あのとき監督は僕の気持ちを汲んでくれたと思う……今も現役を続ける明神智和の忘れられない途中出場とは

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回はAC長野パルセイロの明神智和選手に登場していただきました。フィリップ・トルシエ監督に高く評価され、2002年日韓W杯の代表としてベスト16に貢献した活躍をご記憶のサッカーファンは多いと思います。そんな明神選手は2002年W杯のメンバーが次々と引退していく中、現役にこだわりJ3でプレーを続けています。今回はいままでのサッカー人生で経験したリーグ降格、父親の死など、シリアスな話題についてじっくり語っていただきました。 (長野市のグルメランチ

あのとき監督は僕の気持ちを汲んでくれたと思う……今も現役を続ける明神智和の忘れられない途中出場とは

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明神智和は自分から話し続けるような選手ではない

それでも聞かれたことに対しては

気を遣いながらきちんと答えてくれる

笑顔を絶やすこともない

 

そんな明神が困ったような顔になり

ポツリポツリと話してくれた

どの降格も辛かったのだろう

困ったのではなく苦しんでいる表情だったのかもしれない

 

すべてを吐き出してくれたのではないと思う

語れないこともあったのだろう

それでも最後まで丁寧に話し続けたのが

明神らしい姿だった

 

所属チームが過去3度、J2に降格した

僕がこれまでで一番辛かったのは……難しいですけど……所属チームがJ2に落ちるときですかね……。2005年のレイソルのときもそうですし、2012年のガンバでも2016年の名古屋でも降格しましたけど、特にレイソルは一番最初の降格の経験だったし、自分も若かったし……。あのときは一番苦しかったですね。

 

何をやってもうまくいかないし、それに対処する自分自身の……それでもこう……。毎日をしっかり取り組むという、いや、取り組んでいたとは思うんですけど。まだ子どもというか、大人になっていない部分があって、なかなか……平常でいられなかったというか……。

 

今だったら、もちろん全力でやりますし、もがきはしますけど、うまくオンとオフを切り替えられたり、練習と普段の生活とを切り替えられたりとか、できるんじゃないかと思うんです。ある意味「何をやってもダメなときはダメ」と思えるように……今だったらそういうふうに思って平常心でいられるような状態を作れますけど。そのときはやっぱり……。

 

今だったらうまく開き直れるという感じですかね。降格しそうになると、焦るし、自分で背負い込むし。普段の生活でもずっと考えてましたし、それが結局悪い方向につながってて。いつの間にかリラックスするとかリフレッシュとか、そういうことができなくなってたと思います。プレッシャーがどんどんのしかかってきて。

 

レイソルの戦力は揃ってたし、外国籍の選手もよかったし、優勝経験のある監督も来たんですけど、うまくかみ合わなかったですね。たぶんいろんな……、もちろん選手の責任というのはすごくあって、でもそれだけじゃなくて、現場としても選手としても、クラブとしても降格を招いたんだと、レイソルのときは思いました。

 

ガンバのときももちろん悲しい、申し訳ないという気持ちはありました。ですが自分自身は、降格に対処するときの、そうなってしまったときの心構えは一度経験してたというのはありました。だからある程度レイソルで降格を経験したときよりも落ち着いてましたね。

 

ガンバのときは「うまくいかないときはいかないなぁ」と思えたんです。こっちが3点取っても3点取られて同点になったり、2点取っても3点取られて逆転されたりという試合がありましたから。うまくいかないときはいかない、特に守備はそうだと感じてました。得点で言えばリーグで1位だったんですけど、でもかみ合わないというか。

 

失点もそんなに崩されたというわけではなくてやられちゃってたし。失点が多くても得点が取れていれば、勝ててればいいと思えてたんですけど、結果が出てないことに対しては……負けが続くということがイヤでした。

 

名古屋に行ったときは1年しか在籍できなかったんですけど、何とか力になりたいと思っても力になれなくて。クラブとして初めて降格するということになってしまったので、どんなときでもそうですけど、サポーターやファンの人には申し訳なかったですね……。

 

どう向き合うかというのは本当に難しくて、レイソルのときはキャプテンで降格してしまって、その結果で最終的に自分はチームを出るって決断しましたし、ガンバのときは残るって決断しましたし、その時々で降格というのは本当に難しい……苦しいときですね。

 

ただ、どのチームでもそうでしたけど、降格目前になったら主力選手に他のチームからのオファーがあってチームがぐらつくということはありませんでした。

 

でも降格するっていうことは、チームが勝ててない、勝てないからメンバーが代わる、でも勝てない、ということになって、そうすると、どんどん選手全員でまとまるというのが難しかったりしました。不平不満が出るわけじゃないんですけど、結果が出ないというのは、チームにとって本当に苦しかったですね……。

 

レイソルのときは降格後に移籍して、ガンバでは残ったんですけど、それはそれぞれのときの年齢とか、自分やクラブの状態とか、そういうことを踏まえてのトータルの決断でした。

 

降格すると、家族は心配しましたけど、妻は「どこでも行く」って言ってくれるんで、そういう意味ではよかったです。自分のやりたいところでやれるんで。サッカーに集中させてもらってます。そういう意味では、移籍する先で家族は大丈夫かなって考えますけど、最終的には僕の決断で全部付いてきてくれました。

 

 

監督に「やっぱり父親のところに行きたい」と言った

ガンバで降格した翌年、J2を戦っている2013年に、父が亡くなったんです。その亡くなった翌日が試合でした。父はガンになったんですけど治って、7、8年は再発しなかったんですよ。でもその後再発して抗がん剤なんかで治療したんですけど、そこからは1、2年でした。

 

いざそのときになってみないと自分の父親が亡くなるというのは考えられなかったですね。もうあと持っても2、3日という連絡を受けて、「やっぱり父親のところに行きたい」って長谷川健太監督とクラブに行って、強引に練習を休ませてもらったんです。それで大阪から柏の病院まで行って。

 

僕が病室にいると、父親が「もうお前、行け」みたいな感じなんですよ。もう死を待つという感じで。それで僕は父が亡くなる2日前に柏を離れてチームに戻ったんです。僕はチームに迷惑かけたというのを思ってました。練習休みましたし。

 

そうしてると父が亡くなったという連絡が来たんです。それで健太さんが「父親のことは気の毒だ」って声をかけてくれました。それで「今週末の試合はどうする」「やれるならベンチに入れる」って。

 

そこは僕の個人的な気持ちを汲んでもらえたと、間違いなくそう思います。普通は健太さんが非難されるかもしれないところですよね。ずっと練習してた選手もいたわけですから。それでもベンチに入れてもらえたし、最後85分に出してもらえた。本当にチームには感謝しています。健太さん、温かったですね。

 

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2002年のメンバーはどんどん現役を退いている…

自分の経験の中で一番素晴らしかったのは、もちろん2002年日韓ワールドカップです。自分の国でワールドカップに出たんですからね。合宿中にはみんなにイジられてプールに落とされたりしましたけど、それもいい経験でしたね。

 

あのときの自分は若かくて、年齢は下から数えたほうが早かったので、何でも無我夢中という感じです。チームの雰囲気は上の人におんぶに抱っこですよ。だから練習一生懸命やって、上の人から言われたらふざけるし。それぐらいしかやってないです。

 

プレーではみんなの間をつなぐと言うことを意識してますけど、。私生活ではみんなに引っ張られるだけですよ。本当にあの時は中山雅史さんと秋田豊さんがいたからこそ、あの雰囲気だったと思います。間違いない。

 

僕はクラブに帰れば多少自分もそういう立場だったりして、クラブ全体やチーム全体を見て「今こうしたほうがいい」とか「こういうことをやったほうがいい」と言ってましたけど、代表に行ったら変な話、自分のことで精一杯でした。だからまぁ自分はいいようにイジってもらったという感じです(笑)。

 

今はJ3の長野でプレーしてて、この環境も新鮮ですよ。楽しいというと変ですけど、サッカーできるという喜びが大きいですし、変わらず一生懸命できてるなって。もう40歳で、もう長くはないですよ。

 

2002年のときのメンバーはどんどん現役を退いているんですけど、もう寂しいという感じは少なくなりました。30歳から35歳ぐらいのときは感じてましたけど、おのおの次のステージにいってる人がほとんどですから。自分は、やれるところまでやろうって感じです。

 

90分出られるようにすれば、もっとチームの力になれると思うんですけどね。もうさすがに、いくつまでとかプレーしたいとか、あんまり考えられないですね。それから「40歳になったから辞めよう」とかは思いませんでした。今年1年長野でがんばって結果を出して、J2に上がって、そこで1年終わったときに次の契約があるればいい。もうそういう感じです。

 

やっぱり不安はありますよ。セカンドキャリアは、指導者の道も含めて、サッカー関係の仕事をしたいとは思いますけど。シーズンオフには指導者講習に行ってるんですけど、どこで何をするかなんて決まってない状態だから。今はB級コーチライセンスを持ってるんですが指導者となると、またさらに一から勉強しなければいけないですし。

 

「次の準備をしておいたほうがいい」と言われても、現役中に自分が何か別のことをできる性格でもないので。30台半ばまでは「来年このチームとの契約がなかったら、次のチームを探そう、どこかあるだろう」って思えましたけど。でもここ最近は契約がないとなると「選手を辞めなきゃいけない」「引退しなきゃいけない」ということになってきてるんで、いつも嫌な年末を過ごしてます。まぁでも何とかなるだろうと思っているというか、それぐらいの気持ちではいるんですけど。

 

これまで自分を指導してくださった監督の中には、西野朗さん、健太さんがいらっしゃいますし、2人のいいところを吸収した上で、自分の色を出しててやっていきたいと思います。「人がいいから大変だよ」って言われたりしますけど、自分の性格を変えろっていっても無理なので、逆に人の良さを武器にしてやっていければと思います(笑)。

 

長野は山菜や蕎麦が美味しい

食べ物は、まったく料理できないんで外食してますし、食べるのが好きなんです。肉が好きですけど、魚も食べます。それにあったお酒を飲むのも好きですね。

 

お酒は昔はビール一辺倒でしたけど、最近は料理に合えばなんでもいけます。和食だったら日本酒で、洋食だったらワインとかビールとか、その程度ですけど。焼肉だったらマッコリとか。

 

長野のお勧めは、権堂の商店街、アーケードの角のところにある「二本松」っていう居酒屋さんですね。

 

長野の地元のものが出てきます。山菜の天ぷらがおいしいのと、キノコ鍋がお勧めですね。このキノコをぐつぐつに鍋に入れたのは、たぶん女性の方も大好きです。他には長野って馬がおいしくて馬刺しもいいですよ。

 

それから蕎麦も食べられるんですよ。その蕎麦がおいしい。飲んだりちょっとつまんだ後に蕎麦が食べられるんですけど、それが本格的です。

 

酒好きな人は、イワナの日本酒漬けみたいなのがあるんですよ。イワナを一匹焼いて、それを日本酒にどんと沈めて。1杯目はそのお酒を飲んで楽しみます。継ぎ酒もできるんですけど、2杯目はそのイワナを酒の中で少しほぐして崩しながら飲むんです。ちょっとひれ酒っぽいニオイになって。これがめちゃくちゃおいしいですから、長野に来たときは楽しんでくださいね。

 

 

明神智和 プロフィール

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1996年、柏レイソルユースから柏レイソルに入団。タイトル獲得に貢献しキャプテンも務めたが2005年のJ2降格を期にG大阪へ移籍。現在はAC長野パルセイロでプレーを続ける。

代表では1997年ワールドユース、2000年シドニー五輪、2002年日韓W杯など各年代で国際大会に出場。トルシエ監督から高い評価を受けていた。
1978年生まれ、兵庫県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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