W杯のベンチから関係者が泣いているのが見えた…平野孝は波乱のサッカー人生をどう生き抜いたのか

現在はサッカー番組司会など、TVでも活躍する元日本代表の平野孝さん。1993年に名古屋グランパスエイトに入団、1年目から出場機会を掴み、1998年にはフランスW杯にも出場した平野さんは、順風満帆なサッカー人生を歩むようにも思えましたが、2000年に名古屋を退団して以降は7つのチームを渡り歩く、激動のサッカー人生となります。今回は中でも新人時代の失敗、フランスW杯前後の激動の時代、そして神戸での忘れられないレストランなどに焦点を当て、サッカー人生を振り返っていただきました。 (三宮のグルメランチ

W杯のベンチから関係者が泣いているのが見えた…平野孝は波乱のサッカー人生をどう生き抜いたのか

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現在、サッカー番組の司会者として、にこやかな笑顔と配慮のきいた言葉遣いを見せている平野孝は、年を取るに従って印象を変えた人物だった。

 

最初に話をしたころはつっけんどんに思えていたが、数年経って話を聞くと丁寧に話をしてくれるようになり、今では鋭い意見の中にも気配りがきいている。

 

本人も「昔は話しにくかったと言われるんですよ」と明るく語っていた。

 

いつも屈託のない笑顔を見せているが、サッカー人生では苦労が連続したはずだ。

 

1998年、日本中の熱狂の中ワールドカップに出場し、2002年では主力になるとみられていたのが、2000年に所属していた名古屋を退団すると、その後7つのチームを渡り歩き、最後はカナダで現役を終えたのだ。

 

名古屋を退団したいきさつは、相手の意見もあるだろうからと一方的な話にしないため詳細を語らない。

 

日本が初出場を果たしたフランスワールドカップの思い出を聞くとともに、心優しい人物がどうやってできあがったか聞いてみた。

 

「その態度はおかしいだろう」新人時代に受けた注意

僕は日本のトッププレーヤーじゃないんですよ。ワールドカップには出ましたけど。だから今、こうやっていろいろサッカーのお仕事をさせていただいているのは本当にありがたいと思っています。現役を終わってメディアのお仕事をさせていただいて、たくさんのミステイクもありましたが、でもいい経験をさせていただいています。周りの人に恵まれました。ラッキーです。

 

実はプロになったばかりの頃は、メディアの人と半年ぐらい話をしなかった時期がありました。1993年にプロリーグが始まった年に自分も名古屋に入ったのですが、選手の感覚はまだアマチュアで、限られた人、読売クラブの数人の人ぐらいしかプロとしての意識がなかったと思います。僕は高卒で入団して右も左も分からない中でプロになって、そのとき先輩から「メディアなんてろくなこと書かないから一切しゃべるな」って言われてたんです。それがプロだと思っていました。だから半年ぐらい極力話しをしないようにしていました。

 

するとあるときクラブの人に「その態度はおかしいだろう」と注意されたんです。たぶん、メディアの人がクラブの人に「平野おかしいぞ」って知らせてくれたんだと思います。プロってそういうものじゃないって、そこでわかりました。今では当たり前ですけど、メディアの向こうには応援してくれる人たちがいる。そのパイプ役の人たちに対してちゃんと真摯にに話さなければダメだと言われて、そこでやっとプロはどういうものかわかりました。知らなかったです。そこからはちゃんと接するようにしました。

 

「あ、全然違うな」W杯初戦で感じた世界との差

1997年から日本代表に入って、1998年フランスワールドカップ・アジア予選を戦いました。予選に関しては駆け足な感じというか、いろんなことがありすぎて。勝ったり負けたり、日本が本大会に行けるかどうかわからない緊張感の中で、いつも崖っぷちでやっていたので、あっという間の予選でした。

 

毎日充実はしていましたが、いろんなことがありすぎて内容が濃かったですね。日本中から注目されましたし、新聞でも常に取り上げられて。叩かれるのはまぁ当然というか、そこはあんまり気にしていなかったんですよ。それよりワールドカップに行けるかどうか、ギリギリでしたから、それが気になって。

 

自分は予選に出られないことが多くて、どちらかというとサポートに回ることが多かったですね。先輩方が必死に戦っているところを、自分が少しでも力になれればと一緒に努力するという感じでした。マレーシアのジョホールバルでアジア第3代表決定戦が行われたときもベンチに入れなかったんですよ。だからスタンドから見てましたけど、最後は純粋にうれしかったですね。ようやく本大会に向けてのスタート、ここからサバイバルが始まるなって。そんな感じで見ていました。

 

アジア予選は終わったけど、今度は本大会に行けるかどうかのサバイバルが始まった。僕は無我夢中というか、やれることやっていくしかない。それしかわからないんです。たぶん周りの選手たちもそういうサバイバルを初めて経験していて、何をどうするのかわかっていなかったかもしれません。

 

憶えているのは、当時試合があると新聞に出場選手の評価が出るんですよ。「◎」「○」「△」って。記号の意味はワールドカップ本大会のメンバーに残るかどうかで、僕はいつも「△」でした。

 

でも、そんなのまったく気にならなかったですよ。そうやって気にかけてもらえると思って、緊張感はあったけど、楽しんでやっていましたけどね……やっぱり緊張感はありました。ピッチの上ではピリピリしてました。だけど一歩グランドから離れると、みんなでちゃんと話はしてましたよ。

 

誰が選ばれて選ばれないかと、レギュラーの人たちは大丈夫っていう気持ちがあったかもしれないけど、僕たちはそんなこと一言も口にしない。したところで選ばれることもないし、決められることでもない。自分で決められないことを考えても仕方がないという気持ちです。自分がやれることやって、選ばれなければそれが自分の実力だって。僕は当落線上にいましたし、他にも4、5人はそういう感じだったと思います。その線上の人たちはある意味割り切って全力でやってました。

 

それでも日本のサッカー界を背負っているという気もありました。初出場の盛り上がりもありましたからね。ただ、選手も監督、コーチ、メディアの方々、サポーターの人たちにとっても初めてだったから、戸惑いがみんなに合ったと思います。何をどうすればいいかわからないけど、興奮してる感じで。

 

ワールドカップ直前にスイス合宿がありました。そこで3人落とされるという、厳しい選考方法でした。スイスに行った時点では、自分のプレーの役割はわかっていましたけど、その役割が本戦で必要とされるかどうか誰にもわからない。いろんな考え方がある中で、こういう戦いならこういうパーツが必要だということを、どう岡田武史監督が考えるか、僕たちはギリギリまでわかりませんでした。

 

スイスで現地の社会人チームと練習試合があったんです。その試合で、僕とゴンさん(中山雅史)だけが前半で交代させられたんですよ。45分間だけしかプレーがさせてもらえない。その時点で「オレ、どうなのかなぁっ」て不安でした。しかもゴンさんは当確してる人だから。ただ自分のパフォーマンスは悪くなかったと思ってたんです。

 

ベンチで2人だけ座っていると、ゴンさんが「なんでオレたち前半で交代なんだろうね」と話しかけてきたんです。「いや、ゴンさんは問題ないでしょうけど、オレ、そんなに悪くなかったと思ったんですけど……。わかんないッス」っていう会話をしていました。結果的に、残れたんですけど、たぶんラッキーではありました。

 

いざフランスで、なんとか出場することができました。初戦のアルゼンチン戦では84分、相馬直樹選手に代わってピッチに立ち、2戦目のクロアチア戦では出番がなかったものの、3戦目のジャマイカ戦では59分、城彰二選手に代わって出場しました。

 

アルゼンチン戦のウォーミングアップ中は、結構緊張感ありましたね。ちょっと独特な雰囲気でした。異国の地で、他の試合はいろいろな人種のサポーターが入り交じってますけど、唯一日本戦だけはほとんど日本人で、自分たちがやりやすい雰囲気は作ってもらったと思います。けれど、今までの公式戦とは違いましたよ。

 

フランスの地で、対戦相手がアルゼンチンというシチュエーションで、警備員がたくさんいる物々し雰囲気。緊張感がピッチ入る前はありました。0-1で負けていて、自分がゴール裏でウォーミングアップしてるときに、サポーターの人たちパッと見たら、みんな泣いてるんですよ。みんなワールドカップで日本人がプレーしていることに感極まってて。そこから交代出場のためにベンチに呼ばれて行ったら関係者も泣いてたんです。そこで自分の置かれている状況とか責任とか、そこですごく感じました。

 

ただ、ピッチに入った瞬間は緊張とかなかったですね。いつもと同じでした。対戦相手がアルゼンチンという強豪ということぐらいが違っていると思いました。だから変な緊張はなかったですね。それに残り時間は少なかったですし。

 

自分のマークはハビエル・サネッティでした。同じ歳でしたけど、彼は百戦錬磨。大舞台を何度も経験してた。そして僕は力の差を感じました。上には上がいるんだって。本当はもっとやれるんじゃないかって思ってもいたんです。半信半疑でしたけど。

 

ところが実際にプレーしてみるとわかりました。あ、全然違うなって。サネッティは「岩」でした。ファーストコンタクトしたときにとんでもないと思いましたからね。ホントに同じ歳かよって。相当な勢いで僕は当たった記憶があるんですけどね。まったく動かないんです。ボディコンタクトしてもびくともしない。僕もアジアではフィジカルが弱いほうじゃなかったんですけど、世界との差はありました。

 

身体的な違いだけじゃないんですよ。雰囲気とかね、立ち振る舞いとか、威圧感があるんですよ。間合いも相手の間合いになってしまって、どうしても自分の間合いでプレーできない。いろんなことを考え過ぎちゃったんでしょうね。今思うと。そのときは必死ですから。そしてそのままタイムアップでした。

 

ジャマイカ戦はより点を取りに行くという意識でやってました。試合前にもう決勝トーナメント進出の可能性はないとわかっていましたが、ジャマイカ戦では絶対にこのままじゃ帰られないという気持ちが選手の中であったと思います。消化試合ではない、勝ち点だろうが、勝利だろうが、少しでも爪痕を残したいという思いでした。結果的に3連敗ということにはなりましたけど、いい経験をさせてもらいましたね。

 

ワールドカップ前後では、サッカーに対する考え方が変わりました。実際の公式戦で、最高の舞台で、明らかにレベルの違う選手たちと一戦を交えたことで、サッカーに対する追求心や、探究心が大きく変わったと思います。自分はやっぱり甘い。自分の考え方だと甘いって思い知らされましたから。

 

もっとやらなければダメだ、とにかく練習しなければいけない、これじゃまだまだ足らない。そんなことをずっと考えるようになりました。ワールドカップ前以上にサッカーに対してもっと向き合わないといけないと考えてましたね。上の世界を見た、経験したからだと思います。テレビで見ているのと、実際の舞台で戦ってみるとまったく違っていましたよ。

 

いろいろなサッカー関係者との出会いが財産…名古屋は居心地が良すぎた

1998年のワールドカップが終わって、2002年こそもっと活躍できるようになりたいという思いはありました。だけど、その4年間はいろんなことがありました。チームを渡り歩いたりして、2002年は勝負の年だと思って神戸でプレーしたのですが、チームの状態があまりよくなくて残留争いしていました。そこで2002年のワールドカップ出場は夢と消えましたね。2002年に出られなかったのは反省しかないです。自分がそこに関われなかったというのは、うーん、何だったんでしょうね。甘かったんですかね。どうなんですかね……。

 

もっとサッカーに集中できる環境を追求していくとか、そういうことにフォーカスすることもが大事だったんでしょう。一概に一つの理由じゃないと思います。でも、2002年のワールドカップ前のアプローチとしてはよくなかったですね。何か、どこかでミスが起きたかと思いますし、そこは残念でしかないですね。

 

2000年、シーズン途中で名古屋をクビになりました。それについてはいろいろありますが、とにかく自分はサッカーができなくなった。みんなと一緒には練習させてもらえなくて、1カ月ぐらい1人でトレーニングしていたんです。自分が好きな、これまでずっとやってきたサッカーを取り上げられた期間でした。そこはきつかったですね。ただ、今にして思えばあれがあったからこそ、今の自分ができたという気がしています。

 

ずっと名古屋にいたとしたらそれも一つのサッカー人生だったと思いますし、そうだったら最高だったのかもしれない。けれど今思えば、いろんなチームを経験できたことは自分にとって財産になりました。正直な気持ちでよかったと思っています。

 

一番の財産はいろんな選手、いろんなサッカー関係者と出会えたことです。それだけでも相当なメリットになりました。名古屋だけだったら名古屋に関わる人だけしか人間関係を築けなかったと思いますが、移籍した京都から始まって、磐田、神戸、東京V、横浜FM、大宮、最後はカナダのバンクーバーですから。全部で8チームなんですけど、その間、人間関係やコミュニティが爆発的に広がりました。

 

それは今でも何よりも財産です。今の仕事にも多少つながっているんですよ。結果的にはよかったと思ってます。それに各地でいろいろおいしいものを食べることもできました。

 

僕は好き嫌いがないんですよ。それにバンクーバーでプレーしていたときは、市内に日本食レストランがだいたい3000軒あると言われていました。もっともその中には中国や韓国の人が経営してる和食レストランもありましたけど。食事に関してはそんなに困りませんでした。遠征に行ったときはアメリカンでハンバーガーとポテトで、でも全然大丈夫でした。

 

選手によってはカロリーとか気にしている選手もいましたけど、僕は何でも食べられるぶん、体が要求しているものを食べるというのが大切だと思っていて、そういう意味では偏りがなかったですね。今日は野菜が食べたいとか、魚が食べたいとか、いろいろその日によって違いましたから、それがよかったんだと思います。タンパク質と炭水化物の割合なんて意識したことはありません(笑)。

 

そうやって現役時代にいろいろ行った中で、特に印象に残っているのは、神戸時代に通っていた、「味加味(みかみ)」っていう新神戸の駅のすぐ近くの定食屋さんですね。1人で暮らしていたんで「僕の台所」と呼んで、毎日通い詰めてました。メニューの中で魚、肉って自分の欲するものをバランスよく食べてました。今でも店の名前やいろんなことを憶えていますよ。懐かしいなぁ。

 

……もし名古屋のああいうことがなかったら、名古屋でずっと一生、現役生活を続けたかというと、そうも思ってないんですよ。やっぱり名古屋って居心地がいいんです。環境も抜群ですし、待遇もいい。みんなたぶん名古屋に行った選手はみんなわかると思います。ああいう環境でプレーしたいとみんな思うでしょう。

 

だけど居心地がいいゆえに、そこに依存しすぎる可能性もあると思うんです。それがサッカーに対してマイナスに働くこともゼロじゃないと思うんですよ。だから自分がサッカーを追求したいと願い、うまくなりたいという思いを持っていたら、名古屋の居心地の良さは怖かったかもしれませんね。甘えちゃうかもしれない。そういうことを怖れて名古屋から移籍していったかもしれませんね。

 

現役の時も「甘えちゃいけない」という気持ちは持っていました。それに聞く耳だけは持っていたので、周りで厳しく言ってくれる人もたくさんいたと思います。プレーの質が悪いと電話がかかってきて、「アレ、どうかと思うよ」って言われることもありました。

 

嫌なことを言うってパワーがいるので、話してきてくれる人も辛いんですよね。でもそれでもあえて言ってくれる。それを聞いておかなければっていけないだろうって。だから、そこは聞くようにしていました。キツイですけど(笑)。

 

聞く耳を持てたのは、高校の監督とか、学生時代の監督とかコーチとか、そこが厳しかったからだと思います。メディアに嫌なこと書かれると、疎遠になる選手はいると思うんですけど、僕は「ダメならダメって書いてくれ」って言ってたんですよ。なぜダメだったのかって自分ではわからないかもしれないし、わからないからミスをする。そこをあえて書いてくれる人はありがたかったですね。本当の自分を見るためには、周りからいろいろな角度で見てもらったほうがいいんですから。

 

今でもその若手選手にたくさん接しますけど、言いやすい人、聞く耳持った選手は聞く体勢を持ってる。逆に言われにくい選手はかわいそうだと思ってます。そんなパワー使いたくないって思われる選手は損していると思うんですよ。

 

サッカーは技術・体力と人間性の両方がないと、プロとしては大成しません。個性は大事にしなければいけないけど、自分勝手な、自分本位というのとは違います。わがままを個性と勘違いしているヤツはいますよね。

 

高校の恩師だったり、プロになったときに初めに指導してくれた人だったり、プロというものを教えれくれた人だったり、そういう人の言葉に、ハッと気付かされることがありました。そういう厳しいことを僕のために言ってくれた人には、今でも感謝しか無いです。そのおかげで18年間プロとしてやり続けることができたと思います。自分1人だけだったらきっと18年もやってないでしょうね。どっかできっと踏み外したでしょう。

 

だからそこはありがたかったですけどね。周りにそういう人たちがいてくれた。そういう意味ではラッキーでした。僕のサッカー人生は、ラッキーだったと思います。

 

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平野孝 プロフィール

f:id:g-gourmedia:20161004113429j:plain清水市立商業高校を経て1993年、名古屋グランパスエイトに入団。1年目から出場機会をつかみ、1997年には日本代表に選ばれる。

1998年にはフランスワールドカップに出場。その後、2000年に名古屋を退団後は7つのチームを渡り歩き、2010年に引退。

現在はサッカー番組司会、解説者として活躍する。

1974年生まれ、静岡県出身。

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/

                             
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