あの日の監督はいつもと違った…鈴木啓太が振り返る五輪代表落選、そして引退

鈴木啓太氏は、静岡県の東海大翔洋高校から2000年に浦和レッズへ入団以降、レッズ一筋で2015年に引退しました。過去にはU-23代表代表のキャプテンを務め最終予選を戦ったが2004年のアテネ五輪本選では代表から惜しくも落選してしまいます。今回は代表落選時の裏側や引退の決断について、そしておばあちゃんの梅干しや仲間との食事について話を伺いました。(清水のグルメランチ

あの日の監督はいつもと違った…鈴木啓太が振り返る五輪代表落選、そして引退

f:id:g-gourmedia:20160818104448j:plain

試合後、ミックスゾーンと呼ばれる報道陣と選手が入り交じる場所で、記者からの質問を受けてもいつも嫌な顔をせず応えているのが鈴木啓太だった。

 

そんなところにも人柄の良さがにじみ出ていて、鈴木の成功を祈った人たちは多いはずだった。

 

ところが、鈴木には何度も試練が訪れる。

 

2004年、アテネ五輪のアジア最終予選ではキャプテンを務めた。「谷間の世代」と揶揄された選手たちをまとめ、無事本大会出場を決めたのだ。ところが本大会のメンバーからは漏れてしまう。

 

イビチャ・オシム監督時代は「水を運ぶ選手」として労を惜しまず走り回った。オシム監督がただ一人選び続けるほどのお気に入りだったのだ。ところがオシム監督は病に倒れる。さらに鈴木も病にむしばまれ、復帰した後は代表チームから遠ざかっていった。

 

浦和に入団した2000年、チームはJ2でもがき苦しんでいた。2007年と2014年には大逆転でリーグタイトルを失った。2014年には不整脈が発覚。その後は心臓と相談しながらプレーを続けた。

 

だが、どんな時も彼は「鈴木啓太」であり続けた。誰もないがしろにしない。誰も傷つけようとはしない。

 

そんな愛すべき男が、ついに去年シューズを脱いでしまった。今はもう、鈴木の姿をミックスゾーンで見ることができない。

 

久しぶりに会う鈴木は、まだ色黒のままだった。受け答えの丁寧さも昔のまま。だが、現役選手独特のギラギラした部分は少し消えてしまったように思う。

 

鈴木の優しい人となりを考えると、16年の厳しいプロ生活を終えた今こそが、やっとリラックスできる日々ではないかと思う。そうとでも思わないと、鈴木のいないミックスゾーンの寂しさは癒やせない。

 

落選するんじゃないかなとうすうす感じていた

2004年、アテネ五輪の本大会に行けなかったことは、今振り返ると自分でも相当ショックだっただろうな、と思います。けれど、そのときにその状況を客観的に見ることもできたんです。すると、自分よりも悲しんでいる人たちがいたんですよ。自分以上に悲しんでくれている人。自分もすごく辛いんですけど、自分が本大会に行けないって知ったとき、ある記者が泣き崩れたと聞いたり、電話で母親に報告したときに、電話口で母親が泣いたりとか。

 

母親はそれでもすごく明るく接してくれてたんですけど、僕には悲しんでいる気持ちがすごくわかった。そのときが一番辛かったですね。みんな、僕はU-23代表チームのキャプテンだったからアテネに行くものだろうと思ってました。自分がそのたくさんの人たちの期待に応えられなかったのは、もっと辛かったかな。

 

ただ、僕自身は落選するんじゃないかなと、発表前の沖縄のキャンプの時にうすうす感じてたんです。山本昌邦監督の僕に対する接し方がいつもと違ってたから。監督本人はそう感じてらっしゃらなかったかもしれないけれど、僕は「ん? 何か違うな」って。僕はそういうところ敏感なんで。

 

山本監督が急に僕に話しかけるようになったんですよ。いつもはあんまりしゃべらないんですけどね。監督から話しかけてくることなんてほとんどないのに、よく声をかけてくれるんです。

 

それがいつもと違ってた。だから心の中で覚悟もしてました。そして当時のマネジメントの事務所に、「たぶんオレ落ちるから準備しておいてくれ」という話をしたんです。だから落選の発表は、むしろ周りのほうが衝撃的だったんじゃないかと思います。

 

それでも、僕と山本監督の間には信頼関係ができていたと思います。だから山本監督を恨んだりとか、そういうのはなかったんですよ。本大会のメンバーは予選の23人から18人へと絞り込まれるし、オーバーエイジも入ってくるし。だったらやっぱり複数のポジションができる選手が重要だと思います。それに監督の外すという決定を覆せるだけの力がなかったというのは、自分の弱い部分なのかなと、振り返ると思います。自分の実力がなかったってことなんですよ。

 

でも、あの五輪の予選や本大会の経験を経て、みんな成長したと思います。僕自身もそうでした。アテネ世代は「谷間の世代」と揶揄されてたけど、それでもみんな長く現役を続けて、まだ現役の選手もいます。そういう意味ではあの濃厚な時間を経験したからこそ、みんな今でもやってるのかなと思いますね。

f:id:g-gourmedia:20160818104755j:plain

 

遠征に持参していたおばあちゃんの梅干し

アテネ五輪の本大会は出られなかったけど、2006年からは日本代表には選んでもらえるようになりました。イビチャ・オシム監督のときは全試合に選ばれることができましたね。あのころで思い出すのは、よく梅干しを遠征に持って行ってたことですね。おばあちゃんが漬けてくれたヤツを送ってくれるんです。それを持参してました。遠征先で梅干しが出てくることもあったんですけど、あんまり美味しいと思わなかった。だから僕はおばあちゃんの梅干しを食べてました。お腹の調子のことも考えて。だけど、なくなっちゃうと嫌だから、周りには隠れて食べてました(笑)。

 

身体には気を遣っていたつもりだったんですが、やっぱり人間の走れる量は決まってるのかもしれませんね。2008年、扁桃炎になっちゃったんですよ。喉が腫れて、普通だったら数日で治ると思ってたんです。ところが一向によくならない。一週間ぐらい高熱が続いて、水も飲めなかったんです。このまま死んじゃうんじゃないかという心配もしました。夜中にもう耐えられないと思うくらいになった。精神的に辛かったですね。それで入院することになりました。体重は10キロぐらい痩せてしまって、筋肉もすっかり落ちてました。

 

自分のコンディショニングがうまくできなかったのかもしれないですね。休むべきところで休めなかったのかもしれない。その前年の2007年は始動が早かったんですよ。3月にキリンチャレンジカップがあったし、アジアチャンピオンズリーグも始まった。7月はアジアカップでベトナム、インドネシアでプレーして、9月は三大陸トーナメントもありました。リーグ戦は自己最高の33試合でプレーし、アジアチャンピオンズリーグで優勝したので、12月にはクラブワールドカップにも出場しました。それで2008年は2月に東アジア選手権(現東アジアカップ)があったんです。オフもほとんどありませんでした。自主トレで早めに身体を作って2月に公式戦でしたから。ゆっくりできなかったですね。そういう疲れが出て、扁桃炎になったのだと思います。

 

結局扁桃炎が治るまでに2週間かかりました。だけど、体重がガクンと落ちていて、そこから急激に上げなきゃいけなくて。やったんですけど、心に体がついていかないというか、心はすごくやりたいのに体が動かなかった。それで自分で悪いスパイラルに入っていってしまいました。焦るし、でも焦ってる姿を見せられないし。

 

だから2008年のワールドカップの予選に行ったときは、半分、引きこもりみたいになってました。ホテルの部屋から出たくない。自分のキャラクターもありますし、ホテルの部屋を出たら明るく振る舞わなきゃいけない。だけど、そういう心のバランスが取れなくなった時期もあった。自分は代表にいるのに力になれないと思ったし、そういうのでどんどん気持ちが悪い方向に行ってしまった。最終的には代表に呼ばれなくなり、試合にも出られなくなったのが2008年でしたね。そこからおかしくなりました。扁桃炎は本当に大きな転機になりました。引退も考えていました。

 

そのとき、母親からよく試合前にメールが送られてきてたんです。「スマイル」って書いて。テレビで僕の顔を見ると、その日がどういうコンディションなのかって母親はわかるみたいですね。

 

でも、今思えばあれがあったからこそ、そのあとの自分があったとも思います。諦めるのはいつでもできるけど、自分自身に対して負けたくないという気持ちがあった。そしてどうせやるんだったら、真剣なところは真剣に。そして人とコミュニケーション取るんだったら楽しいほうがいいし。

 

やっぱりあとは応援してくれる人というか、そういう人を悲しませたくない。そして喜んでもらいたいなという思いがありますよ。人に喜んでもらいたい。悲しいときは悲しいし、辛いときは辛いんですけど、できるだけそれは、見せないようにしたいなぁ……という感じですかね。

 


「責任を背負いすぎだよ」って、ミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ浦和監督)に言われましたね。「もっと自由にプレーしろ」とも言われました。確かに自分はヘタなのに背負い込んでしまうところがあった。今思えばもっとリラックスしてやればよかったかな……そう思う反面、自分がそうやってやってきたからこそ、自分自身の強さや、信念や、曲げられないものも持てたのかなと思います。

 

もっと素直になってもいいんじゃないと言われるときもありますね。でも、やっぱりこれが自分の性格なんで。もしかしたら、それは自分の自信のなさの表れかもしれません。冷静に分析すれば、自分に自信がある選手はやりたいようにやるでしょう。僕はおまけみたいな選手だった。

 

俊さん(中村俊輔)とかヤット(遠藤保仁)といういい選手がいて、その選手のために僕は走る。他の選手を活かすために僕はいたと思いますし、そういうところで歯車の一つになれればいいなと思っていました。僕みたいな「水を運ぶ人」は一杯いないほうがいいんですよ。うまい人がそういうことやったら、僕の生きる道はなくなっちゃいますからね(笑)。

 

f:id:g-gourmedia:20160818104857j:plain

試合に出る恐怖と引退の決断

浦和では、よく駅の近くのうなぎ屋さんや焼肉屋さん、中華料理屋さんに行ってました。若手を2、3人、今日はあのグループ、明日はあのグループっていう感じで連れて。全員で行こうと思っても、なかなかスケジュールを揃えるのが難しかったですからね。若手でサッカーの話を聞いてくる選手もいました。でも、結局「自分はどうするの?」っていう話じゃないですか。「オレはこうやったけど」という経験談は話すことができても、それを真似したからってうまくいったりはしない。「成功」って共通しないんです。

 

ただ、「失敗」はみんな共通すると思います。だから「コレはやめておいたほうがいいんじゃないか」ということはだけ言ってました。先輩たちからもそういう部分は教わったと思いますね。

 

今だから言いますけど、実はあんまりみんなで食事に行くのが好きじゃないんです。みんなに合わせなきゃいけないでしょう。だから本当は少人数で食べに行くのが好きでした。

 

2011年のシーズンが始まった時、心のバランスが取れなくなってました。「このままサッカーやってても面白くないな」「何のためにサッカーやってるんだっけ」って。「楽しくない」「仕事」ってそれだけ。ワールドカップに行けなかったという事実もありましたし、楽しくないんだったら、もう辞めてもいいんじゃないかなって。だから2011年の1年間だけプレーして、引退しようって思ってましたね。

 

ところが2011年、浦和は残留争いに巻き込まれてしまい、自分の中で「絶対落としちゃいけない」って気持ちがありました。僕が浦和に入ったのは、浦和がJ2の年でしたから。そしてこの年、何か導かれるものがあって、自分がキャプテンになった。何が何でも落としちゃけないという思いでやってた中で、何とか降格をまぬがれたんです。

 

それでふと自分の……肩の荷が下りたじゃないですけど、そのときにオレこのままじゃ辞められないなって、選手として。これで辞めたら後悔すると思ったんで。もしあれで普通の順位だったら辞めてたかもしれないです。

 

その翌年ミシャが来て、「お前ら責任感持ちすぎだよ。そんな険しい顔してサッカーしてんじゃない」って言われました。「毎日この練習場の大原に、サッカーやりたいと思って来い」って。「お前ら今サッカー楽しくないだろう」って指摘されると、確かにそのとおりだった。サッカーをあんまりやりたくなくなってた。プレッシャーもあるし、チームもバラバラになりかけてたし。そこでミシャが「全部オレが責任を取るからお前らとにかくサッカー楽しいって思え」って。それだけ言ってくれたんです。

 

それでふっと「そうだなぁ」って振り返ることができました。残留争いして、責任を背負って、何とかJ1に残った。でも何のためにサッカーやってるんだろうって、気持ちがグチャグチャだったんですよ。そういうときに響く言葉をもらったんで、それは大きな出来事でしたね。そこからまたサッカー楽しくなったし、また成長したと思います。サッカー続けてよかったと思いますね。

 

ただね、心臓がどうしても無理だったんですよ。2014年に試合中、急に苦しくなってハーフタイムで交代しました。そこで不整脈が見つかったんです。手術をするという結論にはならなかったのですが、薬を飲みながらプレーしなければなりませんでした。ただ、薬もどれがどう効くのか試しながらという感じで、だんだん量も増えていってましたし、そして薬の量を増やしたからといって絶対に効くものでもなかったんです。

 

そういう状態だったので、いつも不安でした。試合に出ることには恐怖もありました。2015年は、 4試合で使ってもらったけど、トレーニングもほとんど100パーセントでできないので、どんどん自分が落ちてしまっているのがわかるんです。100パーセントでも年齢とともに落ちるのに、自分は90パーセントの力でしか練習できない。日頃からフルパワー出していかないと身体の維持はできないんですよ。それでどんどん練習についていけなくなった。こんな状態だったら、もう難しい。オファーはありましたけど、自分としては終わりだと思いました。

 

たとえば現役を続けていたら、いいプレーをして全てが良くなるということもあったかもしれない。どう決断するかって結局、自分の仕事の仕方だと思うんですよ。プロのサッカー選手としてお金を頂いている以上、僕は中途半端でやりたくないと思いました。そういうのも加味して、どうなのかなって。これも一つのタイミングだったと思います。

 

今ですか? 体が黒いのはゴルフ焼けです(笑)。今は充電期間です。ゆっくり充電して、また元気にやりますよ。またやります。

 

鈴木啓太 プロフィール

f:id:g-gourmedia:20160818104704j:plain東海大翔洋高校を経て2000年に浦和レッズへ入団。2002年からはアテネ五輪を目指すU-23日本代表に招集され最終予選ではキャプテンを務めた。

2006年からはイビチャ・オシム監督率いる日本代表に招集された。

Jリーグでは、2006年と2007年にベストイレブンを受賞。2015年に引退を発表した。

1981年生まれ、静岡県清水区出身。

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

f:id:g-gourmedia:20150729190216j:plain

佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/

                             
ページ上部へ戻る