ロシアワールドカップのスタジアムの外で
ラルフ鈴木アナウンサーは大汗をかいていた
手に持ったノートに何かを書いては消し
読み上げてはまた修正している
画面の中ではとても華やかな男性だが
オフスクリーンでは走り回って話題を探していた
そんな姿勢がにじみ出していたからこそ
多くのサッカー関係者に信頼されたのだろう
だがワールドカップでは記者席を後輩に譲り
自分は別の席で試合を見ていた
12年間勤めたニュース番組も卒業した今
自分が背負ってきたことを語ってくれた
「ZERO」卒業とアナウンサーの原点だったインストラクター業
入社は1998年で、スポーツコーナーを担当したのは一番最初が入社3年目、2001年の「スポーツうるぐす」でした。それから17年間、ずっとスポーツを追い続け、2018年9月末に「NEWS ZERO」のスポーツコーナーを卒業しました。
これからは少し時間に余裕ができるので楽しみなんです。これまでは「ZERO」の準備の時間から逆算して動かなければいけなかったり、注目の試合や記者会見があれば、当日でもいきなり取材に出たりと、バタバタの日々でした。
17年間、ずっと現場にいたんですけど、やっぱり現場が楽しいし、最前線で取材できることが喜びでした。結果的に、長く番組もやらせてもらって、現場にも行かせてもらって。そこの部分に関しては、「ZERO」の卒業は寂しく思っています。
「ZERO」の卒業に関しては、選手の姿にも照らし合わせていました。選手たちにとっても「代表の引退」とか「次の世代に」、という時は必ずやってきます。選手である限り、常に最前線でプレーしたい、と思うのは当たり前だと思います。でも世代交代の流れがきたときに、代表に呼ばれなくなったり、そろそろ「お疲れ様」の雰囲気が漂い始めるのも事実です。
そういった意味で、最近、選手たちは自ら代表引退を宣言していますが、そこには、選手としてピークのイメージのまま代表は卒業する、という「思い」「プライド」があると思います。
私も先輩から仕事を引き継ぎ、後輩にバトンタッチしてきました。今回、「ZERO」13年目を迎えるに当たり、番組のリニューアルが行われ、このタイミングで卒業することになりました。自分の中ではスッキリしています。
「テレビ」というのは、たくさんの人が見ていて、そこには老若男女がいて、それぞれの立場でものを見るから、価値観はそれぞれ違うと思います。私は入社当初から、元気いっぱい、ハイテンションで伝える番組を担当することが多く、「すごい元気あっていいね」と言ってくれる人もいれば、「そのテンションはちょっと苦手」という人もいました。
自分はどう見られたいのか、これについてはけっこう悩みました。いろんな方にアドバイスをいただき、やはり結論としては、自分の本来の姿で戦いたい。「楽しく、一生懸命に」。そう思って続けてきました。
またアナウンサーの役割は、時代の流れとともに変わってきたと思います。日本テレビが私をアナウンサーとして採用したこと自体が、特にそれを表していると思います。
1998年、日本テレビ入社の際、私は民放で初の、いわゆる「ハーフ」のアナウンサーでした。海外に長く住んでいて、語学はできるが、日本に住んでいる滞在期間は短いし、日本語を話している期間は圧倒的に他の人よりも短くて。「正しい日本語でニュースを正確に伝える」という、アナウンサーの役割と価値観からすると逸脱していました。
私は、日本で生まれて、父親が航空業界に勤務していた関係で、小学校入学と同時にドイツのデュッセルドルフに4年間住むことになりました。その後、オーストリアのウィーンに9年間、小学校5年生から高校3年生まで住み、その後帰国し、慶應義塾大学に進みました。
小学校と中学校は、日本人学校に通って日本の教育を受けていました。でもドイツもオーストリアもドイツ語圏だったので、学校から一歩出ればドイツ語ですし、地元のサッカークラブに入ったりして、そこで自然とドイツ語が身につきました。オーストリア出身の母親が常に周りにいたのでドイツ語を耳から学ぶことができましたし。
日本人学校は義務教育の中学3年までしかなく、高校をどうするか、いくつかの選択はありました。オーストリアの地元の高校に行く、あるいはヨーロッパにある日本の高校の付属校に行く、などありましたが、最終的に、私は、オーストリアにある「アメリカンインターナショナルスクール」に進みました。
そこは一転して、基本的にすべて授業は「英語」でした。そのため高校時代、学校では英語、一歩外に出るとドイツ語、家では日本語、という状況でした。なかなか大変な環境でしたが、英語とドイツ語を覚えることができたことは大きな財産となっています。
また、雪国オーストリアはウィンタースポーツが盛んのため、「スキー一家」だった私の家族は、冬になるといつもスキーに出かけていました。スキーに魅了された私は、高校時代、スキーインストラクターの「国家検定資格」を取得しました。帰国後は、日本の資格に移行させて、大学時代は、新潟のスキー場でインストラクターをやっていました。
基本的に「スキーインストラクター」は、まったく立場も、年齢も、出身地も違う人たちをまとめて、その方たちを指導しながら、移動中はトークなどで盛り上げながら一日を過ごします。レッスンを通じて、良いところを褒めて伸ばし、修正したほうがいい部分を見つけ克服させていきます。
このように、海外で、いろんな国のいろんなタイプの人と接してきたこと、さらにスキーインストラクターとして、老若男女のみなさんと接してきた経験が、今のアナウンサーという仕事にも非常に生きていますし、スポーツ選手のみなさんとのコミュニケーションや、信頼関係の構築に大きく役立ちました。
この「信頼関係」に関してですが、長くスポーツ番組を担当したことで有意義な取材をすることができました。監督、選手、チーム関係者にとって、やっとアナウンサーの顔も、名前も覚えた、というときに違うアナウンサーにバトンタッチしてしまうと、せっかく信頼関係が生まれてきて、心を許せる状態になってきただけに、非常に残念に思うそうです。
そういう意味で私は「ZERO」で12年、通算でも18年近くスポーツの現場に携わることができたため、監督や選手のみなさんから、信頼感と安心感を得ることができたのかもしれません。
これからのアナウンサーは原稿を読む仕事以外も求められる
私は、スポーツの取材現場では、なるべく「本質」を大事にしようと思っています。もっとも大事なことは「スポーツが好き」であるということ。スポーツが好きであれば、どんな過酷な現場でもポジティブにとらえることができるんです。
例えば、「カメラがない取材」も当たり前です。たとえまったく放送されなかったとしても、制作スタッフがいなくても1人で行きます。大事なことは、カメラが「ある」「ない」ということではなく、現場で選手や監督の思いを直接聞いて、肌で感じて、放送に臨むことだと思っています。
「現場第一主義」、ここはかなりこだわりました。今はデジタル化が進み、分からないことは「スマホ」で簡単に調べることができる時代です。今はネットで数多くの情報を得ることができますが、それに慣れてしまうと、今後、自分で取材に行かなくなってしまう、そんな怖さもありました。
現場に行くのは、暑い、遠い、疲れるもので、正直だんだんとおっくうになってくるんですが、それでも「アナログ」かもしれませんが、自分が見て、感じて、聞いてきたものを伝えたい。やはり自分で取材して伝えたものは、誰よりも説得力があると思います。この思いは、後輩たちにも伝えています。
また、アナウンサーの枠を超えて色々とチャレンジすることも今後、大事になってくるかもしれません。例えば、東京のスタジオだとスタッフも揃っていますし、最高の機材があり、フロアのディレクターも、スタイリストさんも、メイクさんもいて、最高の環境なのです。
ただ、それがオリンピックや、ワールドカップ、海外のイベントなどになると、スタイリストさんもメイクさんもいませんし、ディレクターも1人だけ、ということが当たり前です。
このような状況において私は、「アナウンサー」という役割だけではなく、「こういうネタどうですか」、「こういうカメラの動かし方どうですか」という「ディレクター」の役割や、海外選手でのインタビューでは「インタビュアー兼通訳」をし、監督、選手たちの、「アテンド役」もやり、外国のレストランで撮影の取材許可をもらう「コーディネーター」のようなこともやりました。
例えば、今やサッカー選手も、「FWなんだけど、サイドバックもできます」、「先発でなくても、途中出場で流れを変えられます」といった、1人で2つのポジションをこなせることが求められています。
今後、アナウンサーも、「出された原稿を読むこと」だけではなく、「便利屋さん」ではないですが、多くを求められ、それに応えることが必要になってくると思います。
テレビの世界は「熱しやすく、冷めやすい」と言われます。同じ人が、同じ現場で、同じ仕事に長く携わっていると、「もういいかな」「新しい何か欲しいな」と思うのは世の常です。
飽きられないために、どうすればいいのか。いつも新鮮に思ってもらうためには、様々な「術(すべ)」や「技」を磨いて、その時代に合ったものをしっかりとグリップする必要があります。ZEROでは、いつもこのことを心掛けていました。
取材を通じて、スポーツの世界でも同じようなことがあると感じました。「ある」選手がずっと先発で長くプレーしていると、「そろそろちょっと違うヤツも見てみたい、使ってみたい」となるのは、どの競技にもあると思います。
それでも、飽きられずに、第一線で先発を張ってきている選手は、常に進化を続け、「まだこんなことができるんだ」、「まだこんなプレーの引き出しがあったのか」と監督や、サポーターを驚かせてきました。
サッカー日本代表でいうと、川島永嗣、吉田麻也、長友佑都、長谷部誠、本田圭佑、香川真司、岡崎慎司……この選手たちは競争率が高い世界において、長い期間に渡って、ポジションをずっと確保している。
「世代交代」という波が押し寄せても、ポジションは奪われないのは、日々の努力の成果の他なりません。彼らの活躍の裏にある、「葛藤」や、「努力」を目の当たりして、私自身、多くの刺激を受けまし、活力になりました。本当に感謝しています。
コロンビア戦の勝利を伝えながら感情がこみ上げた
そして「オンエア」で記憶に残っているのは、やはり2018年ロシアワールドカップの日本の初戦、コロンビア戦の直後に、その第一報を伝えることができたことですね。
最近の日本代表は、なぜか期待値が高いと悪く、期待値が低いと良い、その振り幅が大きいですよね。ロシアのときも、直前のヴァイッド・ハリルホジッチ監督の解任騒動から始まって、やはり世の中の期待値としては低かったと思います。
だからこそのあのコロンビア戦の勝利は、素晴らしかった。改めて、スポーツの世界は、「結果がすべて」ということを教えてくれました。あのシンジ(香川)の雄叫びには、グッとくるものがありました。
「いい意味でみなさんの期待を裏切りたいし、評価を覆すことが大きなモチベーションになるので、低評価はウェルカムです」と語っていた、長友選手のワールドカップの言葉が今になって身に沁みます。
日本代表は、様々な雑音を、結果で黙らせた。かっこいいですよね。彼らはそういう力を持っているんだ、ということを再確認しました。このことを理解したうえで勝利を伝えたときは、やはり感情がこみ上げてきてしまいました。
さらにこんなことがありました。試合前、コロンビアサポーターを取材すると、「ニッポン勝ち点3ありがとう!気を付けて帰ってね!」、というチャントを歌っていたんです。勝利を確信していたんですね。
しかし結果は日本の勝利。試合後、コロンビアサポーターが意気消沈してスタジアムから出てくる姿は今も鮮明に覚えています。その明と暗、天国と地獄、歓喜と失意の対比、コントラストこそ、スポーツの醍醐味ですし、それを最前線から伝えることができたというのはアナウンサー冥利に尽きると思います。
私は、今後、取材の幅をさらに広げていきたいと思っています。スポーツのイベント、試合に加え、その競技を司る組織などにもスポットを当てていきたいと思います。スポーツの世界は必ずしも明るいニュースだけではないですから。
これまではどちらかというと、「広く、浅く」取材をしてきました。アナウンサーにとって、「広く、浅く」というのは悪いことではありません。浅くてもいいから、色々なことを知っておくのは大切で、「知らない」ことのほうが問題だったりします。しかしこれからは、さらに広く、そして、今度は深く、掘り下げていくような取材をやっていきたいと思います。
また、こういう仕事の性質上、自分の番組を持つ、ですとか、本を出版してみたい、という夢はあります。さらに、イベントなども企画してみたいという思いもありますし、これまでの経験を今後どうやって生かすのか、何ができるのか、など一日中考えています。
2020年東京でオリンピック、パラリンピックにも携わりたいですね。これまでは、「最新の情報を熱いうちに出す」という仕事をやってきましたが、これからは「しっかり料理して温めたものをおいしいタイミングで出す」ことをやっていきたいと思います。これって「ぐるなび」的には美味しいセリフですか(笑)?
「僕の体は日本テレビの食堂で作られている」
これまで12年間「ZERO」をやっていたときは、基本的に夕方出社なので、だいたい夕食は日本テレビの食堂で食べていました。そう考えると僕の体は、ほぼ「食堂」で作られた体です(笑)
この食堂、まず何と言っても、値段が300円、350円、400円と非常に安いんです。「サラダバー」、50円です。50円なのに皿に盛り放題なんです。しかもちゃんと栄養バランスを考えた食事ですね。
日テレは、ちょっと会社から出ると、近くのグルメ、おいしいイタリアン、フレンチ、和食などあって、最初はそのグルメを食べることを羨ましいと思っていました。しかし、そこを割り切っちゃえば、これだけリーズナブルで、体にいいものを食べることができるというのは最高ですよ。そもそも我々のこの業界は、健康に気を遣いますし、「24時間営業」というのを考えたときに、ちゃんと栄養を取ることは重要ですから。
また食堂では、スタッフと食べながら「今日の放送どうする?」という打ち合わせをしながら話すこともできますしね。それから、食堂には会社の色々な人が集まります。アナウンス部やスポーツ局の人間だけでなく、人事部や、総務部、営業部の色々な人とコミュニケーションを取る上でも大事な場所ですよね。お互いの意思の疎通を図りながら、次につながる話も出てきます。
さらに、この日本テレビのビルからは素晴らしい東京の夜景が見られるんですよ。本来なら仕事ではなく、プライベートとして来たいですけどね(笑)。
メニューは、Aが和食、Bが洋食、Cが今日の日替わり、Dが麺です。たまに5つ目のメニューもあって、僕はそれぞれを一週間に1回ずつ食べるという感じですね。お勧めは……そうですね、やはりお魚を食べる機会は多くないので、「焼き魚」とか「煮魚」の定食ですね。
その他にも「サンマ」や「あじの開き」だったり、「煮付け」だったり。その魚がおいしいんですよ。普段、魚をなかなか食べないので、あえて魚を選ぶようにしています。これから歳を取ってくると、やっぱり魚料理って体にいいみたいですよ。料理番組で言っていました。これは素直に実践しています(笑)。
ラルフ鈴木 プロフィール
日本人の父とオーストリア人の母を持つハーフ。慶應義塾大学を卒業後、日本テレビに入社。「スポーツうるぐす」や「NEWS ZERO」のスポーツキャスターなど、サッカーをはじめとしたスポーツの取材を数多く担当した。また「高校生クイズ」の司会を務めるなど、バラエティ番組に登場することもある。
1974年生まれ、東京都出身
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。