酷暑の夏。隅田川畔の両国を歩きモンゴル料理に物思い 【久住昌之の「途中めし」第15回「ウランバートル】

「孤独のグルメ」原作者、久住昌之さんの連載「途中メシ」、今回は両国のモンゴル料理「ウランバートル」(東京都墨田区両国3-22-11 2F)にお邪魔しました。両国と言えばちゃんこですが、昨今の角界事情を反映してモンゴル料理店もできているようです。モンゴル料理と言えば羊肉!羊の茹で肉に加えてモンゴル風お好み焼き「シャルピン」を、モンゴルの黒ビールや白ビール、モンゴルウォッカと一緒にいただきました。酒の肴は久住さんの新潟のおじいちゃんの家の話だったようです。(両国のグルメモンゴル料理

酷暑の夏。隅田川畔の両国を歩きモンゴル料理に物思い 【久住昌之の「途中めし」第15回「ウランバートル】

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今年の夏は暑かった。

その暑い暑い中、両国モンゴル料理を食べようということになった。

両国といえば国技館。国技館といえば相撲。相撲といえば今やモンゴルだ。

 

大相撲も久しく見ていない。

ボクが一番国技館に足を運んだのは、千代の富士が横綱だった時代。

あの頃もひとつの黄金時代だった。小錦。若・貴兄弟。曙。北勝海。霧島。寺尾。水戸泉。舞の海も出てきたな。いいキャラが揃っていた。

午後1時くらいに行くと、まだ観客席はガラガラ。

午前中に取り組みの終わった若い力士が、メガネをかけて2階席で見ていたりするのが、すごく新鮮だった。

初めて行った時、いつもテレビ画面で左右に分かれて向かい合っている力士が、ボクの席から見ると、手前と向こうという縦の位置関係なのが、新鮮で驚いた。

仕切りの時、小錦の大きなお尻がボクの方に向いていて笑った。

力士と力士がぶつかる音も、序二段ぐらいだとペチペチなっているが、幕内ぐらいになると生音でドーンと響いて、すごいと思った。

 

当時は国技館でしか食べられなかった、独特の焼き鳥も大好きだった。

最近はちょいちょい街の店でも売ってるが、そういうことはあまりしないほうがいいと思う。そこにいかねば食べられないものがあっても、いいじゃないか。

土地の名物にしても。どこでも手に入ったら、地方に行く楽しみが無くなる。

ネット通販も、商品を数多く売るためにはいいかもしれないが、ちょっと考えものだ。

地方に旅していてもお土産に困る時代だ。これ、東京でも買えるしな、とか。

 

国技館内の空気が結びの一番に向けて、どんどん酒臭くなっていくのも、テレビではわからないことだった。トイレに行って帰ってくると、臭い臭い。

相撲というのは、もともと神事で、お祭りなのだな。お花見にも近い。ちょんまげや、まわしや下がり、化粧回しや、行司の姿はお祭りに必要なのだ。そういうことが、実際に行ってみて、よくわかった。

相撲を見ながら、ビールを飲み、焼き鳥を食べるのはすごく楽しい。お花見だ。力士は、花だ。

 

最近は国技館には全然行ってないし、テレビで相撲を見ることもめっきり減った。

でも「スモジョ」と呼ばれる熱狂的な相撲好き女子もたくさん現れたりして、また盛り上がっているようだ。

お気に入りの幕下力士を見るために、九州場所まで追っかけるっていうからスゴイ。

相撲というのは年6場所もあって、その度に番付も変わり続けていて、全体として終わりの無い物語のようでもある。ボクは、前から、力士の体のために、年4場所でいいんじゃないかと思っているが。

 

相撲の本拠・両国モンゴル料理。これが時代の流れなんだよネ

両国にちゃんこ屋は多いが、ついにモンゴル料理店、これも当然の流れか。

モンゴル料理といえば羊。ボクは羊肉は大好きなので、この案にはすぐに賛成した。

両国駅で、待ち合わせる。改札を出ると、編集者男女は、すでに待っていた。

近くの相撲部屋を見たり、両国の歴史散歩をしたり、江戸東京博物館を見学する途中で、モンゴル料理を食べるのかな、と思っていたら、2人はなんの迷いもなくまっすぐに「モンゴル料理 ウランバートル」に向かった。

そして「ここです」とドアを開けて入って行く。

そしてテーブルに着いて、なんの迷いもなくモンゴルビールを3本頼んだ。

これは「途中めし」という仕事だ。ところがしていることは、どう見ても「暑気払い」の飲み会だ。

今回途中的なものが、ない。いきなりゴール。

モンゴルの黒ビールと白ビール

とにかく暑いんだもの。まずモンゴルの黒ビールと白ビールを注文

 

そして「ウランバートルサラダ」と「シャルピン」も頼んだ。

ウランバートルサラダは、どのあたりがモンゴルなのかよくわからなかった。

シャルピンは羊の挽肉の入った小さなお好み焼きみたいなものだった。

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ザクザクと裁断(?)したレタスや人参にピクルス。うれしいナ

羊肉を包んだモンゴル風お好み焼き、シャルピン

優しく柔らかく羊肉を包んだモンゴル風お好み焼き。心が暖まるよ

どちらもおいしかったけど、強い異国感は無かった。日本人の舌に合わせてくれているんだと思う。マズイと言われる「バター茶」とかもメニューには無かった。

さらにポーズという、ショーロンポーみたいなのや、キャベツサラダも頼む。普通においしいけど、いまひとつ「モンゴル、やっぱり違うなぁ!」という珍しさが無い。

日本人の味覚に合わせなくていい。もっとガツンと高原の遊牧民のグルメを食べたかった。

それこそ、いろんなものちょっとずつ食べたい、食いしん坊民族日本人のゼイタクだと思う。わかってる。でも、臭いものやマズイと言われるものでも、食べてみたくなってる自分がいる。

 

飲み食いしながら、最近の旅の話になって、ボクは行ってきたばかりの新潟のことを話した。

この話が、面白かったので、すこし長くなるけど書くことにする。いや、少しじゃなく、すごく長くなる。仕事中にコレを読んでいる人は、ひとまず後にしたほうがいいかも。

 

モンゴル料理を楽しみながら、新潟のことを思い出してしまった

ある連載の仕事で、新潟県の出雲崎に行った。前の週のことだ。

カメラマンと編集者と、長岡でレンタカーを借り、早朝から出雲崎に向かった。

道すがら、ボクは祖父の家が、たぶんこのあたりから遠くない、三島輪島村にあるという話をした。父の父、ボクのおじいちゃんちだ。

最後に行ったのはおじいちゃんのお葬式だった。もう30数年前だ。

母方の郷里は山梨上野原で、近いからよく行った。

でも新潟は遠いので数年に一度しか行かなかった。小学校の間には2年生と5年生の2回だけ。

当時は、まだ上越新幹線はなかったから、特急「とき」で長岡まで行き、単線の越後線に乗り換えて、小島谷という小さな駅で降りる。

そこからは、バスがないのでタクシーで行かねばならない。

運転手には「日野浦の勘治郎に行ってください」と言う。

カンジロウとは祖父の家の屋号だ。それほどの田舎なのだ。

たしか、東京から6時間以上かかった。ほとんど外国だ。

中高生になると受験とか理由をつけて、行かなくなった。母も気を遣うからあまり行きたくなかったんだと思う。

 

小学校2年の時行った時のことは、少ししか覚えていない。

大きな藁葺き屋根の家だった。囲炉裏があった。

従兄のサトシ兄ちゃんの勉強部屋は、中2階の3畳だった。中2階というのが珍しく、隠れ家みたいで羨ましかった。

トイレが外にあって、暗くて怖かった。もちろんその都度母親についてきてもらった。

お風呂もなんだか怖かった。そのコンクリートの壁をムカデが這っていて、戦慄した。

納戸に、折った割り箸で作られた、高さ1メートルくらいの東京タワーがあった。

新潟の冬は雪に閉ざされるから、退屈しのぎに作るのだ」

と従兄弟が教えてくれた。

 

5年生の時のことは、もっとずっといろいろ覚えている。

夏休みに、1週間ぐらい家族で滞在した。

家は普通の木造住宅になっていた。まだ新しかった。積雪が多いので柱がすごく太かった。

トイレも風呂も明るくて怖くなかった。

夜は2階の部屋に大きな蚊帳を吊って、その中で家族で寝た。窓は暑いから開けっ放しだった。クーラーなんてもちろん無い。

月明かりがものすごく明るくて、家の前の田んぼも、その向こうの山も、山の上に浮かぶ白い雲も夜なのにはっきり見えたのが忘れられない。

 

家の周りは田んぼと低い山で、店は1軒もなく、公園もない。一番近いお店が、歩いて30分かかる小学校の向かいにある文房具店だった。  

文具店だが、日用雑貨からお菓子まで売っている店だった。

従姉妹にせがんで、やっと連れて行ってもらえた。お菓子の種類が極端に少なかった。

お盆だったからか、たくさんの従兄弟たちも集まっていた。

でもボクたち都会の子供たちは、だいたい退屈していた。

時々、田んぼの中を、自転車に乗ったアイスキャンデー売りがやって来る。オジサンの鳴らす鐘の音が聞こえると、ボクらは狂喜乱舞だった。

 

一度だけ従兄弟たちと、車2台で海に連れて行ってもらった。

砂があまり白くなくて、水も真っ青じゃなくて、子供的にはちょっと残念な海だったけど、やっぱり海で遊ぶのは楽しかった。

スイカを持って行って、海に浮かべて冷やした。時間がたっても全然冷えなくて生あたたかいスイカだったけど、裸のままタネを砂浜に吐き散らして食べるのが愉快だった。

 

一家総出で墓参りにも行った。

その墓参りがちょっと変わっていて、夜、真っ暗になってから、全員が手に手に提灯を持って田んぼの中の道を行く。先頭の人は、何か小さな金物を鳴らしていたような気がする。

途中、田んぼの上を舞うホタルをたくさん見た。

墓は小さな山の一角で、細い土と草の道を登って行く。そこにお墓があって、周りに小さなお地蔵さんがたくさんあった。そこで線香を焚き、花を供えた。

他の家の墓は、ない。周りは深い竹藪だった。そんな墓参りは、その時一度きりだ。

 

食卓には、毎日、大きな丸ナスが出た。庭で採れたもので、茹でて冷蔵庫で冷やし、切って味ぽんをつけて食べる。これはおいしかった。今でも食べたい。

味噌汁にもナスが入っていた。お新香はウリだった。

あとは厚揚げを煮たのとか、野菜の煮物とか、およそ子供に人気のないおかずだった。肉が少なかった。スパゲティ的な洋食も皆無だった。

ラーメンすら無かった。店に行けば売ってたはずだが、おばあちゃんの作る料理を黙って食べなければならない雰囲気だった。

そういう食を知っていた母は、弟のために、こっそりふりかけを持ってきていた。

 

ボクはその年の9月に、国語の授業で夏休みの作文「にいがた」というのを書いた。400字原稿用紙10枚。子供にしたら大作だ。

でも作文に書いたから、思い出が定着したのかもしれない。

 

その後、祖父の葬式で行った時は、葬式だし、すぐ帰ったので、思い出はあまりない。

それから35年。

折に触れ、一度行ってみたいと思っていた。

でもその家の祖父の長男、つまりおじいちゃんちを継いだおじさん、つまり父の兄も亡くなったし、行く理由がない。

従兄弟が住んでいると聞いたが、しばらく前の地震で大きな仏壇が倒れたり、家の中もめちゃくちゃになったと聞いた。

父も高齢でもう20年ぐらい行っていないはずだ。

家は今どうなっているかわからない。

でもどんな場所だったか、訪ねてみたい好奇心はずっとあって、何か機会はないかなあと思っていた。

 

だから先週の取材場所に向かう車の中で、同乗している2人に「行ってみたいんですよぉ」と話したりした。

でも、三島郡和島村というのは、2006年に長岡市に編入され、消滅した。

この「消滅した」というのはウィキペディアの言葉だ。車の中でケータイで読んで、ちょっとショックだった。消滅したなんて言わなくても、いいじゃないか。

Google Mapに地名を入れても、出ない。ウィキペディアの地図は小さくて大雑把で全然どこにあるのかわからないものだった。

しかし、長岡から出雲崎へ向かう道は、低い山の間に細長い田んぼがある、祖父の家のあたりの風景に似ているのだ。

思っているより、すぐ近くなんじゃないか。そう思うと、胸がざわついた。

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そして出雲崎の仕事を終え、次の予定は昼だった。まだずいぶん時間がある。

ケータイで未練がましく消滅した輪島村を調べていたら、村役場の所在地の住所が出ていた。もちろん今はないだろう。

しかし、そこに郵便番号が出ていたのだ。

ためしに、Google Mapに郵便番号を入れてみると、なんと特定された!

しかもそこまで車で17分。やっぱり近かった。とりあえず行ってもらうことにする。

たどり着いた場所には、村役場跡と思われる建物もなく、しかも道は田んぼの中の行き止まりになり、Uターンもできず、長いバックで元の道に戻ってもらうことになった。

 

しかし、記憶にある風景に、すごく似ている。

低い山の合間を縫うように細い田んぼが続き、山の裾野にポツリポツリと家がある。

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低い山の間に細長い水田。誰もがなつかしくなってしまうよね

もう少しだけ、別の道を行ってもらう。

そうしたら見たような学校があった。あんな場所にあった小学校なんです、唯一のお菓子屋さんがあったのは。

と言って、通り過ぎて、やっぱり全然わからないから、戻りましょう、もう十分です、また行き止まりになるといけないから。

と言い、戻ってもらうと、さっきの小学校の校門には「旧島田小学校跡」と書いてあった!やっぱりズバリそこだ。

小学校は廃校になっていたのか。当然かもしれないが、ガムを買った文房具店も無かった。

 

そこで車を降りて、風景の写真を撮った。

そしたら、新しい看板地図があり、そこに「日野浦」という地名があった!

日野浦の勘治郎。

地図は昔の地名で行き先を探している人のためのものだろうか。日野浦は、そこからもう少しだけ奥だが、近い。範囲も、意外に狭いようだ。車でそこを目指してもらう。

道がT字路になっている場所があり、そこなら車はUターンできるが、その先は道が細くなって曲がっている。またバックで戻らなければならなくなったら、運転手のカメラマンに悪い。

ボクは車を降り、2人にはそこで待っていてもらって、曲がり道の先に歩いて行った。

自然と足早になる。

すると道から、細い坂が左手の低い土手の間に入っている。

あそこじゃないか。

あの坂を登った奥が、おじいちゃんちなのでは。ドキドキしてきた。

坂の前に来た。視線の先に2階家が見えた。ボクのぼんやりした記憶よりすいぶんと古い家だ。

でも。あの家かもしれない。考えてみたら、小学校5年で新築って、築50年だ。

そっと坂を上る。玄関が近づく。「もしかして」が「ぜったい」に変わっていく。

2階と1階の半分の雨戸が閉まっていて、その雨戸はかなり傷んでいる。誰も住んでいないかもしれない。

とうとうボクは玄関の前に立った。

表札に消えかかったマジックで、字がたくさん書いてあり、しかしはっきりと久住と読み取れた。そして亡くなったおじさんの家族の名前が全員書いてあった。ボクの親戚だ。夏休みに遊んだ従兄弟たちだ。

 

「だれだ」の声と出てきた初老の小男。あぁボクの従兄サトシさんだッ

たどり着くことができた。ほとんど偶然。

ボクは表札の写真をデジカメで撮った。

そのとたん、

「だれだ」

という声とともに玄関がガラリと開いた。

上半身裸の初老の小男が現れた。

怪訝な顔をしてボクの顔を鋭い目で覗き込んだ。

すぐわかった。サトシ兄ちゃんだ。

「あ、マサユキです!」

とボクは名乗った。

「え」

「マサユキです。マサユキ。今日は出雲崎に仕事に来ていて、近そうだから、懐かしくてこっちに来てみたんです」

「マサユキか!なんだ。なんの仕事だ」

「毎月、いろんな港を歩く取材の仕事で、今月、出雲崎に来たんで」

「あ、そうか。まあ、上がれや」

と言う。ボクとわかったら、少し嬉しそうだった。

「いや、このあともう1件、取材の約束があって、すぐ行かねばならないんです。それに編集者とカメラマンが待っていて」

と話した。

 

サトシさんは、学生時代、ボクの実家から大学に通っていた時期があり、中学生だったボクとは、よくキャッチボールをしたりした仲なのだ。当時はサトシ兄ちゃんと呼んでいた。

最後に会ったのが35年前。ボクはまだ20代だった。そのボクも今年還暦だ。

お互いずいぶん見た目が変わった。

でも話し方とか、声とか、ちっとも変わっていなくて、だんだん嬉しさと懐かしさがボクの内側から湧いてきた。

そしたら、坂道を、カメラマンと編集者が上がって来た。

 

編集者が名刺と雑誌を渡した。折角だから、記念写真を撮ろうというと、

「ちょっと待てや、オレもスマホ持ってくるから」

と、サトシさんは家に入っていき、ポロシャツを着て、帽子を被り、真っ赤なカバーをつけたスマホを手にして戻った。なかなかおしゃれだ。庭に新しい感じの車があるのにも気づいた。この大きな家に1人で住んでいるようだ。

 

しばし話して、そろそろ行かないとならないと言うと、家の向かいの少し離れた小山を指差し、

「あこに(あそこに)地蔵が見えるろ(見えるだろう?)。あこを登ったとこがうちのお墓だ。帰りに見てって、写真でも撮って行けや」

と言った。田んぼの夜道を、提灯を持って行ったお墓は、そんなに近かったのか。もっともっと遠い印象があった。

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この細く分かりにくい草の道を上がると久住家のお墓がある。かなり急

別れの挨拶をして、車でお墓まで行った。

すごく細くて急な山道だったが草ぼうぼうではなかった。サトシさんが掃除しているのだろう。

墓の周りにたくさんあった地蔵は、思っていたより、ものすごく小さいもので、1つ1つが15センチくらいのものだった。倒れているのもたくさんあった。

お線香は持っていなかったけど、お墓に手を合わせた。

考えたらお盆前だ。

ご先祖様に呼ばれたのかもしれない、と思った。

そのあとの出雲崎取材中も、なんとも言えない高揚感が残っていた。

記事には全く書けなかったが、こうして今ここに書いている。

 

モンゴル料理でどこにもない「故郷」を思い出した

お酒はモンゴルビールから、モンゴルウォッカに変わっている。

メインの「骨つき塩ゆで肉」が来た。ハーフで頼んだが十分大きい。もちろん羊の肉だ。

これをナイフで切って食べるのだが、めちゃくちゃウマイ!

塩味の中華スープっぽいタレもついてきたが。タレなしでも全く問題なくイケる。

生の玉ねぎと茹でたジャガイモと人参も付いてきたが、久しぶりに肉のうまさに夢中になった。

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この羊の茹で肉は絶品です!肉の旨みが凄いです!

店の主人が出てきた。柔和な顔をしたまだ若い大男だ。ひと目で元力士だとわかる。元小結・白馬関だ。もちろんモンゴルの人。

店は白馬関のお母さんが始めたのだそうだ。

ボクらが食べている間に、グループの客が何組か来た。みんな初めてではなさそうだ。

両国で場所が開かれているときは、毎晩混むという。大勢で大きな羊の肉を食べるのは楽しそうだ。

しかし今回は、祖父の家の思い出と、35年ぶりにそこにたどり着いた話になってしまった。

モンゴル料理はその話の肴みたいだ。

お盆ということで許していただきたい。

 

 

紹介したお店 

r.gnavi.co.jp


営業時間:18時~23時(L.O 22時30分)
定休日:年中無休

※掲載された情報は、取材時点のものであり、変更されている可能性があります。 

 

著者プロフィール

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文・写真・イラスト:久住昌之

漫画家・音楽家。
1958年東京三鷹市出身。'81年、泉晴紀とのコンビ「泉昌之」として漫画誌『ガロ』デビュー。以後、旺盛な漫画執筆・原作、デザイナー、ミュージシャンとしての活動を続ける。主な作品に「かっこいいスキヤキ」(泉昌之名義)、「タキモトの世界」、「孤独のグルメ」(原作/画・谷口ジロー)「花のズボラ飯」他、著書多数。最新刊は『ニッポン線路つたい歩き』。

 

前回までの途中めしはこちら

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