね。若年層では指示しなければいけない部分はありますよ。でもやらせるということも必要で、あるときはハーフタイムまでは何も言わない、考える力を養わせるというのがいいんです。選手がどんな試合展開だったか憶えてないというのが一番よくない。経験を積んだことになりませんから。
それに日本人の感受性の問題で、選手は言われたことをやろうとするので、そのせいで全体のバランスが悪くなってても気がつかない。素直なほどそういう状況に陥ってしまうんです。外国人選手は、どんなに言っても自分の考えでプレーしてることもある。
日本人選手は、ピッチの中で考えられる、変えていけるようにしないと、いけないと思いますけどね。フィリップ・トルシエ監督は守備で「フラット3」というシステムを使っていたけど、最後は自分たちで工夫した。ツネ(宮本恒靖)にも聞いたんだけど、最後は風呂場で工夫しようという話になったらしいね。それはサッカーでは許容範囲なんですよ。
そして柏のときはね……。いろいろありました。結果的にはJ2に落としてしまったから申し訳なかったと思います。だから何を言っても言い訳です。あの時の話は、墓場まで持って行こうと思ってます。
ガンバ大阪のときは、分析担当コーチもいなかったから、自分で選手に見せるビデオも編集してました。週2回か3回ミーティングがあって、その度に見せてましたね。対戦相手の試合は2、3試合分、それと直近の自分たちの試合のビデオを見て、攻略ビデオと自分たちの修正ビデオと。それぞれ15分以内に収まるようにね。選手への「食育」もあったし、当時も本当に寝る暇がなかったですね。
でも、今もしまた監督をやることになったら、やっぱり24時間、もちろん寝ますけど、それでもそれ以外の時間はサッカーのことだけ考えて過ごすでしょうね。スタッフのコントロールも含めてね。そうじゃないとダメでしょう。クラブ、選手、スタッフ、考えることは多いから。監督って本当に体力が必要なんですよ。だから今でも走ってます。
早野宏史 プロフィール
中央大学を卒業後、1978年に日産自動車サッカー部に加入。引退後はユースコーチなどを経て1992年から横浜マリノスのトップチームコーチとなる。
1995年のシーズン途中からはマリノス監督となり、リーグ優勝。ガンバ大阪、柏レイソルでも監督を歴任した。
1996年のマリノス監督退任後は、NHKなどのサッカー番組で出演多数。
1955年生まれ、神奈川県出身。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。