不良少年のままJリーガーになった男の壮絶人生……松原良香はゼロからいかに這い上がったのか

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回はジュビロ磐田やアトランタ五輪代表として活躍した松原良香さんにお話を伺いました。プロ入り前の不良少年だった時代のエピソードや、Jリーガーになった後の成功と挫折、そして海外を放浪しながらチームを探し続けた日々、引退後のゼロからのスタートなど、規格外の壮絶人生を歩んだ松原さんの濃厚なエピソードをたっぷりと話していただきました。 (大崎のグルメ焼肉

不良少年のままJリーガーになった男の壮絶人生……松原良香はゼロからいかに這い上がったのか

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現役時代は威圧的だった

松原良香の目はいつもギラギラしていた

話を聞こうと思っても

人を寄せ付けない空気を漂わせていた

 

ところが現役を終えて久しぶりに会うと

まるで別人ではないかと思うほど変わっていた

笑顔を絶やさず温厚で

話し方も朗らかになっていた

 

人がここまで変わるというのは

それだけ大きな経験をしたからだろう

松原が恥ずかしそうに語った昔話と

変化した食事の風景を聞いた

 

出場して3分で退場、大学は2日で辞めた

ホントにね、昔はツンケンしてて、バカやってました。タチが悪いんじゃないんですけど、やっぱり昔の「ワル」って感じだったですね。みなさんにホント、申し訳なかったです。でもサッカーはものすごく好きで、今でも大好きなんで、そこだけはあったんで。

 

東海大第一高校(現・東海大学付属静岡翔洋高校)のとき、高校サッカー選手権静岡県決勝の静岡学園高戦で、途中出場して3分で退場処分でしたし。蹴られてムカついてカッとなって追っかけて蹴っとばしたら、相手の監督の井田勝通さんの目の前で。

 

両校とも全校生徒が応援に来てるじゃないですか。その相手の応援団から「おい! 良香が蹴った!」って怒鳴られて。で、解説が静岡学園高OBの三浦泰年さんで、東海大一高校OBの澤登正朗さんとかもみんな見に来ていて、「コイツ、とんでもねぇヤツだ」ってことになって。

 

高校を卒業するときも、いろんな人に迷惑かけて。僕は勉強もできなくて散々迷惑をかけてましたけど、ある大学から声がかかってたんですよ。でも、当時高校からその大学に行った人がいなくて。大学の監督からは直接連絡をもらったんですけど、高校としては僕じゃダメだろうという感じだったんですよ。

 

みんなはそう言うけど、僕はその大学に行ってみたいと思ってたんです。けれど最後はやっぱり諦めて。そんなとき、大阪にある大学が熱心に声をかけてくださっていたんです。僕が入学するならもう1人取ってくれると。

 

そういうことで僕はその大学に行ったんです。でも、正直に言うと最初に声をかけてくれた大学に未練もあって、「それでもいいから来い」「いやだったら辞めればいい」と言ってくださったんですけど、そんな気持ちのまま大阪に行くことになって。

 

それで大阪に着いたときから、「なんだ、こんなごちゃごちゃしたところにオレは住むのか」とか、もうケチ付けちゃうんです。原付の免許も持ってなかったんで、電車に乗って移動するか先輩のバイクの後ろに乗るという移動もイヤで。しかも調子に乗ってるから、先輩のサッカーを見て「ヘタクソだなぁ」って言っちゃったり。

 

僕たちの時代って、静岡県選抜がユース日本代表と試合して勝っちゃう時代じゃないですか。アトランタ五輪のときのメンバーは半分が静岡出身ですし。だからいつも僕たちのほうがうまいって思ってるんですよね。

 

で、そのままの思いで行って、そうしたらグラウンド整備をさせられて。当たり前ですけど。でも当時は「なんで先輩のほうが下手なのにオレがグラウンド整備なの」って思っちゃって。ホント、今考えると申し訳ないです。

 

僕が高校を卒業した1993年ってJリーグがスタートして、同じ高校の同学年だったテル(伊東輝悦)とか白井博幸がエスパルスに入って注目されてて、「オレもプロになりたいな」って思ったりとか。もう一つの大学に行ってみたかった、というより自分で道を決めたかったという思いもあって。

 

大阪に行くとき、親父の車で荷物を運んでもらって、電化製品も向こうで買って、下宿に入ったんです。けど、2日後には静岡にいました。すぐ辞めたんですよ。そのせいで僕の高校の後輩はその大学に取ってもらえなくなって。ホント、すみません。最低なことやってしまいましたね。最低です。

 

海外を経由してJリーガーになったけど…

それで大学を辞めたあと海外に行くんですよ。世界大会に出たいという思いがあって。僕たちの年代は1990年のアジアユースU-16選手権で勝てなかったし、1992年のアジアユースU-19選手権でも勝てなかったから、その悔しさがすごくあったんです。次は絶対に世界大会に出ようぜって、西野朗監督や山本昌邦コーチは言ってて。

 

それで大阪から静岡に帰ってきて、どこかのチームに入れてもらおうと、オヤジと一緒に恩師を頼りエスパルスに行って、ジュビロに行って、本田技研に行って、全部断られて。どこもその年のチームがスタートしてましたし、それに僕は高校時代に何度も退学になりそうになったりしてて、僕の扱いにくさをみんな知ってたと思うんですよ。

 

先輩の森島寛晃さんがいたんでヤンマーには声をかけてもらいましたけど、でも行きたくなくて、結局ぷらぷらしながら白井の家に転がり込んで。あいつは1人暮らししてたんで居座って、吉野家でバイトでもしようと思ってたんです。

 

そうしたら山本さんから電話があって、「ちょっと会わないか」って。そうしたら「お前なんだって?学校辞めたんだって? どうした?」って心配しててくれて。それで説明したら山本さんが「お前、海外に行かないか?」「お前悔しくないか?」って提案してくれたんです。そのとき、僕は「海外には行きたい」って思ったんですよ。

 

静岡って朝やってるサッカー番組がいくつかあったし、静岡だけで発行されているサッカー雑誌もあって、その中でブラジルで活躍するカズ(三浦知良)さんのことをいつも目にしてたんですよ。ブラジルのキンゼデジャウーやサントスと一緒にカズさんが日本に帰ってきてプレーして、僕はカメラを持って試合を見に行ったんです。そういう世界への憧れってずっとありました。

 

「お前は日本人がいないところに行け」って言われてクラブを探して。当時、パラグアイのオリンピア、チリのコロコロ、ウルグアイのナシオナルかペニャロールがあるということで、結局ペニャロールに決まったんです。

 

山本さんはペニャロールに1年に2回ぐらい来てくれましたね。わざわざ。五輪代表がスタートするときだったんで、僕がどんな状態かって見に来てくれて。

 

そのとき山本さんはスパイクも持ってきてくれたんです。僕にお金が無いのを知ってて、「このスパイクを履け」って。ところが僕はそのスパイクを売っちゃって遊びに使うわけですよ。ずっとあとで山本さんには告白して、「そうだったのか、お前は!」って呆れられました。

 

それで帰国してジュビロに入るんです。ジュビロは当時ハンス・オフト監督で、あんまり仲良くなかったんですよ(笑)。オフト監督はいろいろ決まり事を作って指示するタイプで。動きも「この範囲内でプレーしろ」「全てこういう動きをする」「こっちに入っちゃいけない」とか決めるんですよ。ボックスの幅で動けとか。

 

今となってはその意味がわかるようになりましたが、当時の自分には理解できなくて、「なんでこの人、自由にやらせてくれないの?」って思ってて。僕はそういう監督の指示を噛み砕いてくれる人がいたら理解できたかもしれません。

 

そういうのがわかるのはやっぱり山本さんで、会ったときには「これはこうだから、こうやるんだよ」って教えてくれるんですけど、山本さんは五輪代表チームのほうに行ってるからあまり会えないんです。

 

それに細かいことでもぶつかっちゃって。クラブはプーマと契約してたけど、僕は何にも気にしないでアディダスのシューズを履いて練習場に行ってたんですよ。そうしたらオフトは、3本線を塗りつぶせと言うんです。

 

「なんだ、お前のその靴は」って、塗りつぶされて。僕もトロいんで、またアディダス履いて行くんですよね。そうしたらまた見つかって「塗りつぶせ」って言われて、そういうのの繰り返しです。

 

1994年にジュビロに入ったときって18試合に出場して7得点取ったんです。でも、2年目は急に出番が減って。たぶんオフト監督は僕を気に入らなかったと思うんですよ。僕が言い返したりとかしてたんで。

 

そうしたらオフト監督は僕が点を取ってるのに別の選手を使ったりとか。ところが年俸は2年目の1995年のほうが上がったりして、矛盾してたんです。僕はそういうのがあまり好きじゃなくて。今思えば、オフト監督は僕のことを思ってくれてたと思うんです。でも当時はそんなこと全く思わず、目の前の現象でしか判断できませんでした。

 

そうしたら、エスパルスの永島昭浩さんが神戸に移籍するってことで、アトランタのときにエスパルスから電話があって「お前、来ないか?」って。僕も元々清水の高校だったんで、1996年にエスパルスへ移籍しました。

 

どうしても遊びたくて浜松からタクシーで渋谷まで行った

1994年ジュビロに入団したころから、僕、毎週東京に遊びに行ってたんですよ。サッカーフィーバーだったんで、いつも東京のゾノ(前園真聖)のところに行ってたんです。

 

そんなのが楽しくて、楽しくて。だから、今ではバカみたいな話ですけど、あるとき試合が終わって浜松駅まで急いだんですけど東京行きの最終の新幹線に乗り遅れて、どうしても僕は遊びたくて、浜松からタクシーで渋谷まで行ったこともあります。

 

ゾノはいつも僕のために一部屋空けてくれてましたね。ゾノとは今でも仲いいですけど。ゾノだけじゃなくて、アトランタ五輪の選手たちはみんな仲いいんですよ。あのチームは途中までも僕たちの世代が中心で来てて、そこにヒデ(中田英寿)とか松田直樹(故人)とか、マコ(田中誠)も加わって。そのみんなで連絡取り合ってますし。今でもみんなで集まって懇親会をやるんです。家族も一緒に。

 

僕はあのチームの立ち上げから最後までずっといた選手の1人なんで、どうやってチームがスタートして最後はどうなったか見てますけど、攻撃の選手と守備の選手の仲が悪かったとか、そういうのはまるでないんですよ。

 

試合のときは、ゾノやヒデとか城(彰二)もそうだし、僕もそうですけど、もっとこういう感じで攻めたいとかは言いました。鈴木秀人とかハット(服部年宏)とか、後ろの人間は「そんなに行くな」って言い返すんですけど、でもそんなの普通で、逆にそれがないほうがおかしいですよ。

 

それにみんなすごくサッカーが大好きだったんですよ。なんで僕たちがアトランタ五輪に出られたかというと、誰が何を言っても「世界大会に出るため」って目標に戻ってたんで。

 

だから「お前が言ってることは世界に出るためじゃねぇのか?」とか、そういう基準でみんな考えてたんです。五輪のときも全てブラジルに勝つためとか、ナイジェリアに勝つためとか、そういう基準だったんで。

 

西野監督にしても懲罰的に誰かを使わないとか、そんな小さな監督じゃないですよ。もちろん使われなかった選手はブツブツ言ってましたけど、でも対立するとか、全然そんなことはなかったです。

 

ただ、当時は五輪代表の選手にいろんなスポンサーが付いてくれたり、一般の雑誌とかが取り上げてくれたりしてました。僕たちもサッカーが持つポテンシャルとか、こんなに人気があるんだとかわかって、だんだん変わっていったんですよ。

 

五輪のアジア最終予選でサウジアラビアにゾノが点を取って勝ったときと、アトランタ五輪のときじゃ、明らかに空気が変わってました。周りが変わった部分もあると思うし。待遇もコックさんが帯同してとかになるじゃないですか。しかも相手がブラジルでさらに注目されて。だから空気感は予選とはまるで違ってましたね。

 

僕はアトランタ五輪に出るというのが一番の目標だったんで、大会後は燃え尽き症候群みたいになってしまって。「次はワールドカップだ」って言われてたら、多分僕、シフトを変えてそっちに自分のエネルギーを注いだかもしれないと思うんです。

 

でも僕は18歳でウルグアイに行って、目の前でウルグアイ人の選手がヨーロッパのチームに移籍するのを見てたし、彼らが戻ってきていい車に乗っていい家に住んで、という変化も見てた。そうすると、「次はヨーロッパに挑戦したい」と思ったんです。

 

あのまま残っていたら……欧州挑戦からの放浪

それでそのあとまた海外に行くんですけど、これが辛い経験でしたね。

 

1997年にはジェフに行って、1999年にザイ(財前宣之)もいたクロアチアのリエカに移籍したんです。シーズン途中で入って、チームは優勝争いをしてたんですけど、僕をベンチに入れてくれたり、時々使ってくれたり。クロアチア代表とかハンガリー代表とかが攻撃の選手でたくさんいたんで、すごくやりやすかったし。

 

1年プレーして、リエカはまた契約したいと言ってくれたんですよ。給料は最初の年って安すぎたけど、次は生活していけるようなレベルの給料を提示してくれて。すごくいいところだったし、自分は本気でやろうと思ってたんですよ。

 

そのときの代理人は僕のこと大キライだったらしいです。彼からすると「オレはヨシカに投資して頑張ってきたのに何だ」って。飛行機代やホテル代は自分で払うんですけどね。代理人は送り迎えとか、一緒に食事したら出してくれるとかそういうことを言ってると思うんですけど。

 

その代理人が「ヨシカ、お前ならもう1つ上のレベルに行けるから」ってオーストリーのラピド・ウィーンに話をするって言うんですよ。それで一度日本に帰ってもう1回ヨーロッパに行ったら話がまとまらなかったと。

 

それでも次はイタリアのクラブがあるってことで、ミラノに行って契約を待ったんですけど、それもまとまらない。で、リエカに戻ろうと思ったらリエカの話もなくなって。

 

その間の滞在費とか全部自分持ちですよ。ミラノには2週間かそれ以上だったかな、ずっとホテルにいて。とにかく朝1人で公園に走りに行ったりとかそれくらいしかできなくてヒマなんです。

 

そうしたら代理人から電話があって「明日チェックアウトして、スイスに来い。朝チューリッヒの駅で待ち合わせしよう」って。「ミラノの駅はスリがいっぱいいるから気を付けろよ」って言われたんで、僕はすごくたくさんスーツケースを持ってたから、必死でスリに気を付けながら電車に乗ったんです。

 

それでチューリッヒについたら代理人が待ってて、「FCチューリッヒに練習参加するぞ」って。「え? 今日ですか?」って驚いたけど、彼は「このあと午後に練習があるから」って。慌ててホテルにチェックインしたんですけど、スイスは物価が高くてヒヤヒヤです。

 

それで練習に行くチームバスに乗ると席がないんです。チームバスって誰がどこに座るか決まってるじゃないですか。だから僕は代理人と一緒に立って、山の中の練習場に行って、着いたら試合して。

 

そのときは、まぁまぁの出来だったと思います。点は取らなかったと思うんですけど活躍して。そうしたら、次の日も来いと。それで次の日にも行ったら、何と相手がバイエルン・ミュンヘンなんですよ。何もできなくて。それでダメだったんです。

 

そりゃそうですよ。2週間トレーニングやってなくて、オフで日本に帰って、練習参加するわけでなく何もやってない状態でいきなりバイエルンですから、そんなに簡単にいくわけない。

 

でも、チューリッヒに練習参加だけはさせてもらえて、勘を取り戻そうとしたんです。そうしたらそこにゾノもやってきて。ゾノも海外移籍しようとしてて、それでゾノの泊まるホテルに潜り込んだんですよ。ホテル代や食事代はゾノが払ってくれてたんで、ホッとしながらゾノと一緒にチューリッヒの練習に参加してました。

 

そうしたら代理人からドイツのハノーファーに来いって連絡があったんです。ハノーファーに飛んだら、ドイツサイドの代理人が待ってるからって。

 

それで朝9時ぐらいだったかな、到着したら誰もいないんですよ。代理人に慌てて「いないよ」って連絡したんですけど、代理人も「え?」って。ドイツの代理人は21時と勘違いしてたんですね。その後彼と会えて。ところがそこからが辛くて辛くて。

 

チームがあると言ってたから行ったのに、結局無くて。しかもどこにも練習すら参加できなくて。結局、スタジアム巡って、クラブ紹介されながら、アンヘルという6部か7部ぐらいのチームですかね、そこで練習して。

 

しかも僕はまだ調子に乗ってたんで、アンヘルの試合を見ながら「オレが入ったら決められる」とか言ってたんですよ。すると、練習のときにガツンと来るんです。変な日本人が来た、みたいな。

 

それでもとにかく動かないといけない。ずっとトレーニングしてないから試合勘も、練習勘すらない。自分でジャガイモ畑を走ってました。でもね、24時間練習してるわけじゃないんで。あれがキツかったですね。クロアチアを出てから3カ月ぐらいですかね。

 

アンヘルに行ってたときはペンションに泊まってたんですけど、テレビは一つしか無いし、週末はフロントの人もいなくなるし。そのペンションに結構長いこといましたよ。まぁドイツは南米と比べると便利ですけどね。ただ自分がプレーできるのにプレーできる環境がないと苦しかったですね。

 

代理人は僕に「1部じゃないと行ってもしょうがない」といつも言ってたんですけど、僕はプレーしたいというのが一番で、2部でも3部でもプレーしたいと言ってたんです。

 

それでいろんなチームを周って、あるとき3部のクラブに練習参加したら「ほしい」と、具体的な給料も言われたんです。スタジアムを見に行ったら人もいっぱい入ってたんで、ここでやりたいと思ったんですよ。

 

ところが代理人同士の間でお金の取り分で揉めてダメになったんです。ドイツの代理人はスペイン語を話すんで、僕も会話の内容がわかったんですけどね。まぁ代理人にすると当然ですよね。自分が送り迎えしたり食事した分を取り返そうとするのは当たり前ですから。

 

で、最後にたどり着いたのがスイスのデレモンだったんです。デレモンでプレーしたときって、無給だったんですよ。それでも僕はプレーしたかったんです。それくらい追い詰められてて。

 

デレモンには3、4カ月いたんですかね。試合には出してもらったんですけど点も取れず。当時、ステファン・シャプイザがいたグラスホッパーだとかバーゼルとかと対戦しましたけど、デレモンは最下位のチームで、いいときにボールなんて来ないんですよ。

 

でもやっと試合に出られたし、休みのときはスイスのベルンやいろんなところを周って楽しかったんですけど、ただサッカーに関しては。「オレ、こんなことやってていいの?」って思いました。「もう日本に帰るしかないかな」って。

 

そうしたらゾノがベルマーレに入るって言ってきたんです。「え? J2じゃん」「いや入る。キュウ(加藤久)さんに呼ばれたから。良香も来いよ」って言われて、それが縁でベルマーレに入ることになったんですよ。

 

リエカを辞めてベルマーレに入るまで7カ月ぐらい経ってました。ときどき、もしあのまま最初のリエカに残ってたらきっと人生は違ってただろうと思います。

 

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仲間たちが雲の上の存在になっていく焦り

ベルマーレの後もウルグアイに行き、アビスパに入って、2002年、もう1回ウルグアイに行ったんですよ。アビスパのときは手術をして試合に出られなくなって、クラブはJ2に落ちて。

 

そうしたらウルグアイのエージェントから、「昼間は選手としてプレーして、夜は指導の学校に行ったらどうか」って言われたんです。エスタディオ・センテナリオの中にある学校で、代表の経験のある選手にはテストが免除されるからって。

 

それで日本サッカー協会から僕が代表選手だったと証明するレターを出してもらって、学校に入れてもらったんです。昼間はデフェンソール・スポルティングっていうクラブで練習して、夜は指導者学校に行ったんですよ。

 

でも僕のメインの目標はプロサッカー選手として契約することなんで。ところがいつまで経ってもデフェンソールとプロ契約ができないんです。おかしいと思って、自分で聞きに行ったんです。「どうして僕は契約できないの? どうなってるの?」って。

 

そうしたら、お前はサッカーの勉強でうちのチームに来てることになってるから契約するつもりはないし、最初からそう言われてるからって。あぁ、エージェントにやられたって、それでわかりました。

 

指導を勉強できたのはよかったと思います。学校にはサッカーだけじゃない人も来るんですよ。バレーボールとかバスケットとか。2002年日韓ワールドカップがあって、「なんで日本はいきなりあんなに強くなったんだ」とか言われながらやってて。それはいい経験だったんですけどね。

 

でも、2002年って僕は子どもが生まれたばっかりだったんです。単身で行ってたから離ればなれで。僕、選手のときにカミさんとか家族で住んだことって、たぶんベルマーレの1回ぐらいしかないと思うんですよね。そういうのも辛くて。

 

それに今だから言えますけど、僕が未熟だったので、ウルグアイに行ってる間に日本で詐欺に遭い、知人に預けた財産がなくなったんです。

 

それでデフェンソールを辞めて、納屋宣雄さんの紹介でブラジルに行ったんです。2カ月ないぐらいなんですけど、グワラチンゲタってクラブで練習して、納屋さんの友だちがボタフォゴの監督になるから入るかって言われて「はい」って。

 

ところが自分が入団しようとしたら、その監督がクビになっちゃったんです。それでこれはもうダメだと思って、とうとう日本に帰ってきました。帰ってきたらキュウさんから、沖縄でかりゆしFCの監督になるけど来ないかって誘ってもらって、それで僕はスッカラカンのまま沖縄に行くことになったんです。

 

沖縄ってね、弁当が大きいんですよ。しかも安い。だから安くて一杯入っている弁当をカミさんの分と2つ買って、その2つを子どもを入れた3人で分けて食べたりしてました。

 

2002年日韓ワールドカップを見ながら、焦りはありました。自分のチームがないときにみんなが活躍してて、どんどん上の方に行くわけです。雲の上の存在になって。自分がどんどん離されているというか、自分の夢と現実と全く違って、それは辛かったですね。こんなになっていくんだって。そこでいろいろ学びましたよね。

 

引退後、ゼロからのスタートで自立することに目覚めた

僕、2005年に静岡FCで引退したんですけど、それは自分がもう代表選手に届かないっていうのが一つ大きな要因でしたね。引退してから僕は特に自分が変わってきたと思います。いろいろわかってきて。

 

やっぱり自分がやってきたことって、そのあとの人生に出るんだなって。それから親とか家族とか本当に大事しないとダメだなって。キザですけど、親とか家族を愛せないといい仕事はできないって。

 

それから、僕は人から必要とされるということがすごく好きなんだってわかったんです。必要とされて、その人の期待に応えたらもっとうれしい。だからこそ、人から必要とされるためには自分は勉強しなきゃいけないって。

 

引退したときはゼロからのスタートでした。僕には家も何もない。カミさんは働いてて、子どももいる。だから僕の実家のある静岡で仕事ができればと思いました。

 

けど、やっぱり自分がトップレベルからいなくなった時間が長すぎて、ジュビロには入れなかったし、エスパルスもダメで。それで千葉稲毛海岸にあるカミさんの実家に同居して、食わせてもらってるという感じで生きてました。

 

そんなとき静岡FCのGMだった納谷さんが「おい良香、お前監督やってみないか?」って言ってくれたんです。それがすごいグッときて。「JFLに上がりたい」というこの人の目標に、何とか自分が少しでも恩返しできたらって。

 

僕はいろいろ考えて覚悟を決めて、稲毛海岸から毎日藤枝静岡FCまで通うことにしたんです。3カ月の新幹線の自由席代も含めた定期が、当時は39万円ちょっとだったんです。それを買って、朝一番の新幹線に乗って、カミさんが、いつもおにぎり2つとお茶を持たせてくれてたんで、それを新幹線で食べながらトレーニングを考えてました。

 

静岡駅に着いたら納谷さんの家まで歩いて行って車を借りて、僕より15歳ぐらい年上のブラジル人コーチを迎えに行って、彼と一緒に藤枝に向かいながらトレーニングの話をして。で、練習が終わると、最後に車を返しに納谷さんのところに行ってその日の報告をして、千葉に帰ってくると。

 

月給は定期代で全部無くなるんです。するとカミさんの実家から駅までは少し距離があったんですけど、そのバス代が出せない。それで恥ずかしい話ですけど、僕はそれまで乗ったことのない自転車を義父さんに借りて駅まで通ってました。

 

最初駅に行ったときは、自転車ってタダで置いていいと思ってたんです。そうしたらお金がいるんですね。社会経験が全くなかったんでそんなことも知らず、一度家に帰ってお金取ってきました。

 

必死でやってましたけど、それじゃ生活できないんですよ。だから静岡からの帰りに東京のフットサル場でサッカースクールをスタートしたんです。

 

最初はカミさんの知り合いから教えてほしいって言われた子ども1人だったんです。教えたらまた教えてほしいって言われて、もう1回教えたら、ますます「ぜひ教えてほしい」って。

 

「じゃあ5人呼んできてください」ってお願いして、うちの兄貴もちょうどサッカースクールをやってたので、真似ながらプライベートレッスンをやったんです。僕、必死に、本当に必死で教えたんです。生活しないといけないし、食べていかないといけないんで。いつまでもカミさんの実家にいるわけにはいかないから。

 

そうしたら5人が9人になって、どんどん増えてって80人、100人になって。何かスポンサーがついたわけではなく、生徒一人一人がスポンサーでした。

 

必死にやれたのは、雨でも雪が降っても毎日藤枝まで通いきったという経験が大きかったですね。やり通せたことがすごい自信になったし。

 

そうやってやってくうちに、僕はこのままどっかのJクラブに入って下部組織のコーチを目指すよりも、自分でやったらもっといろんなことができるだろうなって思ったんです。

 

思えば南米やクロアチアの仲間もそうですけど、今もコンタクトを取ってる人って、自分でビジネスをやってるんですよね。自立してる。自分で自分の道を切り開いてる。

 

僕はゾノといつも一緒にいたんで、「おい良香、ベルマーレで一緒にやろうよ」「おい良香、サッカークリニックあるからちょっとやろうよ」って、ゾノがステージを用意してくれてたんですよ。

 

そうじゃなくて、自分でやらなきゃいけないというのをすごい感じたんですよね。そう思ったら、感謝とか、挨拶とか、いろんなことを覚えていくんです。電話一本入れる。電話だけじゃなくて、このタイミングはメールを入れたほうがいいんだとか、いろいろ学びました。

 

もっと勉強もしなきゃいけないと思って、筑波大学大学院人間総合科学研究科スポーツ健康システム・マネジメントにも通ったんです。卒業まで2年かかったんですけどみんな協力してくれたおかげで卒業できた。それが今に生きてるんです。そして自分がやってることが周りに喜んでもらえるようになって、それがうれしいですね。

 

何よりうれしいのは、ゾノやヒデたちと、またこうやって一緒にいられる。ゾノとは月1回、一緒にフットサルをやってるんですよ。ラモス(瑠偉)さんが「おう、良香」って言ってくれたり、カズ(三浦知良)さんが「良香、お前の解説よく聞いてるよ」って言ってくれる。

 

僕からすると雲の上になっていった人が、こうやって頑張ってると、また同じステージに近づけて、さらに環境がよくなれば、自分もまた成長していける。また自分が成長するとさらにいい話をもらったりとかできるようになったんです。

 

今、サッカースクールは全部で250人ぐらいですかね。いろいろなところでやらせていただいてます。その間、苦しいことも沢山あり、懸命に乗り越えてきました。一時期、もっと多い人数がいたんですよ。セカンドキャリアとしては順風満帆だったと思います。でも、そこでスクールを取られる経験もしました。

 

その経験もよかったと今は感じてます。だから今のサッカー選手たちには人間教育が大事で、失敗することこそ、成功に繋がっていくことを知ってほしいです。

 

やっぱり人間形成だと思うんです。トップレベルの選手は人間的に素晴らしいじゃないですか。そんな選手になって人に感動や夢を与えられるように、サッカーを通じてきちんと指導しなきゃいけない。そういうことが大事だなって。自分を振り返ってみてもそう思いますね(笑)。

 

大崎にある焼肉屋さんへよく行っている

仕事ばかりやってたんで、家族と外に食べに行くというのはなかったですね。もちろん、誰か自分の教え子とか食べに連れて行ったりもしてましたし、何かお祝いのときは行ってました。

 

でも家族で食事なんて、前はそんなことしなかったですね。家族で一緒に食事するとか、絶対といっていいほどなかったんです。

 

ただ痛い思いをしていろいろわかりました。今は家族で行ってます。最近ですね。今はそうやって食べるのが楽しいです。

 

今行く店の1つに大崎にある焼肉屋さんがあるんですよ。「光陽」っていう焼肉屋さんで。ちょうど大崎駅を降りた目の前なんですけど、そこの上タンとハラミがうまいと思います。ハラミは上ハラミじゃなくてハラミがおいしいんです。それ、実はそこにいるおばちゃんに教えてもらったんです。

 

お肉の白い部分と赤い部分のバランスが絶妙だし、見た目もいいんです。おいしそうだねって見ただけで思いますよ。しかも肉が、薄すぎても厚すぎてもなく、本当にちょうどいい加減に切ってある。お皿に載せたときに肉ばかりが目立ったりしてないんです。味だけじゃなくて、そういういろいろなところがすごいんで、ぜひ食べてみてくださいね。

 

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松原良香 プロフィール

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東海大一高校から大学、ウルグアイのチームを経て1994年、ジュビロ磐田に入団。その後、エスパルス、ジェフ、クロアチアやベルマーレなどを経て2005年、静岡FCで引退した。引退後は指導者、サッカースクール経営、解説者など多岐にわたって活動している。

1974年生まれ、静岡県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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