そのとき監督は「出て行け」と言った……安永聡太郎が向き合うことから逃げた「自分の弱さ」とは

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は安永聡太郎さんにご登場いただきました。横浜マリノスや清水エスパルス時代、そしてスペイン時代の知られざるエピソード、そして「自分の弱さ」と向き合うことを恐れていたという現役時代の心境を現在の立場から振り返ってもらいました。 (自由が丘のグルメランチ

そのとき監督は「出て行け」と言った……安永聡太郎が向き合うことから逃げた「自分の弱さ」とは

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現役を終えた後の安永聡太郎は

論理的な分析と明快な言葉でサッカーを語ってみせる

だが現役時代はどうだったのだろうか

頭の回転は速かったが感情的でもあった

 

現役時代を振り返って

「面倒くさい選手」と自己分析する

今になってわかった自分の欠点は

若手に赤裸々に伝えている

 

豪放磊落、自由奔放に生きたように見える中で

どんな後悔を持っているのか

現役生活の中で誇れる瞬間はいつだったのか

家族で行く飲食店とともに聞いた

 

サッカーに対して純粋であり続けることができなかった

中学時代まで山口県にいて、そこから清水商業高校に行ったんです。ところが高校1年のときは1回も全国大会に出られなくて。世代的には、3年生に平野孝さんとか興津大三さんとかがいて、決して弱くなかったんですけど。

 

ただその前が、三浦文丈さんの代、藤田俊哉さんの代、名波浩さんと山田隆裕さんの代、望月重良さんの代と続いてて。

 

高校サッカーって、今のクラブユースとかもそうだけど、強い代があるとそこで3年生がいっぱい試合に出るから、1年生が試合に出られないんですよ。だからどうしても谷間の世代ができる。

 

タイトルを取るような年の次って、やっぱり試合に出てないから苦労するはずなんだけど、清水商業で言うと、やっぱりそこは当時のサッカー王国だから。しんどかったけど、その中で勝ち続けてたんです。

 

毎年必ず1つは全国タイトル、インターハイか高円宮杯か全国高校サッカー選手権大会か獲ってたんです。僕も「強い清商」という思いで静岡に行ったんで、勝てないときはやっぱり苦しくて。

 

それで2年生になったら3年生が川口能活さんの代になって、僕も初めてインターハイに出て。そのときはベスト4で負けたんですけど、でもそこから高円宮杯と高校選手権は獲って。高校3年のときは、インターハイと高円宮杯で優勝したんです。

 

その3年間はトータルで見ると、そんなに悪い感じじゃなくて。中学時代は全国大会のタイトルを全く獲ったことのなかった山口の小僧が、静岡に行って、いろんな経験をしながら全国獲った、という経験だったんですよ。で、そこからプロになったんで、結構やっぱり勘違いしてて。今にして思えば。

 

1995年に高校を卒業するとき横浜マリノスを選んだのも、本気でレギュラーとして試合に出られると思って選んでて。当時、マリノスには現役と元アルゼンチン代表が合計4人、ラモン・ディアス、ラモン・メディナベージョ、チャパっていうあだ名のグスタボ・サパタ、ダビド・ビスコンティがいたんだけど。なのに「ラモンの横はオレだぜ」みたいな感じでいたんですよ。

 

結局、ディアスがホルヘ・ソラーリ監督とケンカして、シーズン途中で出て行っちゃって。でも、その前も後もなかなか試合に出られなくて。メディナベージョとビスコンティを使ったアルゼンチン2トップを縦の位置関係において、神野卓哉さんが途中交代で出場するというのがパターンで。

 

その当時のマリノスは、ボランチに野田知さんとチャパで、左に文丈さん、右に山田さん、それでアルゼンチン2トップ。全員代表選手みたいなものだったから。それに当時はベンチ入りにできる人数は5人で、すると、GK1人、DF1人、MF2人、FW1人というのがバランス的によかったし、そのFW1人が神野さんというのが出来上がってて。

 

ただね、当時、同期のナオキ(松田直樹・故人)はスタメンで出てたんですよ。なんですごい……悔しかったかな。アイツは高校時代に全国タイトルとか1つも獲ってなかったから。仲はメッチャよかったけど、やっぱり負けたくなくて。

 

でもまぁ悔しかったけど1年目だから、とも思ってたんで。それに監督がシーズン途中で早野宏史さんに代わって試合に出られるようになったから。

 

けどね、なんかね、やっぱり当時を振り返ると、それだけの人が周りにいて、他の日本人選手も井原正巳さんや小村徳男さんもいたっていう中で、オレは練習でそっちのグループは避けてたから。

 

そこのグループは、アルゼンチン3人と、井原さんと文丈さんと鈴木健仁さんの6人で、だいたい5対2のボール回しをやるんで、あと1人なんですよ。一緒にやると、やっぱりヤツらうまいから、いつもおちょくられるし、ボール回しやるといつも中に入らなきゃいけないし。それがイヤで、何回か最初のころは強引に呼ばれて入ってたんだけど、もうイヤで最初から離れて。

 

コーチの人たちも「もったいないぜ、やれよ」みたいなことは言ってくれてたんです。でもそれからオレは逃げてたんで。「そこに食いついてついていって、うまくなってやる」っていうんじゃなくて。「若手グループで楽しくやりたい。練習楽しくやりたい」って感じだったから、そこはね、オレ、今にして思えば、すごいもったいなかったなって思う。

 

やっぱりあれだけの選手たちと、ボール回しとかウォーミングアップのちょっとした時間なんだけど、一緒にできたはずなのに。学べるものってすごかったし、学べるチャンスだったし。今そこの反省があって。

 

山口から静岡に行ったぐらいのオレだったら、絶対彼らに食いついたはず。「お前下手だからいいよ」って相手から言われるくらい食いついたはずなんだけど……たぶん、プロになった、なるまでの過程で変にプライドがあったんでしょうね。やっぱり小馬鹿にされたくないとか。

 

なんだろうな、サッカー小僧のままでいられなかったというか。サッカーに対して純粋であり続けることができなかった。それがすごく自分の成長を邪魔したかなというのは、すごく今思うことで。

 

わかんないですよ。ヤツらについていったからって、もっと素晴らしい成績を上げてワールドカップに出たかというと、それはわからないけど、でも間違いなくもったいないことはしたし、選手としての成長をするチャンスを自ら止めちゃったというのは、すごく……ね。

 

だから今、横浜FCにいる息子には言ってるんですよ。「イバと、レアンドロ・ドミンゲスには、『うざい』と言われてもいいから、一緒に出来る練習はキックだろうと何だろうと、向こうが『来るな』って言うくらいへばりつけ」って。「ボール回しとかも、たぶん遊ばれる。苦しい思いをするだろうから、今はイヤかもしれないけど将来絶対財産になるから」という話をしてるんです。

 

スペイン2部で自分と向き合うことができた

高校3年生のときに静岡のSBSカップでレアル・マドリーのユースと対戦したんですよ。でも、そもそもオレは「レアルって何?」って思ってたから。当時は全然知らなくて。で、オレが2ゴールして2-0で勝ったんです。

 

その次の試合がサンパウロ・ユースだったんですけど、オレの中ではそっちの方が強豪だと思ってたから。当時、サンパウロはトヨタカップとかで来てたし、そのユースチームだから「ここで活躍して、サンパウロからスカウトされたい」ぐらいに思ってて。

 

その冬にはバルセロナ・ユースとも対戦したんですよ。バルセロナって、ヨハン・クライフが監督やってるという大枠の情報だけは知ってたけど、それも別に何とも思わなかったし。

 

今だったら「うわっ! バルセロナ・ユースだ!」って思うんだろうけど、当時は世の中もそんなに騒いでないし。当時の日本で一番放送されるのが多かったのって、イタリアのセリエAだったりしたから、スペインってそんなに知識がなくて。

 

ところが1995年のワールドユースでスペインと対戦して、1-2で負けるんですけど、そこで「スペインってすげぇじゃん」って思って。これはもうイタリアじゃない。スペインに行きたいって思ったんですよ。それで1997年のシーズン途中から行くんですけど、その前にハビエル・アスカルゴルタ監督とケンカしたってのもあって。

 

今にして思えばオレが悪いんだけど。21歳になってすぐぐらいですよ。ケンカっていうか。6月ぐらいにやった中断期間の合宿の2日目かな。初日で腰が痛くなって、トレーニングを休んだんですよ。

 

そうしたらミーティングで監督が「この中には楽しいことだけやるけど、辛い時期になるとすぐ休むヤツがいる」って言い始めて。オレのことじゃんって思って「それ、オレのことでしょう。ハッキリ言ってよ」みたいなことをその場で言い返して。

 

誤解されてたから反論したいとしても、言い方はあっただろうし、言うタイミングと場所もあっただろうし。結局、監督からは「お前ふざけるな!」みたいな話になって。

 

それでオレはその合宿終わった後にスペインに行くんです。元々マリノス入るときにイタリアに1年留学させてくれっていう条件を認めてもらってたから、イタリアじゃなくてスペインに行きたいって言って。

 

最初はエスパニョールに1年間留学させてやるって言われたんだけど、オレは「留学で1年間行ったってお客さんとして練習参加して1年間いるだけだから、試合に出たいんでテストを受けられるところを何チームか探してくれ」って。

 

テスト入団したい、選手として入りたい、って、当時のスペインの外国人選手枠がいくつでとか知らないから、偉そうにそんなこと言って。最初、エスパニョールはそれでもいいって言ってくれたんだけど、ちょうどそのときホセ・アントニオ・カマーチョが監督に就任して。

 

カマーチョはそんな日本人見てるヒマないからダメって言って、エスパニョールがダメになったんです。そうしたら2日後ぐらいに「スペイン2部なら何チームかオッケーもらったけどどうする?」って言われて「それでいい、行く」って。

 

当時、マリノスにはスペイン人のフリオ・サリナスとアントニオ・デラクルスコーチがいたんですよ。デラクルスはすごく優しい人だから、「頑張って来いよ、すごく難しい場所だけど、お前が考えてる2部というイメージじゃないぞ」みたいな話をしてくれて。「たぶん今のJリーグがやったって、スペインの2部じゃ通用しない」みたいなことを言ってくれて。

 

サリナスはもっと辛辣だから、「絶対無理だよ、絶対通用しないよ。お前、スペイン舐めるなよ」みたいな感じで。そのときのマリノスではサリナスと城彰二が2トップを組んで、オレがサブだったので、「Jリーグでサブのお前がスペインの2部に受かるわけない」みたいなこと言われて。まぁ聞いても「へぇー、どんなもんなんだろう?」と思ってました。

 

初っぱな行ったチームがカタルニア州のリェイダっていうところで、監督が後々セビージャとかレアルで監督をやるファンデ・ラモスで。で、練習初日の夕方の練習がもう紅白戦で、オレそこで3、4点取ったんですよ。「あれ? めっちゃ下手じゃん。全然うまくないじゃん」ってのが正直、初日の印象で。

 

でもよくよく考えると、彼らは、シーズン前の長いオフからスタートして1週間で、オレは4カ月、普通にマリノスでやってたから、体の仕上がりは違ってて。だからパッと紅白戦をやったらオレのほうが体がキレてるし、グイグイ行けるのは、今にして思えば当たり前なんだけど。

 

で、2日目かな、合格もらって。でも合格もらった途端に、やっぱり不安になって。旅行気分で来てたんだけど、マリノスからも「お前、出してやるんだから、合格して行かないとかなしだぞ」って言われて出てきてるし。「やべぇ、オレ、そっか。ここで1年過ごすんだ」って。スペイン語全然話せないし、行きの飛行機で数字を覚えたくらいだから。

 

「言葉なんかわからなくても全然へっちゃら」って挑んでたところが、急にこれから1年間いなきゃいけないのかと思うと、すごい不安になって。けど、すぐ帰って契約の書類を揃えろって言われて、スペインに来てから1週間で帰国して、マリノスにリェイダからの書類も届いたからすぐ契約になって。

 

年俸は、当時マリノスでもらってた金額の5分の1になったんですよ。ただ、そこまでそれなりに試合に出てて貯金はあったんで、困りはしなかったし、そんなに気にならなかったんだけど。それより、「ここから1年か」って暗くなって。でも、もうオレに選択権なかったんで、行かざるを得なかったから。話がトントンっと決まって。

 

スペインに行ったらね、あんなホームシックというかジャパンシックは、ホント、山口から静岡に出たのと比べものにならないくらいキツかった。それにテストを受けたときの1週間のトレーニングでオレのこと認めてくれた人もいたけど、認めてないヤツらのほうが多かったから。

 

それに当時は外国人選手枠が3人で、しかもEU(ヨーロッパ連合)がまだなかったから本当にスペイン人以外が3枠で、その1枠を日本人に使うんです。ちょっと下に見てる国の選手と契約する感じなんですよ。

 

だから見世物的な感じがすごく多くて。取材だらけで、最初の10日ぐらいはテレビ、新聞、ホント毎日何か1回あったんです。ただ、ジャパンマネーを持ってくるんじゃないかという考えは、チームからは一切なかったですけどね。メディアはどうだったわからないけど。当時、新聞も読めなかったし。

 

取材も、柔道着着せられてリポーターを一本背負いして、倒れたところに「ヤァ」って突きを入れるポーズ取れって言われたり。それが次の日のスポーツ新聞、マルカの見開きの1面にドーンって出て。何と書いてあるかわからないけど、チームの割と仲良くしてくれたヤツらが、お前出てるぞって見せてくれて。

 

そうこうしてる間に開幕が近づいてきて、開幕戦はアウェイでセビージャが相手だったんですよ。オレはセビージャなんて知らなかったけど、チームの他のやつらは興奮してて。

 

開幕戦でセビージャ、その年に落ちたばかりで1年で昇格するだって盛り上がってるクラブ、しかも日本人が出る。そうしたら向こうの衛星放送がわざわざ生中継するってなって。「お前のおかげでテレビに映るよ」って、チームのやつらは結構喜んでくれてたんです。

 

試合時間も当初18時キックオフだったのに、他の試合と被らないように22時30分キックオフになって。俺の感覚としては「え? 試合終わったら午前じゃん」って。

 

それくらい注目されてて、で、1-5で負けたんです。そこから最初の5試合、全部スタメンで出たんだけど2分3敗だったか3分2敗だったかな、全然勝てなくて。オレ自身も全然いいところなくて。

 

そのあたりから、チームメイトからの風当たりがすごく強くて。「お前、いつになったら点を取るんだ」ってすごい言われて。6試合目でスタメンを外されたのかな。そうしたらその試合勝っちゃって。でも次の試合からまたスタメンに戻ったんですよ。

 

そのころチームメイトのシメオンって、今も仲がいいヤツなんだけど、そいつからすげぇ片言の英語で話をされて。こっちも片言のスペイン語でやり取りするんだけど。

 

「ヤスがテストに来たときの、あのときの思い切りのいい、オレを見てくれって感じの表情とかでプレーしなよ」みたいなこと言われて。「今見てると、すごく落ち込んでるし、表情暗いし、サッカー楽しくなさそうだよ」って。それ聞いて、「そっかぁ」ってわかった気がして。

 

やっぱり心のどこかに、スペインにいるという現状はうれしい反面、今マリノスから「やっぱり必要だから帰ってきてくれ」って言われたら、喜んで帰りたいという自分がいたんですよ。すごく踏ん切りがつかない状態だったんだけど。でもそのシメオンの話を聞いて「どうせスペインにいるんだから、よし、もう楽しもう」と思って。そこから徐々にプレーがよくなったんです。

 

それにFWというよりも、4-2-3-1の右のワイドにコンバートされたんです。監督の気遣いもあったと思うんだけど。1トップってすごい得点を期待されるし、シーズンでゴール2桁は取らなきゃっていうのがあるけど、右のワイドだと、スピードとドリブルと仕掛けが要求されて、そんなに点を取らなくても、めちゃくちゃ叩かれるわけじゃない。

 

そういうポジション変更もあって、そこからかな、だいぶ自分のプレーがゲームでも出せるようになって。イエローカードをもう1枚もらったら累積警告で次の試合は出場停止になるときに、それまでオレのことボロクソ言ってたチームメイトが「つまんないことで警告もらうな。お前が出られないと大変なんだ」って言い始めて。

 

それから、シメオンに言われた日ぐらいから、スペインって基本的に「トレーニングの中で100パーセント出し切りなさい」って自主練習禁止なんだけど、練習の2時間前に行って、体作るようにしたんです。

 

ある機材も日本だと考えられないくらいボロボロなんだけど、あるものを使って筋トレやって、練習終わりでちょこっと筋トレやって。午後は、1人だし暇なんで、散歩したりランニングしに行ったり、ちょっと体を動かして。

 

それまでは家に籠もりっきりだったんだけど、生活のリズムとか習慣を変えるようにして、そこからかな。本当にグッと、初得点も取って、コンスタントにスタメンで出るようになって。

 

そうしたら、あれは何だったのか今でもハッキリとはわからないんだけど、バルセロナであった表彰式でスペイン2部の前半戦の最優秀選手2人のうちの1人に選ばれたんですよ。アラベスの選手と2人で。

 

チームのスタッフに「バルセロナに行くぞ」って言われて、わけもわからないまま夕方から連れ出されてバルセロナに行ったら、すごい報道陣で。で、オレへのプレゼンターがルイス・フィーゴだったんです。

 

今だったらね、鳥肌ものですよ。当時はそれこそ「早く終わらないかな」ぐらいの感じでした。フィーゴと2人の写真はスタッフにとってもらったんだけど。でもその写真はもらってないからないんだけどね。トロフィーだけは一応日本に持って帰ってきたんですよ。どこにあるかわからないんですけど。

 

それくらい前半戦は活躍できてたんです。ただ、後半戦はホント苦しくて。その冬のマーケットでチームがナイジェリアの選手を1人取ったんですよ。マイケル・エメナロっていって、1994年アメリカワールドカップに代表の左SBで出てるヤツで。

 

練習のときそのマイケルとの1対1で、思いっきりアフターで左足削られて、足首パンパンになったんです。3日間ギブスして。ところが試合に出ろって言われるんですよ。オレとしては無理だと思ったんだけど、できるからって。

 

ウソだろうと思って、試合当日の朝に監督のところに行って「無理だ」って言ったんだけど、「痛み止めの注射を打って出ろ」って。「いや、今日は無理」って、断ったんですけど、結局その試合はホームで0-0で引き分けたのかな。で、監督に呼ばれて「短い時間でもいいから、注射を打ちながらできないか?」って言われて。

 

なんか、そうまで言われると、うれしい気持ちもあるから。マリノスに入ってそんなに必要とされなかったから。外国人がいたし、3年目で出るようになったときは(城)彰二がいたし。そことの勝負から逃げた自分もいたんだけど。

 

だからそうやって言われたことで、「じゃあやります」って。ただ毎日、練習も痛み止めの注射を打って、薬飲んで、試合もその状態だったから、注射の打ち過ぎて感覚がおかしくなってきて。

 

練習のパフォーマンスも悪い。試合のパフォーマンスも前半戦ほど上がらない。だから練習休みたい。でも休ませてもらえない。オレには代理人がついていてくれてたけど、その人はマリノスとリェイダの間に入って移籍関連のことを処理する人で、オレのコンディションなんかについてやってくれる人じゃなかったから。

 

監督と思いがぜんぜん掛け違ってくるようになって。「2週間でいいから休ませてくれ。この腫れさえ取れれば元に戻るから」っていう思いを必死に伝えるんだけど、「ダメだ、やれ」って言われて。

 

痛くてパフォーマンス上がらない。向こうはオレに不信感持ち始める。だから結局ラストの5試合、昇格がなくなったところで外されて、もう一切試合に出なくなって。だからすごく何か、自分の中ではね、終わりかたが残念だったというか。

 

シーズンが終わってリェイダは契約を更新しないって。でも消化不良だったし、すごく純粋にサッカーを楽しめたし、がむしゃらに上を目指してたころの楽しさに立ち返れたというのもあって、もう一年スペインにいたいと思っったんですよ。それでマリノスに話をしたんだけど、他のクラブからのオファーはないよっていわれて、じゃあ戻りますって帰国したんです。

 

でも、2002年もう1回スペインに行ったとき、現地の記者に「当時、5チームぐらいからの話があった」って言われたんです。サラマンカっていう当時1部のチームからもあったみたいで、あとは2部のチームが4つ。そのうちの1つはアトレチコ・マドリーBだったみたいで。アトレチコ・マドリーBは23歳までしかいられないんだけど、あの当時オレ22歳だったから取りたいと言ってくれてたみたいなんです。結局どう話が流れたのかわからないんですけどね。

 

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練習中に「出て行け!!」と言われた……監督との衝突

プロに入ってうまくいかなかったりとか、自分より上手だったりした選手との競争とか、そういうことからは逃げて、結局スペインに行って。でもそこで自分の原点に立ち返れたときって、1人を克服できたというか。

 

仲間とか家族とか、いろいろ支えてくれた人たちっているんだけど、でも結局自分に勝たないと始まらないっていうの、あるじゃないですか。結局、最後は孤独だし。

 

どんだけわかり合ってるつもりでも、どんだけ仲間と言ったって、誰かがすべて助けてくれるわけじゃないし。やっぱり自分で乗り越えなきゃいけない。自分の弱さと向き合ってる中で、その孤独感に勝たなきゃいけない。リェイダにいた時間が、オレのプロ生活の中で唯一しっかり向き合って、戦った時期じゃないかなっていう感じですかね。

 

1999年には清水に移籍して、マリノス戦でゴールして、ステージ優勝したじゃないですか。でもあれも、基本は逃げてたし。向き合わなかったから。

 

スティーブ・ペリマン監督には言われてたんですよ。体を張ってボールを収めるターゲットマンになりなさいって。でもオレはスペインに行ってマリノスに戻ってきてプレーする中で、どっちかというとスルーパスを受けてドリブルで仕掛けて、っていうのが自分だと思ってたから。

 

でもペリマンからは100パーセントのポストプレーヤー、常にゴールに背を向けた状態のプレーを求められたから。それにサイドバックの裏に流れて起点を作って、上がってくる市川大祐かアレックス(三都主アレサンドロ)にボールを落として、そこからクロスを入れるって。役割としては味方がクロスを上げるための潰れ役だと。

 

仮に中にいても、役割はクロスに対して一番近いところのDFの前に入るということになって。たとえそのDFがゴール前からスライドしてても、その前に入んなきゃいけない。なぜならクロスは一番前のDFにクリアされる確率が高いし、そこを越すとチャンスになるから、そうさせないためって。

 

オレとしては、クロスを上げる選手にファーストDFにぶつけないクロスを求めろよと思ってたんだけど、ペリマンは「ミスは誰でもあるから、そこに1人はいりなさい。それがあなたの仕事です」って。

 

そんなところに入ったって点にならないじゃんってのがあったんだけど、お前が点取れなくても、お前が潰れて流したものを久保山由清や澤登正朗さんや逆サイドから入ってくるアレックスが決めるからと。

 

「いや、オレはゴールしたい」っていう気持ちが、もう強くて。本当に毎試合、正直イライラしながら試合をしてたし、たぶんペリマンもそれがわかってた。冗談抜きで毎週、休み明けのトレーニング、オレ、ほぼ参加してないですからね。ペリマンに監督室に呼ばれて、映像を見て「ほら見ろ、お前がここで潰れたからこんなにうまく流れてる。お前がここでヘディングで競ってるから、後ろでチャンスが生まれてる」って説明されて。

 

でもオレは面白くなくて。ドリブル禁止だったし、ボールを受けたらパスしなさい、だったし。でもそれも、今にして思えば、じゃあそこと向き合って、言われた仕事をしながら、自分を出す方法を考えればよかったんだけど。

 

どう考えたって周りに落とせない瞬間もあるんだから、そのときは自分で仕掛ければいいとか、言ってることはやりながらさらにもう一つ目指す、みたいなね、そう思えなかったから。とにかく、「つまんねぇ、つまんねぇ」だから。

 

ペリマン監督の後のゼムノビッチ・ズドラヴコ監督とは激しくやりあって、8月か9月か、1カ月ぐらい練習参加禁止になったし。あれは今でもオレの主張は間違ってないと思うんだけど、ただ、行動が悪かったかな。

 

練習中、割と若いやつにスライディングしたんですよ。すごく正当なタックルが決まってボールカットしたのに、監督からすごいキレられて。ピーって笛吹いて止められて「あぶねぇファールするなよ、ヤス!!」って怒鳴られて。

 

「はぁ? ファウルじゃねぇし」って、大木武コーチもいたんで聞いたら「うん、ヤス、今のはファウルじゃない」って。「でしょ? そう監督に言ってよ」みたいな苛立ちを抱えながら。

 

で、監督が次の練習用にコーン並べてて、「次こんな練習するけど、僕は汚いファウルは許さないよ」ってみんなの前で言って。で、「ふざけんなよ!! だからファウルじゃないって言ってるじゃん!! 大木さんもそう言ってるんじゃん!!」って。

 

そうしたら「僕はバカじゃないよ、見ればわかるんだよ」って。「ヤスのは人を傷つけるファウルだよ」って言うから、「ふざけんな!!」っつって、監督が並べたマーカーを端から蹴って。そうしたら「出て行け!!」っていうから「出てってやるわ!!」っつって出て行って。

 

2016年から2017年まで自分が相模原で監督やったとき、ゼムさんが総監督をやってる千葉のチームと練習試合することがあって、「ゼムさん、あのときごめんね」って謝ったよ。自分が監督のときに同じことする選手がいたら、そりゃ練習から出すよ。

 

2001年にマリノスに復帰したんだけど、セバスティアン・ラザロニ監督ともぶつかって。2001年はマリノスが残留争いしてて、その年はよかったんだけど、次の年に、なんだったか理由は覚えてなんだけど揉めて、それでまたスペインに行くことになって。

 

自分の中で、「苦しいものと本気で向き合って乗り越えた」っていうのは最初のスペインのときだけで。あとはなんだかんだ言いながら、うまくいかない理由を全部外に求めてたから。もっと自分に向ける必要があったと思うし、向けてたら、ここまで大事にはならなかったことも一杯あるし。

 

監督になった自分が、選手の安永聡太郎を見たら、すごい面倒くさい選手だと思う。そしてオレが監督をしたJ3の中でも、オレと一緒のような選手が一杯して。プロになるまで育ってきた過程の成功体験を引きずってるっていう。

 

オレは選手がストレス抱えてるなって思うと話をしにいって、「あなたの成功体験はいつ通用したの?」っていう話をまずして、話を聞いて。で、まずはその成功体験を1回捨てろと。

 

「今までどの監督からも使われなかったわけで、それを評価されていないというのは簡単だけど、トレーニングで見せて、しっかりやっていればどこかでチャンスを与える」と。「そのチャンスが回ってきたときにつかむかどうか、いい選手だったらつかめるし、自分がいい選手だと思ってるんだったらつかめるでしょ?」って話をして。

 

「ピッチで見せてくれよ」っていう話をシンプルに。それ以上は、結局オレもそうだったけど、あんまりああだこうだ言われても、そのころの若い自分の頭だとなかなか入ってこないし、「ピッチでやれよ」って言われたほうが、やっぱり困るしね。

 

現状うまくいってないのは自分でもわかってるから。うまくいかない理由を外に求めて、監督や周りのせいにしてるのなら、「見せなさい、見せたらすぐレギュラーだよ」って言う。それくらいシンプルな方がいい。そう思ってるのは現役時代、自分がいろいろやったから。そういうアドバイスをしてくれる人がいたら良かったけど(笑)。

 

最後、2006年10月29日にマリノスが引退試合をやってくれて。ちょうど柳想鉄さんと一緒にというのもあって。かわいがってくれた方々がいっぱい来てくれて、すごく楽しくプレーできて。

 

ナオキもね、アイツがサッカー辞めた後何するかってのはね、すごく楽しみではあったけどね。今考えても、何やってたんだろうなって。でも、アイツもアイツで存分に楽しんだでしょう。短い人生だったけど。いろいろ経験したし。他の人が80年生きるぐらいのものは感じただろうしね。

 

子供が5人いるから家族での外食は掘りごたつがあるもんじゃ屋さん

今、子供5人いるから、外食するときは食べるものを何にするかというより、わりと座敷があってとか、店の構えがどうかってことで選んでるんですよ。子供を連れてって文句言われないかとかさ。だからファミレスはすごい気楽にいけますよね。あと、イオンモールとか、ああいうところのフードコート。そこはすごい気が楽。

 

それ以外に家族で行くお勧めの店は、二子玉川にあるもんじゃ屋さんで、「おしお 囲店」っていうところですかね。たぶん月島に本店があるところ。子供たちもチャカチャカやるのが好きだから。あまり小さい子がいると鉄板が危ないっていうのもあるんだけど。

 

そこ行ったら明太餅チーズを必ず食べるかな。それ、お勧めですね。掘りごたつで食べるっていうのがいい感じだから、割とそこに行くかな。オシャレな感じじゃないですけどね。

 

ちょっとオシャレな感じだと、自由が丘に「BAKE SHOP」という店があるんです。ビルの4階に、カフェチックなバーガーとか、パンになるのかな、メシをしっかり食べられる喫茶店みたいなのがあるんですけど。そこはちょっとモーニングとか、昔は嫁さんと食べに行ったり、そういうのはチョコチョコしてたかな。

 

昼飯だと、ハンバーガーとかパスタとか野菜サラダ系も豊富でおいしいんですよ。お勧めはそこのハンバーガーかな。今もときどき行ってますね。

 

おしお 囲店
〒158-0094 東京都世田谷区玉川3-11-1 柳小路 東角2F
2,000円(平均)1,000円(ランチ平均)

r.gnavi.co.jp

jiyugaoka BAKE SHOP
〒152-0035 東京目黒自由が丘2-16-29 IDEE SHOP Jiyugaoka4F
3,000円(平均)1,500円(ランチ平均)

r.gnavi.co.jp

 

 

安永聡太郎 プロフィール

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清水商業高校から1995年、横浜マリノスに入団。1997年にはスペイン移籍、98年にマリノス復帰し、その後は清水エスパルスなどでプレーした。2005年の引退後は指導者として活動し2016年から17年にはSC相模原監督も経験。現在は解説者としても活動している。

1976年生まれ、山口県出身

 

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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