最後は心が折れてしまった……太田吉彰を劇的に変えたヨーロッパ挑戦と震災の記憶

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回はジュビロ磐田の太田吉彰選手に登場していただきました。ジュビロ磐田でレギュラーを奪取後、オシム監督時代に日本代表に選出されていたことをご記憶のファンも多いことでしょう。しかし、その後単身で欧州へ乗り込み挑戦をしていたことはそんなに知られていないかもしれません。今回はその欧州挑戦で心が折れたエピソードやベガルタ仙台時代のエピソード、さらに中山雅史さんの意志を受け継ぐ背番号への思い入れなど濃いお話を存分に話していただきました。 (浜松のグルメランチ

最後は心が折れてしまった……太田吉彰を劇的に変えたヨーロッパ挑戦と震災の記憶

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2007年、太田吉彰はイビチャ・オシム監督に選ばれた

ベトナムなど4カ国で開催されたアジアカップのメンバーになったのだ

だがついに出番は来なかった

この年から磐田では「7番」を付けた選手は失意のうちに帰国した

 

その後の太田は意外な経歴を辿る

2010年は磐田を離れヨーロッパ移籍に挑戦した

だが結局契約することなく日本に戻り

仙台に行くことになる

 

2015年にはJ2の磐田に復帰

背番号は「9番」になった

守備でも奮闘するなどプレースタイルは変わった

太田に何が起きたのか話を聞いた

 

35歳のいまも走行距離はダントツ

今年35歳になるんですけど。まだ行けますね。ルヴァンカップのときには走行距離がダントツ1位でしたし、速度も1位、スプリント回数も1位だったんで、「まだまだ行けるわ」って余計に自信がつきましたよ。

 

スピードを保つための食事ってやってないんですよ。ただ、筋トレは昔から好き、って言ったらおかしいですけど、よくやってます。他のチームまで含めて考えたって、この年齢では誰にも負けてないと思ってるんで。

 

筋トレの量は今でもチームでダントツ1位っていう自信はあります。筋肉の形も、量も誰にも負けないと思ってます。見た目もキレイだと思いますね。筋肉には自信あります。「筋肉イケメン」と呼んでください(笑)。

 

これまでで自分が辛かったのは、2010年にヨーロッパ挑戦してダメだったときですね。チームがなかったのと、ヨーロッパではホテルも自分で予約したりとか全部やってたんで。まぁあの経験があったから今でもできてると思うんですけど。

 

結果3、4チームしかテストを受けられなかったんですよ。練習の受け入れ先もさほどなくて。ヨーロッパにずっと滞在してるんですけど、いつ日本にいる代理人から「どこどこの国でテストがある」という話が来るかわからないので、長期でホテルを取るわけにもいかなくて。

 

自分でインターネットから2、3泊でホテルを予約して、そこを転々としてました。ヨーロッパの中をいろいろ、フランス、ベルギー、ドイツ、イギリスなんか行ったり来たりしてました。自分1人で。

 

ヨーロッパへは、誰かに呼ばれたから行ったわけではなくて、向こうにいってチームを探そうという感じだったんです。日本で代理人と話し合って、「ヨーロッパ行ってみよう」ということになって。後悔はないし、今こうやって笑って話ができるからいいんですけど。

 

最初は楽しかったですけど、途中から楽しさも忘れてたかな……辛かったことのほうが多かったですね。ずっと1人でしたからね。通訳もいないから。最初に行ったベルギーなんて特にそうでしたね。言葉もわかんないですし。

 

ベルギーのブリュッセル駅に着いて、現地の代理人が何か持って待ってるからっていう情報しかなくて。その代理人って、日本の代理人が誰かを通じて知った人で、顔も見たことがなかったと思います。

 

日本の代理人が「名前の書いてある段ボールか何か持ってるんじゃない?」って。自分は「大丈夫? それで。本当に練習先あんの?」みたいな話をしたんですけど、案の定、着いたら誰もいなくて。

 

1時間ぐらい駅をさまよって「絶対いねぇな」と思ってたら、めちゃくちゃ小さいA4ぐらいの紙に「ジャパン ヨシアキ」みたいなことが書いてあるのを持っている人がいて、「ウソでしょ? そんな小さいのかよ」って。

 

しかもその人が英語をしゃべれないんですよ。代理人なのになんで英語をしゃべれないのかわかんなかったんですけど、まぁオレも英語をしゃべれないので、どのみち会話ができたところで片言だったんですけど。

 

それでも何とか頑張って会話したものの、言ってることがよくわからないし、どこに連れて行かれるかもわからなくて。結局2時間ぐらい車に乗って連れて行かれたんです。その人は時々しゃべりかけてくるんですけど、自分は全然わかんなくて苦笑いしてるだけで。

 

で、連れて行かれたのはその人の家で、そこで食事出してくれました。家族はすごいフレンドリーでしたね。それからホテルまで送ってもらったんですけど、そのとき朝の何時にホテルのロビーに来いって書いた紙を渡されたんです。

 

オレはテストか練習があると思ったんで、ジャージ着て準備してロビーに降りてったんです。そうしたらブリュッセル観光で。会話もできない2人でブリュッセル観光して、あれはおもしろかったですよ。

 

で、市内観光が終わったところで「明日から練習だ」って言われて、「ああ、そうなのか」って。それで2週間ぐらいテストをやったんですけど結局ダメで。

 

最後には心が折れた半年間の欧州挑戦 

一番辛かったのは無収入だったことですね。かなりお金かかりましたよ。ヨーロッパって食事代も高いし、いろんな事情がわかんないからホテルで食べるしかないし。もちろんホテル代も食事代も自分で払うし。貯金を結構使って、もちろん貯金はしてたんでマイナスにはならないですけど。それに話す相手がいない。

 

それでもドイツのときはいろいろな選手がいたんで助かりました。それに当時はフランスのレンヌに稲本潤一さんがいたし、ル・マンにも松井大輔さんがいたから。ル・マンでは松井さんが活躍してたから、フランス人がすごく良くしてくれました。

 

いろんなところに行きましたけど、観光で行くようなところじゃないところが多かったんですね。フランスのシャンティとかサンテティエンヌとか。イギリスはロンドン中心で、あとプリマスと、ベルギーはブリュッセルとメヒェレン。

 

フランスのコンピエンヌって5部ぐらいのところにも行きました。今のチームメイトのアダイウトンみたいな選手がたくさんいて、足もすごく速かったから、とても勉強になりましたけどね。

 

ドイツは3部のチームにも行ったりしました。練習は7部、8部みたいなチームに参加したり。マインツにあったチームで、もちろん実力は低いんですけど、そこはヨーロッパ挑戦の最初のほうだったんで、すごい楽しくて。言葉は通じなくても、今思えば楽しい経験もできたんで、それは自分の人生の中で大きかったかなって。

 

で、結局ヨーロッパに半年いました。半年なんですけど、フランス、ドイツ、ベルギーなんかは「シェンゲン協定」を結んでいるから、領域内は自由に行き来できるけど2カ月以上滞在できないんです。

 

ただ、イギリスは「シェンゲン協定」から外れてるからだから、「シェンゲン協定」の国の中で2カ月が経ちそうになると、何回かイギリスに行ったり来たりしてたんです。それがすごい大変でしたね。イギリスでは英語を話せなくて結構馬鹿にされて。

 

イギリスはプリマスというところで練習させてもらって、そこはすごくよくしてくれたんですけど、ロンドンから電車で4時間ぐらいかかるから、めちゃくちゃ遠いんですよ。ホントに移動が大変で。

 

それにプリマスには行きましたけど、イギリスは厳しくて労働ビザが下りないから、ただの練習参加でした。フランスのル・マンは、「取るつもりはないけど」って言いながらもずっと練習は参加させてもらいました。

 

あとまともにテストを受けられたのは4つぐらいかな。練習参加はドイツ7部、フランス5部とか。ヨーロッパの練習環境はとんでもないですよ。ベルギー1部のチームに行ったときも、練習参加させてくれたのでこんなこと言ったら申し訳ないですけど、グランドはボコボコ、クラブハウスはボロボロ、ロッカールームはベンチが置いてあるだけとか。やっぱり日本は恵まれてるなって思いましたね。

 

最後のほうはもうホントに心折れて。折れちゃダメだったんですけど。5カ月ぐらいのときに日本の代理人から「シェンゲン協定」の国から出てくれって言われたとき、「オレはもう出ない!」って。「もう知らねぇ!」「また行かなきゃいけないの!」って、頭がパニックしててちょっと代理人とケンカした記憶があるんですけど。

 

最後はブリュッセルからロンドンに飛んで、そこで諦めて帰ってきたんです。結局、最初に待っていてくれたブリュッセルの代理人はすごくいい人だったんですよ。テスト受けてダメだったんですけど、「お前まだ行けるから。フランスの2部とか行けるから。オレの家にいろ」って言ってくれたんです。

 

でもそのときは「シェンゲン協定」の期限があと2日っていうような状態で、「どうしようもない。もう無理だ」って。日本人ってやっぱり真面目にそこは守るじゃないですか。そうするとその代理人もちょっと怒っちゃったんですよ。「どうして行くんだ!」って。相変わらず言葉がしゃべれないから、大変でした。

 

仙台時代に経験した東日本大震災

それで日本に戻ってきて、仙台に行くことになったときって、半年間練習してない状態じゃないですか。でも少しプライドもあったし。日本代表もちょっとだけ選ばれちゃってたから。

 

2007年、イビチャ・オシム監督のチームでアジアカップに行ったこともいい経験でしたね。試合には出られなかったですけど、日本代表って何をやってるのかわかったし、なかなか経験できる人はいないんで。23人しか行けませんからね。

 

選ばれたんで名誉なことなんですけど、使ってもらえなかったのは実力不足ですね。当たり前の話です。実はあのときって体調があまりよくなかったんですよ。ひどい腹痛で、マジでやばかったんです。ホントに早く帰りたくて。1カ月ありましたからね。結局4位で終わりましたし、日本は大会にずっといたのに何ももらえなくて。

 

仙台に行ったときって、「半年動いてなくても全然やれるだろう」ってプライドはあったんですよ。けど、全然ダメで。だから最初の1年間は全然出てないんです。途中出場ばっかりで、リーグはゼロ得点で。心はまた折れて。

 

ヨーロッパの経験を経て、仙台に拾ってもらって、それで最初の1年ダメで、なんでオレここにいるんだろうと思っちゃったことはありますし、ジュビロであのままやってれば、と心の中で思ったことも少しありましたし。

 

そうすると仙台の2年目になった2011年に東日本大震災があったんです。

 

そこから「誰かのために」ってプレーする思いが大きくなりました。自分自身のためだけじゃなくて。

 

震災は起きなければよかったんですけど、起きちゃったんでいろんなところを回ったら「頑張ってください」ってエールをたくさんもらって。それからやっぱり人のためにプレーしようって、元々攻撃しかしない選手だったんですけど、守備も全力でやるようになりました。本当にサポーターのためにとか、いろんな思いがたくさん芽生えて。そういう思いを持って今もずっとやってるんで。

 

今も常に言葉にしてます。体が動く限りこの先もずっと忘れないです。震災でやりたいことができない人もたくさんいたってことや、そういった中でもすごく応援してくれた人たちがいたってこと。チームが変わってもその思いを常に持ってます。オレって、なんでそんなに走れるのかって、オレの体が動く限り常に全力で走ってやろうって気持ちがあるから。人のために。

 

欧州挑戦に後悔はない

たぶんヨーロッパ行く人って、だいたい日本代表の選手で、呼んでくれるチームがあって行くじゃないですか。だから僕みたいな経験はなかなかないと思うんで、そこは自分の強みかなって思ってます。

 

ヨーロッパ挑戦せずに、ジュビロにずっといたら、ちょっと偉そうになっちゃってたし、「なんちゃって代表」にも選ばれてたから。そのまま続けてたら、今の年齢まで絶対やれてなかったと思いますよ。最後に動けなくなったらポイ捨てされただろうし。それから仙台に行ってなければ、誰かのためになんて動けなかっただろうし。

 

だから本当によかった。今はヨーロッパの経験ってたまに話すんです。みんなビックリしますけど、後悔は何もしてないです。あの半年はサッカー選手としても人間としてもかなり成長できたとも思うんで。でも本当に辛かったんです。震災も相当辛かったし、嫌な思いも悲しい思いもしましたけど、その中でもみんな応援してくれましたし。

 

今は素晴らしい環境があって、その中でやらせてもらってるってことが幸せだって、常に思ってやらなきゃいけないという、そういうこと考えられるのも経験があったからかな。

 

ただ、このクラブにはたくさんの「レジェンド」の選手たちがいて、実際すごい選手たちばっかりじゃないですか。でも、その中で名波浩監督がつけてた「7番」と中山雅史さんが付けてた「9番」の両方を付けたことがあるのって、オレだけなんですよ。大した実績もないのに。

 

この実績で、この番号を伝統あるクラブで付けられることはないんで。そこはホントに、自分でも笑っちゃうんですけど。ただ恥ずかしさはないですね。「その実力でその番号付けるな」って悪く言う人はいると思うんですけど、オレにしかできないことですしね。このメンタルだからこそ気にせずやってます。

 

こんな幸せなことってないと思うんで、ポジティブに捉えていこうと思ってます。自分は常に運がいい選手だと思ってるんで。実力はないけど、運をプラスしてうまくいってると思ってるし、それと同時にこれからも運を引き寄せるために努力していかなきゃいけないと思ってて。

 

それからいつも明るく。心折れそうになることもありますけど、口に出すと折れると思ってますし、態度には絶対出さないようにしてるんですよ。「何だよ」って思うことはありますけど、極力人には見せないようにしてます。もうベテランの選手なんで。みんな見てるから絶対やれないですね。

 

あ、このメンタルだけは「7番」と「9番」にふさわしいですよね。それから、筋肉はオレのほうが勝ちです! 筋肉だけは(笑)。

 

生まれも育ちも浜松なのでうなぎが好き

地元が浜松で、生まれも育ちも浜松なんで、料理を紹介するとなると、やっぱり「うなぎ」ですね。いっぱい店あるんですよ。しかもいろんな種類のうなぎがあって。

 

お勧めは、やっぱりチームの選手が行くとこがいいと思うんで、「うなぎ料理 あつみ」さんですね。それから浜松の街中にある「浜松うなぎ なかや」さん。そこは、目の前でうなぎをさばいてくれるんです。それってなかなか見る機会がないですね。肝もそのまますぐに食べさせてくれますし。あとは有名な「うなぎ藤田 浜松店」さんもおいしいんです。

 

ホント、たくさんあるんで食べ歩きしてください。場所によって全然違うんです。白焼きがおいしいところもありますし、蒲焼きがおいしいところもありますし、あっさり味の土佐焼きがおいしいところもありますから。

 

僕はタレが好きなので蒲焼きのほうが好きです。甘いタレがいいですね。腹開きと背開き? いやわかんないです。もうね、小さいころからうなぎを食べてるから全然わかんないんですよ(笑)。

 

r.gnavi.co.jp

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太田吉彰 プロフィール

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ジュビロ磐田ユースから2002年にトップチーム昇格。2005年からレギュラーを奪取するが怪我明けで控えに回ることが多くなった2009年、無所属となり欧州挑戦。

2010年の帰国後は仙台へ移籍。東日本大震災を経験した。2015年からは再びジュビロ磐田へ戻っている。
1983年生まれ、静岡県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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