負けを受け入れることの大事さ……黄金世代だった高田保則が引退後に気付いたこととは【ごはん、ときどきサッカー】

サッカージャーナリスト・森雅史がお送りする「ごはん、ときどきサッカー」は、サッカー関係者がピッチを去った後の人生をテーマにしています。第4回はワールドユース準優勝を経験した黄金世代でもある高田保則さんにリモートインタビューしています。現在は「夢の教室」のスタッフとして働く高田さんに、現役時のエピソードと引退後のお仕事について伺いました。 (上野のグルメ居酒屋

負けを受け入れることの大事さ……黄金世代だった高田保則が引退後に気付いたこととは【ごはん、ときどきサッカー】

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FIFA主催国際大会での日本の最高成績は2位

1999年ワールドユースの偉業は今も輝く

メンバーはゴールデンエイジと言われた世代

小野伸二、稲本潤一、高原直泰、遠藤保仁、本山雅志らが名を連ねた

 

高田保則もそのチームの一員だった

だがメダルを胸に帰国した選手の中で

高田だけは他のメンバーと違った道を歩み始める

所属チームは降格を余儀なくされ試合に出られない状態にもなった

 

現役を引退した後、高田は子供たちに夢を届けていた

自らは裏方に回りアスリートなどの夢先生の手配をする

自分の人生を振り返りつつ高田は子供たちに何を語りたいのか

大衆酒場好き」のオススメとともに聞いた

 

ベルマーレは「素敵な先輩たち」がいっぱいいたチーム

現役時代を振り返ると、正直に言うといつも苦しかったし、いつも苦しくなかったって言えるんです。

 

僕がベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)でデビューしたのは、プロになって1年半経った1998年8月8日、ファーストステージ最終節のジュビロ磐田戦だったんですよ。GKが小島伸幸さん、DFには田坂和昭さん、洪明甫さん、控えに都並敏史さんという代表経験者がいました。

 

僕は試合に出るまでに長い時間がかかっていたから必死で、「まず目の前にあることを一生懸命やらなきゃいけない。そうじゃないと明日がなくなる」という状態だったんです。その中でデビューさせてもらって、ようやくJ1の舞台に立ててんですけど、その試合で磐田の優勝が決まったんです。

 

僕はもともとエリートじゃなかったんで、みんなについていくのに必死で、周りのことを見る余裕なんかなかったですね。自分のことで精一杯だったっていう感じですかね。当時の平塚にはすごいメンバーが揃ってて、1997年に加入したときには中田英寿さん、名塚善寛さん、呂比須ワグナーさん、野口幸司さん、岩本輝雄さん、反町康治さんもいましたからね。怖そうな人……素敵な先輩たちがいっぱいでした(笑)。

 

本当に怖かったんですけど、でも何か言っても大丈夫な雰囲気はありました。中田さんも先輩にいろいろ言ってたと思いますし、チームの雰囲気としてはお互いに言い合えるというか、尊重しながらできていたと思うんです。そういう意味では仲のいい、いいクラブだったと思います。

 

もともとそんなに上下関係がすごい厳しいというわけじゃないんですよ。みんな嫌な先輩じゃないんです。ノブ(小島)さん、名塚さん、岩本さんにしても。みんなフランクで、クラブのカラーとして話しづらい雰囲気はなかったんです。ただ厳しいところは厳しく、ノブさんなんかが言ってくれたんです。自分も試合に出るようになった後、厳しく言われたこともあります。僕の場合は植木繁晴監督からだったんですけど、調子に乗ってるって自分じゃ分かんなかったんですよ。

 

試合の前日って、みんなリラックスして最後に調整のゲームやるじゃないですか。僕はその時先発するって分かってて、少し気を抜いてたみたいなんです。自分ではそう思ってなかったんですけど、笑顔が出てたらしく、監督がそれを気に入らなかったようで。

 

試合の前々日まではスタメン組だったんですよ。でも前日のボール回しのとき、どこかで弛んだ感じが出てたんでしょうね。それで試合前日の夜、ホテルで呼ばれて「お前は若手なんじゃないのか、何勘違いしてるんだ」と厳しく言ってもらいましたね。今でもそれはちゃんと覚えてます。植木さんの言葉には愛情があったんで、自分がやっぱり勘違いしてたのかって気づくことができてよかったと思います。

 

1999年組はみんなトルシエが好き

それでも1998年には試合に出るようになったんで、シーズンの途中からAチームのロッカールームを使うことができるようになりました。Aチームのロッカールームというのはユースのころからの憧れでしたね。あの部屋に入りたいってずっと思ってたんです。

 

Bチームのロッカールームって体の幅ぐらいのロッカーで引き出しもないんで、いろんな荷物がゴチャゴチャって置かれてるんです。でもAチームは1人の選手のスペースが両手を広げたぐらいあって、物がたっぷり置けるんです。

 

そのゆったりとしたロッカールームを使い出して半年も経たないうちに、ベルマーレの当時の親会社だったフジタが撤退するってことになったんです。1998年11月にその発表があって、どうなるんだろうと思っている間に、1999年1月、フィリップ・トルシエ監督からワールドユース(現U-20ワールドカップ)の代表候補合宿に呼ばれました。

 

そこから初めて代表チームというのを少し意識しましたね。と言っても「入れたらいいなぁ」ぐらいのことを思ってただけなんですけど、先輩たちからは励ましてもらいました。特に都並さんに連絡いただいて、「代表がんばってこいよー」って声かけてもらってたんで、「やるぞ!」って感じだったんです。

 

ところがワールドユース候補の合宿から帰ってきたら、チームの状況がまるで変わってたんですよ。いろんな選手がクラブを出ていくことになって、ロッカールームからどんどん荷物がなくなっていくんです。あれはキツかったですね。「この場所をようやくつかんだのに半年で人がいなくなっちゃうんだ。これからだという時だったのに」という気持ちは正直ありました。

 

そんな中で4月にナイジェリアで開催されたワールドユースに行ったんです。ナイジェリアは過酷と言えば過酷でした。シャワーが出なかったり、毎日真っ暗で、ずっと35度ぐらいあるし、エアコンのないバスで移動したり。ただスタッフの人にいろんな準備をしてもらってたんで、そこまで驚きはなかったですね。

 

それよりビックリしたのは日本チームの凄さですよ。プレーもそうですけど、普段の生活にしてもしっかりしてるし、みんな自立してるし。「なんだ、この大人たちは?!」って他の選手たちのことを見てました。

 

だから毎日が楽しかったんです。練習で感じることもすごくあったし。トルシエ監督も強烈だったんで。監督はあの時のチームにものすごくマッチしてたと思います。練習で手を抜いてたらものすごい勢いで文句言われますし、食事や散歩の時も、見てないのかなと思ってでもすごく見てるんです。プロフェッショナルな監督だと思いました。

 

今考えると、怒り方もずいぶん演出してましたね。雰囲気やオーラという面ではやっぱりちょっと他の人と違うところがあったと思います。ただ、試合中うるさかったかと言うと、そんなに盛んにピッチに向かって指示してないんですよ。

 

試合に出るまでは、よく知られている「フラットスリー」のように「こういうことをやろう」という細かい部分がありました。でも試合中は、僕はベンチに座っていることが多かったんで分かってるんですけど、そんなにいろいろ言ってる姿っていうのは思い浮かばないんです。だから意外と1999年組はみんなトルシエのことを好きですよ。その当時は分かんなくて「なんだよ」って文句言ってましたけどね。だけど今振り返ってみると、トルシエ監督でよかったなって。

 

ナイジェリアにいる間もベルマーレは勝てなくて苦しんでいるという情報が入ってきました。だから4月24日の決勝戦が終わって、成田空港に戻ってきた4月28日、そのままジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原千葉)の試合に行って、後半から出場したんです。一緒にワールドユースに行ってたジェフの酒井友之も出てましたね。

 

その年は自分の中ではやらなきゃという気持ちがすごくあったんで、周りを見る余裕なんか全然なかったんですけど、本当は変化のスピード感についていけなかったっていうのが大きかったですね。

 

だってデビューして半年ちょっとで、レギュラーになって、ワールドユースから戻ったらエースストライカーとして得点取ることを期待されてるわけじゃないですか。でもチームはなかなか勝てないし、シーズン終盤には右目が網膜剥離になって出場できなくなるし。急降下している感じがしてました。

 

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ワールドユース準優勝の年にチームがJ2降格

ワールドユースで準優勝に終わった後、このままうまくいけば2000年シドニー五輪や2002年日韓ワールドカップに、という気持ちがあったかと言うと……なかったかもしれないですね。もちろんワールドユースに選んでもらった、3試合だったけど出たことは自信になりました。その経験を何か還元できるんじゃないかと思ってたんですが、なんせベルマーレに戻ったら本当にいろいろ変わっていたので、何が起きてるのか理解してなかったと思います。

 

帰国してからワールドユースの他のメンバーと自分とは置かれている立場とか全然違って、もちろん焦りは多々あったと思います。自分もチームも結果が出てなかったですからね。それで自分の置かれている居場所を見失っていたというか、自分の実力だったり、できることだったり、五輪を目指すのかどうかとか、何も自分の中では分かってなかったと思いますね。

 

考えられなかったということでしょうね。ただ1つだけ持っていた思いは、ベルマーレに残りたいということだけで。リーグの結果がどうなったとしても自分はベルマーレでやるものだというのが自分の頭の中にあって、それだけはずっと変わらなくて。逆に言うとベルマーレでやるという目標しか持ってなかったんですよ。今振り返ってみると、もっと高いところに目標を持つという考えもあったかもしれないとは思います。

 

だから五輪に行きたいとか、そういう感情は出てこなかったですね。「次の目標は五輪だ」という気持ちにもならなかったですし、五輪やワールドカップを目指すために、他のチームに移籍したいとは全然思わなかったんです。

 

それに1999年のチームは悪いことばっかりでもなくて。あの時ってチームがみんなですごく1つになってたんですよね。広報の遠藤さちえさんがマネージャーまでやってましたからね。クラブハウスはどんどん小さくなっていくんですけど、みんなで作っているという楽しさはあったんです。キャプテンはゴリ(森山佳郎)さんで元気よく引っ張ってくれて、結果は出なかったですけどいいチームでした。

 

ベルマーレがJ2に降格した翌2000年はかなり苦しかったですね。新しいチームになるということを受け入れられない自分と、新しく挑戦するJ2がどういう舞台なのか分からないということに加えて、いろんなことが大きく変わっていて。

 

トレーナーの方だったりチームの中の体制だったりが変わり、自分にちょっと拒絶反応があったと思いますね。それで不満が溜まってシーズン途中に加藤久監督に突っかかって謹慎になりましたけど、自分の中でメンタルをコントロールできてなかったなって。

 

右サイドという新しいポジションにチャレンジしてたんですけど、その位置になったことも受け入れられなくて。精神的にはあまりいい年ではなかったですね。なかなかチームが1つになりきれなかったと思います。それを乗り越えてまとまればよかったんですけど、その年に加入した前園真聖さんや松原良香さんの経験と、僕たちの経験があまりに違いすぎちゃってて。僕たちがもう少しそっちに行けてたらもう少し違った結果じゃなかったと思うんです。いい選手がいたと思うんですけど、なかなか1つになれなかったですね、

 

ワールドユースに出ていた選手たちは五輪やワールドカップに向かってどんどん活躍するんですけど、正直……悔しいという気持ちは全くなかったんです。「やっぱりな」という感じのほうが強くて。だからダメなんでしょうけど。目標持っていれば悔しかったり、自分がそこでやりたいと思ったんでしょうけど、「おお、やっぱりアイツらすごいな」って。「すごいなぁ、頑張れ」って素直に応援してました。どこかで負けを認めてたんだと思うんです。

 

僕はピッチに入るとやんちゃなんですけど、そういうところは素直なんですよ。もし彼らとピッチで一緒に戦ったりしてたら「悔しい」という気持ちが出てたかもしれないんですけど、彼らからは離れちゃってましたからね。でももし1999年、クラブに選手がみんな残って、ベルマーレがJ1に残留してたら、自分は出番がなくて、その後ずっとサッカーできてたかどうかも分からないですからね。

 

それでずっと湘南でプレーしてたんですけど、2005年のシーズン途中から横浜FCに期限付移籍することになって。その時も心は結構ボロボロでしたね。もしかしたらサッカー人生の中で1番きつかった時ってここかもしれないです。

 

2005年の最初は湘南でスタメンで出てたんですよ。ただ、そのときの上田栄治監督は2000年の加藤監督の時と一緒で、僕を右サイドで使うと決めたんです。自分の中でポジションを変えられたということが消化できなかったですね。

 

しかも自分は精神的に幼かったんで、その時上田監督に話をしに行けなかったんですよ。行けずに自分の中で溜め込んで、プレーにもそれが出てて、徐々に出場時間も短くなって、毎試合50分ぐらいで交代になるんですよ。それがものすごく受け入れられなくて。

 

その時、本当はプレイヤーとしてプロであれば、監督に「自分はここのポジションで勝負したい」と言いに行くと思うんですけど、それが言えずに、最後は監督にユニフォームを投げつけるという行為でぶつかってしまい、未熟だったなって。今考えるとそんな選手は和を乱すから、チームに一緒に置いておけないって分かるんですけどね。

 

そんな自分のことを横浜FCが期限付移籍で引っ張ってくれたんです。だから、そこから本当は次のチャレンジなんですけど、もう心と体がバラバラなんで、気持ちは「横浜FCでやってやるぞ」と上がったんですけど、体がついてこなかったですね。最初の練習試合で股関節がぶっ壊れました。ただもう休めない、休みたくないというのがあったので、ずっとプレーしたんですけれど、いいパフォーマンスは出せなくて。今だったらゆっくり回復を待つことができるんですが、そこは未熟でしたね。

 

それでその年、横浜FCも湘南も契約が終わったところで、草津の監督に就任していた植木さんに誘ってもらったんです。僕をJリーグデビューさせてくれた監督でもある植木さんは「年俸は半分ぐらいになってしまうのが草津の状況だけど、それは受け入れてほしい。でもオレはお前の1番いいポジションを分かってる。FWでお前を使うから来い。気持ちが落ちてるのも分かるから、戻るまでお前のペースでやっていいから」って。この言葉には「なんなんだ、この人」って感激したんですよ。

 

それで2006年の頭に1人でホテルに泊まって、そこから練習場に行くことにしたんです。したんですけど、全くやる気が出ないんです。植木さんにあそこまで言ってもらったのに、僕の気持ちがもう切れちゃってるんですよ。情けないですね。強い気持ちを持ってるように見せてるんですけど、もう切れちゃってて、もともと弱い人間だと思ってたんですけど、やっぱりそうで。

 

植木さんだけは常に気にしてくれてたんですけど、チームに行っても知ってる選手が誰もいなくてみんなと話もあまりしなくて。それで練習始まって3日目ぐらいに植木さんのところに行って「もうできない。辞めさせてくれ」と言ったんです。初めてですかね、自分からサッカーを辞めたいって言ったのは。

 

そしたら植木さんが「話をしよう」と言ってくれたんです。そして「練習来なくていいから。お前は別メニューでやっていいから」って。だから1週間ぐらい別でやったかな。その1週間でいろいろ考えさせてもらって、ちょっとずつピッチに戻っていったんです。

 

それでピッチに行くとすごく一生懸命やってる選手がいるんですよ。足下が見えないくらい雑草が生えてるところで、一生懸命ボールを蹴って、練習はものすごく厳しかったんですけど、笑顔で走ってるんですよ。

 

それを見て、「何言ってんだ、オレ。何を勘違いしてるんだろう」って。あのときの植木さんの言葉と草津の仲間というのは、それから先に自分が現役を続けていく中で本当に大きかったですね。助けてもらえました。そこからチームのためにやってやろうと思って。

 

2005年は湘南で1ゴール、横浜FCで1ゴールなんですけど、草津では2006年12得点なんです。自分を駆り立てた部分はあるんですけど、チームの分析を見ると、植木監督はやっぱりFW出身だなって思うところがありました。

 

当時の草津はFWに176センチの僕と177センチの吉本淳、195センチの太田恵介という空中戦に強いタイプを揃えてたんですけど、植木監督はパサーが必要だと言って島田裕介を大宮から期限付移籍させたんです。それが得点数が増えた要因として大きかったですね。

 

引退後にわかったサッカー選手の強み

そこから2010年までの5年間草津でプレーしたんです。2010年に契約が終わって、2011年はチームを探して浪人してたんですけど、東日本大震災があったりして自分もいろいろ精神的にまいってしまって、結局もう一度プロに戻るというのを諦めて引退したんです。

 

そのころに「スポーツこころのプロジェクト」がスタッフを探しているという話を聞いて、すごく興味があって2012年1月から勤めることになりました。この「スポーツこころのプロジェクト」は2011年の東日本大震災でいろいろな被害に遭った地域の子供たちに何かできないかということで立ち上がったプロジェクトです。

 

2007年から日本サッカー協会がやってる「JFAこころのプロジェクト」という子供たちのためのプロジェクトがあるんですが、その中の「夢の教室」というカリキュラムを使って、いろんなスポーツ界の人たちの力を集めて「スポーツこころのプロジェクト」ができたんです。

 

「夢の教室」は、現役のスポーツ選手や引退した選手また文化人などが「夢先生」として学校に行ってもらって、最初は35分間「ゲームの時間」で、子供たちと一緒に体を動かして仲良くなってもらうんです。休憩の後に教室に戻って「トークの時間」で自分の競技を通して夢を持ったきっかけや経験を話してもらいます。分かりやすく言うとテレビ番組の「しくじり先生 俺みたいになるな!!」みたいな感じの時もありますね。成功談を話してもらうよりは、失敗したときに学んだこと、乗り越えられたきっかけなどを「夢」をテーマに話してもらっています。

 

被災地の子供たちが置かれているすごく厳しい状況の中でも、何か前向きになってもらえないか、笑顔になってもらいたいと思って、僕が「笑顔の教室」のいろいろな手配をして夢先生の講師と一緒に学校に行ったり、ときには僕が行って自分の話をしたり、体を動かすゲームを仕切ったりしてました。

 

基本的にはサポートする係として、チケットを取ったり、様々なことを調整したりという役です。2014年の途中からは日本サッカー協会「こころのプロジェクト」推進部に移籍して、「夢の教室」のスタッフとして全国を廻ってます。

 

現役を終えて働き出すと、もちろんそれまでと作業は全く違うんですよ。細かいところでいうとパソコンを使わなきゃいけないし、定時にずっと同じ場所に行ってそこで作業するというのにも慣れてなかったし。何よりも一番大きかったのは、昔は周りに与えてもらったところに乗っかってたけど、今度は自分で何でもやらなきゃいけないということでした。

 

それまではいろんな手配がしてあって、指定された電車に乗ってホテルに泊まって、言われたことをやってたんです。でもそれを全部自分でやる。社会人としては当たり前のことなんですけどね。そこが最初に苦労したとこですね。

 

しかも今度は相手のためにセッティングしなきゃいけないという立場になったんで、最初は本当に一つひとつ覚えていくのに苦労しました。電話の取り方とか、切り方だったり。全部周りの人に教えてもらわなきゃいけないんです。

 

でも、サッカー選手ならそういうの強いと思うんです。「聞くことは恥ずかしい」と思ってないから。優秀な大学を出て優秀なキャリアを積んだ人で、人に話を聞きに行けない人を見たことがあるんですよ。聞くことが恥ずかしいのかなって。僕がプロになったとき、ブラジル人の監督や選手がいて、言葉が分からなかったら聞きに行きましたし、そういうのを分からないまま流すんじゃなくて、自分のためになるから聞くというのは大事だなって。

 

もちろん聞くと嫌な顔をしたり、教えてくれない人もいます。でも、僕は分からないことを恥ずかしいと思ってなかったんで、そこは素直に「分からない」と言ってました。仕事の会議だとみんなやたらと横文字とか使うじゃないですか。誰一人理解してないと思うのに何となく使ってますよね。でもそれって「分からない」って言っていいと思います。もちろん聞くタイミングなんかは気にしてますけど。それから自分は「いつでも聞いていいよ」っていう雰囲気でいられるようにしようと思ってます。

 

そう考えていくと、サッカーが本当にいい経験になってました。サッカーには全部が詰まってたんですよね。引退して10年経ってみて、サッカーで学んだことがものすごく生きてますし、サッカーで学んだことが世の中に役立つと思います。

 

特にサッカーをやっててよかったと思うのは、コミュニケーションの部分なんですよ。仕事って人と人とが絡むから、そこでコミニケーションがどれくらいできるかが大事だと思ってて。コミニケーション能力が高ければ、「分からないんです」と聞きに行くにしても教えやすくなると思うんですよね。直接会うにしてもオンライン会議にしても、やっぱり人と人なんで、コミニュケーションなんですよ。

 

もちろんサッカーからだけじゃなくて、僕が2012年に「スポーツこころのプロジェクト」に入った時の上司が元日本サッカー協会広報部長の手嶋秀人さんという人で、その方からもコミュニケーションの方法を教わりました。どんな時代になっても、結局最後は「人」だと思うので、言葉の伝え方やタイミング、相手を思いやる気持ちがよくないとダメだって。

 

その点についてもスポーツ選手は強いんですよ。サポーターを含めて人に見られることに対して常に訓練をされているので、人に向き合うことに関しても鍛えられてるんです。だからこそ、スポーツ経験者はいろんな組織に受け入れてもらえるんだと思いますね。

 

ただ、知識はものすごく遅れているから一生懸命つけなければいけないんですけど、そういう努力の仕方も、どうやって努力すればうまくいくかということもきっと経験してると思うんです。それからスポーツ選手は負けることに慣れてますからね。だから負けを受け入れられるんです。負けることに慣れてないと、相手に聞きに行けないですよ。

 

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もし1999年の自分にアドバイスするならば…

今取り組んでいるのは、夢や目標を届ける仕事だと思っています。その中でいろいろなアスリートの人の話を聞いてると、やっぱり目標は持っておいたほうがいいと思います。目印がないと先に進めないですから。

 

1999年ワールドユースから戻ってきたときの自分に、今の自分からアドバイスするなら「目標を持ってほしい」ってことでしょうね。大きかろうが小さかろうが。もちろんチームをJ1に上げるという目標はありましたけど、個人としての目標を定めて持っておいたら、行動も変わってきただろうし。僕自身の中で高過ぎると思ったかもしれないんですけど、五輪やワールドカップという目標を持っていたほうがよかったと、今、思います。

 

ただ、自分がそれだけ長くプレーできたのは、目標にとらわれすぎずに、目の前にあることを一つひとつやってたからこそだと思うんです。目の前にあるもの、目の前の試合を全力でやってたことが13年間という長い現役生活につながったと思うんですよ。

 

目の前のことに全力で取り組んでいるという気持ちが人に伝わったと思うんです。気持ちを全力で見せてたことで人が応援してくれた。自分を知っている人が次のところに引っ張ってくれた。ピッチの中ではうるさかったかもしれないけど、自分がいなくなった後に草津の選手が「やっぱりああいうふうに言ってくれる選手が必要だ」って話してるって聞いて、何に対しても持ってる力を全てぶつけてよかったと思いました。

 

もちろん、自分がここまでやってきたことには運もあったと思います。それに、もっとしっかり目標を持てれば、選手として大きくなったかもしれないとは思いますね。

 

今の僕の目標は、この新型コロナウイルスの影響もあって子供たちにまだまだ夢を届け切れていないと思うので、そこをもっと頑張りたいですね。これから子供たちが日常を取り戻すまできっと大変な思いをすると思うんです。僕たちのプロジェクトもなかなか学校に行けないという状況ですけど、必ず「心」が大事になってくると思うので、改めて全国に届けられるように一つひとつ、取り組んでいきたいと思います。

 

先の目標は作ったほうがいいんですけど、今は目の前にあることをきちんとやることが大事だと思います。この厳しい状況を経験して、改めてやっぱりこのプロジェクトが必要だと思ってるので、今の活動を通じて1人でも笑顔にできたらいいなと、そう思ってます。

 

大衆酒場で仕事仲間と飲むのが楽しい

僕のオススメのレストラン……難しいな、いっぱいあるから。うーんと、なんだろう。……そうですね、僕は大衆酒場好きなんですよ。昔、上野から歩いて帰れるところに住んでたんで、よく上野の「もつ焼 大統領 本店」に行ってました。今でも僕は上野で飲むのが大好きなんですよ。ごちゃごちゃってしてて、座りにくい椅子に座って、小さな皿にドンと出されるってのがいいんです。そこで仕事仲間と飲んでたときが楽しかったな。

 

あと、最近は行けてないんですけど、草津でプレーしてたときは住んでいた前橋から1時間ぐらいの越後湯沢へときどき行ってました。その越後湯沢の駅のすぐ近くにある蕎麦屋さんで「そば処 中野屋 湯沢本店」っていうところがあるんです。そのお蕎麦屋さんのニシンとせいろ、あとエビ天。これがメッチャ美味しくて、それにビールってのがもう最高です。それから岩原スキー場の五合目あたりにあるピザ屋さんで「ピットーレ」というところもうまいです。

 

湘南では奥さんのお父さんがお店をやってますから、そこを紹介しますね。居酒屋さんで、平塚の駅すぐの「北国」という名前です。ここももちろん行ってます。みなさんも、サッカーミュージアムの帰りとか、群馬や湘南の試合の帰りに、よければ探してみてくださいね。

 

紹介したお店

 

高田保則 プロフィール

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ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)の下部組織から1997年、トップチームに昇格。1999年にはU-20日本代表としてワールドユース準優勝を経験。横浜FCやザスパ草津でプレーし、2011年に現役引退。1979年生まれ、東京都出身。

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

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