名良橋晃は移籍、代表落選、世代交代をどう向き合ったのか……現役時代の葛藤を語る

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は名良橋晃さんに登場していただきました。ベルマーレ平塚で攻撃的なサイドバックとして日本代表入りして以降、鹿島アントラーズでも一時代を築き、1998年のフランスW杯では3試合すべてに出場した右サイドバックのレジェンドです。貴重な日本リーグ時代のエピソードなども交え、自身のサッカー人生を振り返っていただきました。 (たまプラーザ・あざみ野のグルメランチ

名良橋晃は移籍、代表落選、世代交代をどう向き合ったのか……現役時代の葛藤を語る

f:id:g-mag:20181024170658j:plain

ワールドカップに出場した選手が

ずっと順風満帆なサッカー人生を歩んだわけではない

2部リーグからキャリアをスタートし

すぐJリーグには入れなかった

 

そんな中で子どものころからの夢だった

ワールドカップ出場を名良橋晃は諦めなかった

ワールドカップの思い出もあるが

代表に入るためにはどうするか迷ったときが忘れられないという

 

まだ移籍が後ろ指をさされていた時代に

そこまで自分を育ててくれた恩のあるチームを

あえて自分から出て行ったときの心境と

その後の代表を巡る苦しい思いとともに聞いた

 

もともとは左サイドバックだった

現役時代で今でも忘れられないのは、日本代表に入るか入らないか、外れたけどどうすれば復帰できるだろうかって考えてたときのことですね。

 

最初は1996年のシーズンですね。ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)でプレーしてたんですけど。あのシーズンというのは、自分の中で葛藤がありました。

 

日本代表には1994年に就任したロベルト・ファルカン監督の時代に初めて呼ばれて出場させてもらったんです。けど、その年の12月に加茂周監督に代わり、1995年のキリンカップやアンブロカップにはメンバー入りしたんですけど、10月ぐらいからは外れるようになって。1996年はずっと代表に入らず、ベルマーレも成績が低迷した中でトニーニョ・モウラ監督から植木繁晴監督に代わってしまったんです。

 

ベルマーレはその前の年も監督交代をしてて、トニーニョ・モウラ監督がベルマーレにやって来て新たなスタートを切ったのが1996年だったんですけど、また結果が出なかったし、自分としても自分のプレーに納得できなかった。

 

1998年フランスワールドカップに向けて日本代表を目指すという気持ちが自分には少なからずあったんで、どうすればいいかと思って、考えたというか悩んでたんです。僕は高校を卒業して最初にフジタに入って、そこからベルマーレになってJリーグに入るまでずっとプレーしていましたからね。

 

ただ、1990年にフジタに入ったとき、あれは完全に騙されました(笑)。僕が入るってきまったあとにJSL2部に落ちたんですよ。「あれ? JSL1部じゃないんだ。自分の選手生活はいきなり2部スタートかよ」って思ってましたね。

 

でも後から考えると、2部に落ちたことで世代交代が考えられていた部分もあったんで、それもよかったかなって。1年目から少しずつ試合に出られるようになりましたし。最初は「なんだよ」って思いましたけど、実はタイミングがよかったんです。

 

JSLでは2年プレーしたんですけど、フジタはJリーグ参入が遅れたんで、今度はJFLでプレーすることになって。フジタがJリーグに入れなかったんで、いろんな選手のところにはJクラブからのオファーがあったらしいです。僕にはなかったんですけど。

 

でも、みんなフジタに入って、ここまで伸ばしてもらったという思いがあったんで、このチームをみんなでJリーグに上げようという思いが強くあったんですよ。他のチームに行くより成長できるとも思ってましたし。

 

結局JFLでは2年プレーしたんですけど、1993年はフジタ、ヤマハ(現・ジュビロ磐田)、東芝(現・北海道コンサドーレ札幌)とのすごい三つ巴決戦になって。そんな中で何としても結果を出そう、出してあげようという思いはありました。

 

1993年のJFLではサイドバックでアシスト王をとりました。なんだかんだでやっちゃいましたね(照れ笑い)。あれは、僕の1学年下にテル(岩本輝雄)が入ってきて、そこからつながってるんですけど。

 

僕は元々左サイドバックだったんですよ。ユース代表のときもバルセロナ五輪予選のときも、ずっと左でした。フジタに入ってからも1年間は左で。でもテルが入ってきて、ヘッドコーチのニカノールから「どうしても2人使いたいから、お前が右に行け」って言われたんです。そこから右サイドバックは生まれたワケなんですけど。

 

テルとの出会いから自分があると思います。もし左だったらここまでのサイドバックになってなかったかもしれないと。いろんな出会いがあった中で今の自分があるのかなって。

 

それでやっと1994年にはJリーグに加入することができたんですけど、Jリーグに入ったすぐのファーストステージでは12チーム中11位だったんですよ。JFLのときはイケイケで通用したんですけど、Jリーグは格上ばかりで、今で言う両サイドバックが上がった裏を徹底的に狙われて、失点が続いて。

 

でもニカノールは絶対やり続けると、頑として信念を曲げなかったですね。それでセカンドステージからはテルを一つ前に上げて、公文裕明さんが左サイドバックに入って多少バランスがよくなって、そこからよくなって2位にまでなったんです。

 

そんな苦しいときをずっと知ってましたから相当思い悩んだというか。フジタ、ベルマーレで育ててもらったという気持ちがありましたし、ベルマーレでプレーして、結果を出して日本代表に入るというが一番の理想だと思ってたんです。

 

でもどうしても何かを変えなきゃいけないという時期が来たのかもしれないってその時は思って。

 

 ベルマーレからアントラーズへ移籍を決めた裏側

1997年のベルマーレは今振り返ってもかなりいいメンバーが揃ってました。日本代表っていうことでいうと、GKに小島伸幸さん、DFに名塚善寛さんがいて、テルや田坂和昭もいて、中田英寿もいて、前も野口幸司さんがいて。都並敏史さん、反町康治さんもいましたね。ベッチーニョやアデミールはいなくなってましたが、洪明甫とロペス・ワグナー(1997年9月に帰化し、呂比須ワグナー)が入ってました。

 

それはそれで魅力だったんですけど、移籍したいと思った鹿島アントラーズには1995年にジョルジーニョが入団してたんです。大好きだったジョルジーニョ来たんで、アントラーズの試合は逐一ずっとチェックしてました。

 

それで思ったんです。ブラジル代表でプレーしてたときの右サイドバックじゃなく、ジョルジはボランチをやってた。だから、もしかしたら右サイドバックの自分がアントラーズにいっても、まだチャンスがあるかなって。

 

でも自分の気持ちだけでは鹿島に行けないじゃないですか。その当時、移籍ってあまりよくないイメージもあって。しかも年齢によって移籍係数があって、移籍先のチームは高額な移籍金を用意しなくちゃいけなかった。だから1996年のシーズンはぼんやりアントラーズに行きたいなって思ってました。

 

1年かけて決断するまでにはいろいろな方にも相談しましたし、自分の中でもどうすればいいかって自問自答を繰り返しました。ベルマーレに育ててもらったという気持ちもあったし、それまで支えてもらったサポーターもいたし、そういう本当にいろんな思いもあって、すごく悩みました。

 

けど、どうしても自分としては日本代表に復帰したい、ワールドカップに出たいというのがあって。子どものころからの夢だったし、その夢を実現させるためにも日本代表にもう一回戻りたい、サッカーがうまくなりたいという思いが日増しに強くなって。それでアントラーズに行くという選択を決断したんです。

 

年に数回ジョルジと対戦するだけよりも、練習を一緒にやっていくことも、味方としてプレーすることも自分の財産になるだろうと思いました。それにあとは相馬直樹と同じ方向を向いてプレーしたいなって。相馬が左サイドで僕は右サイドだったんで、対戦相手としてプレーするといつもお互いにらめっこしてたんで。

 

僕は気の向くままに上がっていくタイプだったんですけど、相馬は賢いんで周りを使いながらいいタイミングで上がっていくんです。そんな相馬と、味方としてプレーしたり練習したりすると盗めるものがあるんじゃないだろうかって。影響力も強い選手でしたし。

 

相馬は僕が一番意識してたプレーヤーだったんですよ。向こうはわかんないですけど、僕はそういう思いを持っていて、それがアントラーズでやりたいという気持ちをよけいに強くして。

 

あのころは1年契約が普通だったんで、ベルマーレには1997年は契約しませんという話をしたんです。でもアントラーズとはまだ何の契約も決まってなくて、しかも移籍はベルマーレとアントラーズの交渉で決まることになっていて。あのときは代理人もいなかったですし、こちらは何もできないという状況だったんです。あとはクラブ同士の話し合いにお任せするしかなかった。

 

僕には他のチームからもオファーがあって、あとで聞いたら、そっちのチームは年俸も係数も満額で出しますと言ってくれてたらしいです。でも僕の気持ちはぶれなかったし、もしアントラーズが用意しくれる移籍金が足りなかったら、僕の年俸を削ってでもいいからって。そういう情熱だけは伝えてました。

 

歯がゆい日々が続きましたね。1997年のシーズンが始まって、もうベルマーレもアントラーズも始動している中で宙ぶらりんな状態で。1月の、たしか1、2週間ぐらいはひとりで自主トレをやったと思います。でもベルマーレが移籍金の話も穏便に済ませてくれて。そんな交渉をベルマーレがやってくれたのは本当にありがたかったし、今でも感謝してます。

 

あの年の移籍って、ゾノ(前園真聖)と城彰二とビスマルクと僕がしたんですけど。ゾノと城が話題になって、あのふたりは叩かれてかわいそうでしたね。僕はギリギリに決まったんで、あまり取り上げられなかったというか。

 

移籍した当時は、フジタの経営が苦しくなっているという話はありませんでした。1997年は、まだすごいメンバーが多かったですからね。でもそこから苦しくなっているようだというのを聞いたりしてました。

 

 

アントラーズのレベルの高さに驚いた

やっと移籍が決まったんで、強化部長の鈴木満さんと2人でアントラーズが合宿していたブラジルに急いで向かったんです。で、一緒に練習したら「ヤバイ」と思いました。付いていくのがやっとなんですよ。

 

チームの雰囲気はすごく厳しいし。それでも自分にとって大きな存在だったジョルジーニョと一緒にプレーすることで吸収するものがすごくありました。

 

ところが、僕が合流したときって、まだ日本代表組が遠征してて、いなかったんです。代表組が戻ってきたら、黒(黒崎比差支)さんいて、アキ(秋田豊)さん、本田(泰人)さんというそうそうたるメンバーで。そうでなくても内藤(就行)さん、奥(野僚右)さん、増田(忠俊)さん、長谷川(祥之)さん、鬼木(達)さん。もちろん相馬がいて、若手だったら柳沢(敦)、平瀬(智行)とか阿部(敏之)ちゃんとか室井(市衛)とか。外国籍選手もビスマルクとかマジーニョもいましたし。

 

トップチームのレベルが高いのももちろんなんですけど、サテライトのチームでもすごい。正直、「ここでやっていけるかな?」って思ってました。

 

ただ、実際にうまくなってるとはすごく思いました。練習の中でも、吸収することがすごくあったんで。だから無我夢中ですよ。それにレギュラー取るっていうのが日本代表に復帰するためには大前提だったんで、「右サイドバックのライバルを超える」というのを明確に意識してました。

 

アントラーズってトップチームとサテライトチームでロッカールームが全然違うんです。自分はトップチームのロッカールームを使ってたんですけど、落ちたら移動しなければいけない。だから「こっちのロッカーを守らなきゃいけない」と思ってました。

 

自分がいつサテライトに行ってもおかしくないメンバーばかりだったんで。とにかく毎日、必死でした。だから1997年の序盤は、代表に戻ろうとか復帰しようというより、アントラーズでやっていくので日々精一杯の時期でしたね。

 

そうしたら1997年にまた代表に呼ばれるようになったんです。実は5月21日の、ヒデがデビューしたホームの日韓戦に呼ばれるんじゃないかって言われてたんですけど、そこは外れて。そのときは自分としても調子がよかったんで、「もう呼ばれないんじゃないか」って悲しくなってました。

 

でも6月のキリンカップで戻ることができたんですよ。選ばれたときは代表に帰ることができてホッとしました。でもそれは一瞬だけでしたね。またそこから競争でしたから。柳本(啓成)がいて、ミニラ(中村忠)もいて、強力なライバルばかりでしたから。

 

ただ、そのあといろいろ苦しい思いもしましたけど、最後は日本代表のレギュラーになることができて、1998年フランスワールドカップでは3試合ともプレーすることができました。それはいい思い出として残ってますね。ただ、ワールドカップに出るところも苦しかったですけど、僕にとってみると、1996年から1997年の苦しさも同じぐらいで、あの移籍のときの苦しさは忘れられないです。

 

f:id:g-mag:20181024170742j:plain

 

トルシエに選ばれなかった悔しさ

1998年フランスワールドカップのときより、2002年日韓ワールドカップのときのほうが、自分の中ではすごく調子がよかったと思います。いつ呼ばれてもおかしくないと思ってました。

 

でも、フィリップ・トルシエ監督にはずっと選ばれなくて。あのときの悔しさは、ホントに今でもありますね。コンディションも悪くなかったんで、「1回でもいいから使ってくれ。それでダメだったら諦める」という気持ちでした。

 

けど、1回も呼ばれなかったんで、どうすることもできなかったんですよ。アントラーズで結果を出しながらプレーを維持してたんです。それしか自分としてはできなかったので。

 

それでもね、2002年日韓ワールドカップのメンバー発表のとき、最後まで自分の中では選ばれるんじゃないかなっていう、淡い期待はあったんですよね。でも最後の最後に入ったのはアキ(秋田豊)さんとゴン(中山雅史)さんだったじゃないですか。あれがすごく羨ましくて。

 

最初、トルシエ監督は右サイドバックにボランチ的な選手をはめてましたよね。シゲ(望月重良)ちゃんとかテル(伊東輝悦)とか。僕はタイプが違うから選ばれないのか、と思ってたら、イチ(市川大祐)が復帰して。

 

イチが戻ったってことは、少ないにせよ同じタイプの自分にもチャンスがあるんだなって思ったんですよ。でも入れなかったですね。あのときのほうが2006年のときよりも悔しかったですね。

 

2002年は一生に一度しか味わえない自国開催で、それもあって悔しかったですけど、メンバーが発表された後は、そのメンバーに託したというか。こっちとしては応援するしかなかったんで。何か逆に、日本のワールドカップという雰囲気をすごく楽しみましたけどね。

 

今でも僕はトルシエ監督が嫌いですからね。これは声を大にして言いたいです。そこは人生ずっとそう思い続けると思います。好きになんかなれないですね。それくらい引きずりました。

 

2002年ワールドカップの後、ジーコさんが日本代表の監督になったんですけど、2006年ドイツワールドカップのときに自分が34歳かって考えると、どれくらいチャンスがあるんだろうって正直思ってました。

 

ジーコ監督は最初、選んでくれてましたね。代表に帰ってすごくうれしかったのは、当時息子は小さかったんですけど、ある程度はわかってたんで、「自分のお父さんはすごいんだぞ」って言ってくれたことでしたね。息子が鼻高々になってるのを見ることができたのは、よかったと思います。

 

ただ、ジーコ監督は、自分の戦術ややり方がわかっている選手をチームに入れて、そこで周りの選手にうまく伝えるのも求めているのかなって思ってましたけど。

 

それでも1年ぐらい選ばれていたんですけど、2003年6月8日、長居のアルゼンチン戦がターニングポイントでしたね。1-4で負けたんですけど、自分のプレーはそんなに悪くなかったと思ってたんですよ。

 

それで次は11日に埼玉スタジアムでパラグアイ戦があったんですけど、その前の練習でDFラインを総取りかえしたんです。「あ、これは変えるんだろう。でも1回だけ変えるのかな」ってちょっとだけ思ってました。

 

18日からはフランスでコンフェデレーションズカップがあったんで、そこにつなげるためにも層を厚くするような考えなのかなって思ってたんです。でも、実際フランスに行って最初のニュージーランド戦の前の練習でも、パラグアイ戦で使った選手でした。それで、「これはもうこの選手たちに変えるんだろう」ってわかったんです。

 

悔しいという気持ちはありました。何と言うんですか、敗因を押し付けられた戦犯になって。けど、やはり代表のメンバーだし、年齢も年齢だし、雰囲気ってことも考えましたし、盛り上げなきゃいけないし。

 

気持ちを押し殺して、右サイドバックで出ている(山田)暢久にプレーなんかをいろいろアドバイスして、自分としては、いつまた呼ばれても大丈夫な準備というのをもう一回やりました。葛藤はありましたけどね。若い自分だったら「なんだよ」って感じを間違いなく出してしまったでしょうね。

 

その後は代表に呼ばれなくなりました。でもそのときはスパッと切り替えたんですよ。アントラーズは2001年以降タイトルを獲ってなかったから、2003年はアントラーズでタイトルを狙うっていう意識にすぐ変わりました。

 

内田篤人との世代交代

そのあともね、苦しい時期というと、2006年に(内田)篤人が入ってきて世代交代ってときも苦しかったですね。

 

篤人は同サイドで、僕はケガがちということもあったんですけど、パウロ・アウトゥオリ監督はスパッとそこを変えましたね。篤人は入団してすぐ、開幕からスタメンになりましたし。

 

僕は篤人が高卒ってことでいろんなアドバイスもしましたし、それが篤人のプレーのプラスになっていればいいなって思ってました。篤人はすぐに素晴らしい選手になったと思います。

 

だから2006年シーズンが終わって僕がアントラーズを出るとき、鈴木満強化部長に篤人に「2番」を付けさせてほしいとお願いしたんです。そこは曲げなかったですね。悔しかったですけど、その前に付けた方(ジョルジーニョ)が素晴らしい方でしたし、なんか中途半端な選手だけには付けてほしくなかったので。

 

僕の中では大きな背番号でしたし、それぐらいの選手に付けてほしいって。篤人はこれからアントラーズを引っ張っていくような選手だったんで。それが僕の気持ちでした。実際に付けてくれて、オズワルド・オリヴェイラ監督のときにはリーグ戦を3連覇してくれたし、ヤマザキナビスコカップ戦も天皇杯も取って。しかもドイツに行って帰ってきたあとも、また2番をつけてくれたんでうれしかったですね。

 

僕の選手生活を振り返って、ワールドカップも出て、リーグでもタイトルも取ったし「いいサッカー人生だったな」って言われることもあるんです。でも自分の中ではいろんなことを考えましたし、悩みましたし、葛藤もあって悔しい思いをしたなって。自分の中では何かこう……順風満帆じゃなかったサッカー人生でした。

 

現役を終えて好きな時に好きなものを食べられるようになった

僕は元々食が細いんですよ。現役のときって無理矢理食べてたんです。体が資本ですから。だから必死で食べてて、食べられなかったときはプロテインとかゼリーとかを流し込んで。

 

現役を終わって、自分の好きな時間帯に食べられるというのがホッとしたというか、自分の好きなタイミングで自分の好きなものを食べられるっていうのはいいですね。

 

若いときはいろいろ食べていたんですけど、プロでやっていく中で栄養学はいろいろ学びました。そのとき、揚げ物とか脂っこいモノはダメじゃないですけど、脂肪が付きやすいって聞いて、スパッと決断して食べなくしました。今でも脂っこいモノは食べられないんですよ。

 

だから洋食和食かと言われると、和食のほうが好きですね。もちろん洋食も食べてましたけど。

 

鹿島だったら、「加賀屋」っていうところの蕎麦が本当においしいですよ。辛み大根蕎麦ってのがあって、それが僕の中では最高です。他にもトロロそばは僕の推しですね。店の奥に畳の部屋があって、そこに行ったらチームの誰かがいるという感じでした。アントラーズの、家族ぐるみのたまり場でしたね。

 

他にもブラジル料理の「ベリンバウ」っていうレストランにも通ってました。そこは今でも行きます。あとは「釜めしつくだ」っていうところがあって、そこは釜飯がおいしいですよ。

 

神奈川県でいえば、たまプラーザにある「大かまど飯 寅福 たまプラーザテラス店」ですね。いろんなところにある和食店です。そこは時々行ってます。

 

それから江ノ島に本店がある「とびっちょ」ですね。釜揚げしらす丼が、それはもうすごいですよ。大型ショッピングセンターのららぽーと横浜の、ちょっとオシャレなフードコートにもあるんです。僕が釜揚げしらす丼を食べたいときは、妻に「ららぽーとに行こうか」って言って、食いつかせて、インターセプトするという作戦をとってます(笑)。

 

r.gnavi.co.jp

 

r.gnavi.co.jp

 

大かまど飯 寅福 たまプラーザテラス店
〒225-0002 神奈川県横浜市青葉区美しが丘1-1-2 たまプラーザテラス ゲートプラザ3F
2,000円(平均)1,000円(ランチ平均)

r.gnavi.co.jp

 

r.gnavi.co.jp

 

名良橋晃 プロフィール

f:id:g-mag:20181024172122j:plain

千葉英和高校から1989年、フジタに入団。1994年にはベルマーレ平塚としてJリーグ昇格し日本代表にも選出さ、97年には鹿島アントラーズへ移籍した。

日本代表としては1998年のフランスW杯など38試合に出場。引退後は解説者、指導者として活躍している。
1971年生まれ、千葉県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

f:id:g-gourmedia:20150729190216j:plain

佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

バックナンバー

                             
ページ上部へ戻る