あのときラモスは「身を捨ててでも代表でやりたい」と言った……サッカー冬の時代を支えた代表監督・横山謙三の証言

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は横山謙三さんに登場していただきました。現役時代はメキシコ五輪で銅メダルを獲得、引退後は日本代表監督としてラモス瑠偉や三浦知良を抜擢するなど、現在のサッカー界の基礎をつくるために大きな貢献をされた方です。今回は現役時代や監督時代の貴重なエピソードを、独特の語り口とともにお届けいたします。 (渋谷のグルメ中華料理

あのときラモスは「身を捨ててでも代表でやりたい」と言った……サッカー冬の時代を支えた代表監督・横山謙三の証言

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正直に言うとこのインタビュー前は緊張した。

ずいぶん昔だが、挨拶をしたのに返事が返ってこなかったことがあるからだ。

話が進んで場が和んだところでそのときの話をした。

すると「僕は人見知りするほうだから」という答えが返ってきた。

 

本人が言うとおりかもしれない。

話を聞いている間は常に朗らかで

たびたび冗談を交ぜてこちらを笑わせる。

しかもとびきりの笑顔だった。

 

そんな日本サッカーの伝説の1人に

オリンピックで見せた奇跡のPKセーブや、

現役日本代表時代と日本代表監督時代の

心の内を聞いた。

 

メキシコ五輪銅メダルの秘話

1968年メキシコオリンピック、3位決定戦のメキシコ戦で、2-0とリードして迎えた後半早々にPKをとられました。あれは勝負という面で大変かもしれなかったですよ。流れとしてはね。

 

けれど、チームとしては苦しかったのかもしれないですけど、PKはGKからしたら入れられて当たり前ですから、個人的には辛い立場じゃないんですよね。それにあれは予想されたPKだったし。メキシコでホームチームとやればPKはあるだろうと予想していたので。

 

メキシコオリンピックの年の1968年4月、南米遠征の帰りにアステカでメキシコと対戦して0-4で負けたんですよ。到着した翌日に試合したんで、まったく動けない。酸素が足りなくて、立って口をパクパクしてるだけ。

 

でもそのとき、メキシコがすごく強くて勝てない相手だとは思わなくて。大会ではどっかで当たるだろうとも思ってましたし、対戦したらPKの1つや2つ、あるだろうなって。

 

今だったらハンドに取られないかもしれない反則でしたね。準決勝のハンガリー戦でも小城(得達)はハンドしてPKってことありましたから、アイツにしてみれば災難でした。

 

ハンガリー戦のPKは入れられましたが、メキシコ戦のPKは止めたんです。止めたんですけど、完全に相手のミスキックでね。僕の動くのが早かったんで、相手は元々狙ったところじゃないところに蹴ろうと思ったのかもしれないですね。

 

本来は僕の左上に蹴る予定だったと思うんですよ。僕もそこに来ると思ってて、照準を合わせてました。実は確率的に私の左に来るという確率が非常に高いという情報が入ってました。たしかメキシコは他の試合でもPKがあって、左上の隅に蹴ってたんで。しかもそのPKは、これを入れたら勝つぞっていう大事な場面だったと思うんですよね。そういうときにどっちを選ぶかっていうと、安全を考えて自分の得意なところに蹴るだろうって思ったんです。

 

だから、相手が蹴った瞬間、「あ、やられた」と思いましたね。左下に来たんで逆を突かれて。1964年の東京オリンピックでチェコと対戦したとき、僕は左に飛んでて、ボールは完全に右に入ってる写真があるんだけど、それくらいめちゃくちゃ早めに飛んでしまうんですよ。ヘタクソだからしょうがない(笑)。

 

それを瞬間的に思い出して、「あぁ、こっちにボールが行ったらやられるかな」って思いましたね。あそこってよく入れられるコースですよね。山を張っててやられちゃうというところだったんですけど、相手のキックがミスしたんで、たまたま僕の体に当たっちゃったっていうかね(笑)。でも自分が早く動いたことで相手が迷ったかもしれないですね。

 

PKを止めた後、すぐボールを蹴ってガマ(釜本邦茂)に渡したんだけど、あれはパフォーマンスだったんですよ。蹴らなくてもよかったんだけど、伏線があってね。オリンピックの他のチームの試合で、GKがPKを止めてみんなで喜んでたら、GKに抱きついたヤツがボールに触ってハンドになってね。またPKになったんですよ。

 

それを見てて、みんなで早く蹴ろうっていう話になってたんだけど、PKを取られた小城が僕が止めたから喜んでやって来たわけ。だからこりゃ早く蹴っちゃったほうがいいなって。

 

興奮して蹴ったように見えたかもしれないけど、考えてました。日本人だからワッと来るわけないとも思ったんだけど、流れ的にもいろんなパフォーマンスをやる雰囲気でもなかったから。だから僕のところにみんなが集まって雰囲気が変わっちゃいけないと思って、スパッと蹴ったんです。

 

あのあと、今でいうボールの支配率は相手が上でしたからね。ただ、完全にやられたっていう場面はほとんどなかったから。ディフェンスの選手たちがしっかりした対応をしてたし、4月の対戦でこう戦えば大丈夫っていう考えがみんなの中にあったし、体が動いている間は大丈夫っていう自信もあったと思いますね。

 

ただ大会は高地だったし、中1日で試合が続いたので、フィールドの選手はクタクタだったと思いますね。当時は練習中に水を飲んじゃいけないっていう時代ですからね。もちろんこっそり飲んでたとは思いますが。

 

僕は立ってて、入れられたボールを拾うだけだから疲れないんだけど(笑)。他の選手はね。そういう意味では試合が終わった後、ずいぶんみんなしんどそうだったですね。ガマも捻挫してる方の足が本当に痛そうだったからね。ホテルに帰ったらみんな倒れてましたよ。僕は倒れるも何も、毎日立ってるだけだから(笑)。いや、5試合立ってるのは楽じゃなかったけどさ。

 

しばらくして、ベルリンオリンピックのときのコーチで、日本サッカー協会の元理事長だった竹腰重丸さん(故人)が、メキシコパールをみんなにプレゼントしてくれたんです。自分のポケットマネーで。日本の銅メダルをすごく喜んでいただいたのだと思いますね。

 

 

東京五輪前の合宿が一番苦しかった

日本代表の現役時代に一番苦しかったのは……苦しさもあったしこのやろうっていう反発心もあったんですけど、東京オリンピックの1カ月ぐらい前のドイツ合宿でしたね。

 

僕はいつも補欠だったんですよ。当時も古河電工の保坂司さんが正GKの選手だったですけど、ドイツに行く前にU-20ソ連代表と試合したときに手首を骨折してね。東京オリンピックは間に合わないって話になったんです。それで急きょ僕がゴール前に立つってことになって、そのままドイツに行ってデットマール・クラマーさん(故人)と一緒に合宿やって。その合宿が一番しんどかったですね。

 

みんなは休みでも僕には休みがなくて。ずっとトレーニングですよ。だからクラマーさんに聞いたんです。「なんで僕には休みがないんですか?」って。そうしたら「お前はヘタだからだ」って即答ですよ。ああそうかって。

 

でもね、クラマーさんが言うんですよ。「休みがないのはお前は日本の代表として東京のオリンピックを戦うたった1人の男だから」って。そうやってやる気をくすぐられてね。クラマーさんのセリフはかっこいいんだけど、やってるのは朝起きてから夜寝るまでずっと休みなく練習ですからね。みんな遊びに行けるんだけど僕だけは行けない。それに重圧もありましたね。

 

GKは常に悲劇ですよ。ちゃんとしたプレーをすれば点にならないけど、ちょっとミスすると点になるって決まってるんだから。だからやっぱり人の何倍も練習しなきゃいけないと思いますね。

 

今のGKで非常に大変だと思うのは、攻守の切り替えが早くなって考える時間が少なくなってることですね。それに状況の変化が早くなってるから、脳が付いていくのが大変ですよ。やっぱり人間って脳が判断するんだから。

 

判断して、それに対応するディフェンスをどう組み立てていくかがうまくいかないとすぐやられちゃうし。そういう意味では今のGKは大変だと思いますし、練習なんかで状況をある程度作って、自動的にディフェンスが変化していくってことにしないといけないのかなって思います。

 

昔のGKみたいに、味方に怒鳴り散らして何かやるってことは今ありませんからね。それだけ時間がないんじゃないかな。昔は、ソ連のレフ・ヤシン(故人)なんて怒鳴りまくってましたよ。すべてお前が悪いんだって感じでね。あれ、いいよね(笑)。

 

東京オリンピックのときはGKをもう1人追加しなくて、保坂さんと僕の2人でやりました。オリンピックのころには保坂さんもトレーニングができるぐらいのところまで回復してましたから、別の選手に代えなかったんだと思います。骨が完全に折れてたんだったらきっと別の選手に代えてたんでしょうけど。

 

それにGKを増やさなかったのにはもう1つ理由があって、当時ってGKが2人必要ないんですよ。交代できないから。東京オリンピックまでは交代枠ってなくて、メキシコオリンピックからできたんです。だから試合中に僕がケガしても交代できない。

 

だから練習のとき、僕の右手が折れたらどうするかということまで想定してました。10人でプレーするより11人のほうが絶対得だって、僕は左のウイングに入れるからって言われて、ドリブルの練習やらされたりしましたよ。僕はウイングの練習が好きだったから、「おい、今日は左手が折れたぞ」って言ってやってました。

 

東京オリンピックではアルゼンチンに勝ったので、サッカーの世界では注目度が高まったと思いますよ。まだ開催国だからグループリーグで負けてはいけないというのがありましたし。

 

あのときはイタリアとアルゼンチンとガーナと日本というグループで、イタリアはインテル・ミランのサンドロ・マッツォーラっていう、その年のプロの最優秀選手が来るってことになってたんです。サッカーはプロとかアマとかあまり気にしない世界だったんでね。

 

それで、ドイツにいる間はクラマーさんも「イタリアは世界で1、2位を争う強いチームだぞ」って気合いが入っちゃって、毎日イタリア戦のことばかりのミーティングをやってたんですよ。ところが急きょイタリアが出ないってことになったんです。

 

日程もイタリア戦が12日でアルゼンチン戦が14日だったんで、「イタリアとやってアルゼンチンとやるのはしんどいな」って言ってたんですけど、12日の試合がなくなって14日が初戦ということになった。そういう中のアルゼンチン戦でしたね。

 

でも当時はね、アルゼンチンに勝ったから国内の注目を集めるようになったかというと、その実、あんまりサッカーを見に来る人がいなくて。どっかの学校の生徒を集めて試合会場の駒沢競技場に来させたりして、なんとなくお客が入ってるように見せてたという、そんな時代でしたね。ただ、東京でやっぱりある程度チームが成長して、それがそのままメキシコにつながったという感じだと思いますね。

 

 

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ルールは五輪までにやっと憶えた

僕は1960年の高校3年生のとき初めてGKをやったんですよ。それまでサッカーって遊びではやってたけど、ルールもオリンピックまでにやっと憶えたかなって感じで。本当にサッカーがどういうものかってわかったのは、ユースの代表になって監督の岡野俊一郎さん(故人)から教わってからで。

 

高校3年生のときにGKとして初めて出た大会で、埼玉県の代表になって関東大会に行ったんです。その試合をユースの監督に就任するということで岡野さんがたまたま見に来てて、「アイツはもしかしたら1964年の東京オリンピックに間に合うかもしれないから」って選んでくれたんです。それまで埼玉の中でもみんな僕のことなんか知らないですよ。

 

毎月岡野さんか手紙が来て、こんな練習やれって書いてありました。僕がいた高校って監督がいなかったんです。サッカーの経験者がいない。だからサッカーっていうのは上級生が言ったことしか知らないんです。そのころサッカーの本なんてほとんどないんです。竹腰重丸さんが書いた「サッカー」って本が1冊あるくらいでしたね。

 

僕がサッカーを始めて岡野さんに選ばれた1960年の秋、クラマーさんが日本に来ました。そこで日本サッカー界は初めて、ボールの蹴り方はこうするんだって教えてもらったんです。1960年から日本の近代サッカーが始まったんですよ。それまでボールの止め方、蹴り方、ヘディングの仕方って知らなかったんです。

 

東京大学の御殿下グランドで代表が練習やってるのを見に行ったらクラマーさんがペンデルボールを使ってみんなにヘディングをやらせてたんです。今でこそ偉そうなことを言ってる人も、クラマーさんから「お前、そりゃヘディングじゃないよ」って言われてましたよ。

 

日本代表が長沼(健)監督、岡野コーチになって、合宿には代表選手以外にも特別に何人か練習台になるために呼ばれたりしてました。1961年に僕も代表の合宿に呼んでもらってたんです。僕の運がよかったのは、そういう中でミーティングやってるのを聞いて、サッカーってこういうもんなんだって教えてもらえたことでしたね。

 

あんまり辛いことってなかったですよ。サッカーは辛いことよりも、面白いことの方が多いし。当時の合宿は、たとえば東京オリンピックの前は合宿が3カ月あって、そのときは辛いんですけど、ちょっと離れてみるとよくやったなって感じになりましたからね。まぁ今から見れば、合宿って長けりゃいいもんじゃないよって感じでしょうけど(笑)。

 

当時はほとんど合宿生活でしたね。合宿やってヨーロッパ行って、合宿やってヨーロッパって。ヨーロッパに行くのも最初に横浜からソ連のナホトカまで船で行って、そこからシベリア鉄道で西に行くんですよ。ソ連に行くのも、アメリカ経由で行ったこともありましたね。どのルートの飛行機代が一番安いかってことで決めてましたからね。

 

お金が無いからとにかく安く行かなきゃいけない。それでも当時はヨーロッパに行くのが、みんなのあこがれの時代でしたからね。1ドル360円、1ルーブルが400円でした。ロシアに行くとソ連のサッカー協会から滞在費は持ってもらえるし、お小遣いもくれるんだけど、ルーブルでくれるもんだから使い道がなかったですね。

 

今の代表は羨ましいですよ。それだけ大変なことも多いだろうと思いますけどね。

 

 

思い切って若手を起用した日本代表監督時代

1988年から日本代表の監督をやったときはね、火中の栗を拾うと言われればそうだったかもしれないですね。

 

ちょうど代表の中心がずっと同じで、みんなベテランになっている時代だったから。僕自身の考え方としては、そういうベテラン勢をまた使うというのも一つの手として、目先としてはそのほうがいいかなって思ったんですよ。

 

世代交代の難しい時期でしたからね。でも難しいというのは考え方の問題で、難しく考えればみんな難しいけど、僕はああいう状況の中でやらなきゃいけないことは何なのかなって。それで先のことを考えたらそれじゃダメなんだ、日本のサッカー界全体が若手を育てるって方向に向いていかなければいけないって。

 

日本のサッカーを考えると今何をやるべきか。僕は思い切って若い選手を起用して、早くから国際経験を積ませたいと。そうしない限り絶対に強くならないとわかっていながら、勝てないからってやらなかったらいつまでもできないんですよ。

 

だからそれをやるのが僕の役目だと。人が何を言おうが、オレに代表の監督をやっていいって日本サッカー協会が決めたんだし、オレがやると決めたんだから、オレは好きにやるよって。

 

あまり人にお話ししたことはないけど、自分の気持ちの中では決めてました。「オレはこのやり方で行く。将来の日本のために若い選手を思い切って起用しないと、いつになっても今の協会全体のシステムではダメなんだ。それを変えていく。それを変えていくことで若手が少しでも伸びてくれたら日本のサッカーは変わるだろう」って。

 

自分では全部割り切ってましたね。いろんなところで若い選手がどうのこうのとか書いてあったけど、そんなことは全然問題なかったですね。他でいろんなこと言ってることについて、聞こえては来るけど、そんなのはね返せるだけの信念が常にあったし。それにダメならクビにすればいいってことだから。自分では若手を起用するのが、一番日本のサッカーのためだって思ってたから気にはならなかったですね。

 

当時僕がとった3-5-2のシステムについて、周りがどう言ってたかなんて、気にしてなかったと言うか、どうでもよかったんですよ。ウイングバックを導入したんですけど、それは選手の構成によってやればいいことで、こだわる必要はないと思ってました。

 

たとえば3-4-2-1とか、3-5-1-1でもいいんですが、そういう布陣になるのは試合中に攻撃しているときなんです。守備のときは相手が来たら必ずくっついくんだから、形は変わるんです。だからシステムはあんまり気にしなくていい。どう配置するかというのは流行みたいなもんで、そこに適した人間がいるかどうかなんですよ。起用する選手によって日本の攻撃がどう変わるのか考えて、選手1人ひとりを見て見たらいいんです。

 

それからコンディションの部分も科学的にやるようにしました。それまではあまり理論的にやってませんでしたからね。あれからですよ。科学研究の仲間が一緒に代表に付いてくれるようになったのは。

 

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ラモスとカズには代表に選ぶ前、ずいぶん話をした

1988年、日本代表の監督をやると決めたときに思っていたことがもう1つあるんです。

 

僕が三菱の監督を辞めたとき、アマチュアの指導者は自分の時間をすべて投げ出してサッカーをやって、結果一銭にもならないっていう世界でした。それでも、ものすごいエネルギーをつぎ込んでやったように思うんですよね。

 

それが一段落したとき、当時、グランドも持ってないようなところに少年サッカークラブができたり、そういう中で指導をしている人たちを見て、これでいいのかなっていう思いがして。勝った負けただけがクローズアップされるようになって問題が起きるようになっていたから。

 

僕も41、42歳ぐらいからスポーツの考え方がずいぶん変わったんですよ。それまではルールもへったくれもない。勝ちゃいいんだっていう気持ちだったんです。三菱の監督で三冠をとった1978年ごろはそんな感じだったんですよね。

 

でも、監督を辞めていろんな人と会っているうちに「こんなのでいいのかな」って思い出したんです。それで、いろんな大学の先生を集めて「スポーツ・イン・ロウ(Sports in law または、スポーツ印籠)」っていう会を作ったんですよ。1カ月に1回ぐらい集まって話し合って、そこから水戸黄門の様な「スポーツとはこういうものだ」っていうのを作りたかったんです。スポーツってものを正しく見直すってのが必要なんじゃないかなって思ってました。

 

余談ですけど、1994年に僕がレッズの監督になるってことで会を辞めたんで、会そのものが自然消滅しちゃったんですよ。優秀な先生が一杯いたんですけどね。えらい楽しい会だったけど、なくなったのは極めて残念ですよね。

 

話を元に戻すと、日本代表の監督に就任するとき思っていたのは、スポーツ全体を見直さなければならないんじゃないかっていうことです。なぜ問題で起きているかっていうと、スポーツモラルが低下したからだと思ったんですよ。しかもスポーツモラルがどんどん下がっていることに社会が気づいてない。

 

じゃあそれをどうやって変えていくかって、やっぱりそれはトップである日本代表チームが実践しない限りダメだって思ってたんですね。だから僕は代表選手に、正確なスポーツモラルというのは何かということをずいぶん話しましたね。

 

代表にカズ(三浦知良)とかラモス(瑠偉)を入れたんですけど、入れる前にラモスやカズに「オレはこういうやり方だから、それが理解できるんだったら代表に入れる」っていう話をずいぶんしました。

 

ラモ(ス)はね、「自分は身を捨ててでも代表でやりたい」って言いましたね。僕はそういう気持ちが極めて重要なんだって話しましたよ。カズにもそういう話をして、よかったのは彼らが理解して一生懸命プレーしてくれたことですね。

 

スポーツモラルが落ちると、上がるのに相当のパワーが必要だから。スポーツは社会の縮図だって昔から言われているのは、まさにそのとおりで、スポーツの悪さが目立つのは社会のモラルが低くなってきたからですよ。サッカーには勝敗があるんだけど、全体的に見たときに、スポーツモラルにかなりの重さがかかってこなければいけない。

 

もちろん大会は強いチームがどこか決めるためにやるものだから、そこでは勝つことが重要ですよ。でも勝つために相手を削ってやってもいいのかっていうと、それは違うって話が出てくるんです。

 

やっぱり人間の作った理想型がスポーツだと思うんで、人間がそれを維持していくっていうのが重要なんです。それを考えながらスポーツをやっていかないと、スポーツの社会貢献ってのができないですよね。

 

プロスポーツの社会貢献として行われてることで一番目立つのは何かというと、経済効果なんですよね。その他はあまりなってない。たとえば教育モラルが上がりましたとか、そういうことはないんですよ。僕は社会貢献をスポーツでやろうとしたときに、一番大切なのは生活の中に活気付けになるということだと思うんです。

 

私の母が倒れたあと、リハビリをやったんですが、昨日3歩しか歩けなかったのに、今日は7歩歩ける。そういうのが母にとってはすごくうれしいんですよ。それはスポーツにも言えて、努力することで上達するのがうれしいんです。音楽でもそうで、楽器もうまくなるから。勝った負けたというのも楽しいけれども、活気付けという、そういうものが世の中を活気づけていくという良さをスポーツは持ってるんです。

 

さらにスポーツの持つ特性で言えば、楽しさ、運動、競争、規範というのがあると思うんですけど、その規範という部分が薄くなってて、競争の部分ばかりが出てきてる。モラルが上がっていくってことは、社会が一番よくなる近道なんだってことを、忘れちゃってるんです。

 

スポーツを小さいときからやらせるのはなぜかというと、挨拶ができるようになるという人がいます。でも、スポーツをやるから挨拶ができるわけじゃないんですよ。スポーツってルールを守ることが重要なんだよって教えるんです。ルールって、僕は知らなかったけど(笑)。今プレー中に起きる問題では、ルール違反が大半ですよね。ルールを守るってことが社会の秩序を維持していく上で大事なんですよ。

 

それに、試合ができるのは相手がいるからで、相手を大事にしようっていうスポーツマンシップを教えないといけない。他人を大切にしようっていうことが、自分が心の中に持つやさしさを生み出す力なんです。それがスポーツの持ってる良さなんだってことを、スポーツ全体で教えていかなくちゃいけない。そういう部分が代表チームになきゃだめだって思ってたんです。

 

 

読売クラブの選手はいいものを持っていた

日本代表の監督だったとき、それまでの日本代表の主力だった、三菱重工、古河電工、日立製作所という、いわゆる丸の内御三家とは体質がまるで違う読売クラブからも選手を起用しました。御三家は企業モラルみたいなのが染みついていて、規範という意味では優秀だったと思います。でも「競争」「遊ぶ」「楽しさ」という面で読売はすごくいいものを持っていた。

 

サッカーの世界では自由というのが大切で、発想の自由というのがサッカーの最も重要な部分なんです。置かれた状況の中で正しい判断をする。その材料は、もちろん経験もあるけれども、育ち方もある。

 

自分が自由に判断できないのは、日頃から自由が少ないからです。すべて自分が自由に判断できる環境の中にいないと、どこか押しつぶされるんですよ。日本人が一番これから大事にしなきゃいけないのは、創造性です。

 

ところがその創造性って子どものときに消えているんです。左から来たら右に行かなければいけないって指導者から言われると、判断しないで右に行くようになるんですよ。それは徹底的にサッカーの世界から除外しなければいけない。別の言葉で言えば「教えすぎ」です。そうではなくて、指導者は君が一番やりたい、一番描くサッカーは何なのかって子どもに考えさせること。それが創造性につながるんです。

 

パスをもらって相手と向き合ったときに、創造性がないと、次に選ぶプレーがバックパスになっちゃう。世界のスーパースターって言われてる選手は、パッと前に行っちゃうんです。メッシなんか見てたら「なんでそこに行っちゃうの?」ってところにドリブルしてボールを取られちゃう。「ほら、取られちゃった」って思ってると、取られないときもあるんです。するとゴールになる。バックパスはゴールにならないんです。

 

だから大事なものって創造性から来る楽しさで、それに大きな力を使うべきですね。楽しくないっていうやり方は絶対に間違ってる。苦しむためにスポーツをするんだったらやらないほうがいいって思ってますよ。監督時代、僕が楽しくなければみんな楽しくないって思って、僕自身は絶対に楽しいと思ってやってました。

 

そうしたら1991年のキリンカップで初優勝したんです。当時は海外のクラブチームと対戦してもなかなか勝てなかった。でも京都西京極競技場でブラジルのバスコ・ダ・ガマと対戦して2-1で勝ったとき、全体的にちょっとチームがよくなってきたかなって思いましたね。それで国立競技場でイングランドのトッテナム・ホットスパーに4-0で勝ちましたから、チーム全体のバイタリティが上がったっていう感じでした。

 

ホントを言うと、優勝ってあまり気にしてなかったですけどね。僕は目的がハッキリしてて、考え方もこうだって決まってましたから。ただ目先の目標であるワールドカップに出場するっていうのができなかったのは残念でしたけどね。まぁしょうがないと思わない限り、生きていけないからね。

 

現役時代、夜食を食べに行った思い出の台湾料理屋さん

僕は貧乏な家庭に育ったんでね、好き嫌いがなくて、食えるものは何でも好きですよ。本当に嫌いな物がない。なんでも食べます。好きなのは、そうだなぁ、やっぱり魚かな。寿司屋さんで1週間に1回ぐらい行くおいしいところがあるんですけど、うちの近くだから、ちょっと名前を出せないですね。

 

じゃあ肉を食べないかっていうと、肉もよく食べます。最近は圧倒的に牛肉を食べますね。僕は10年ぐらい前に胃がんの出術をしたんですよ。胃がないんですけど、それでも1週間に2回は牛肉の塊を食べてますね。肉屋に行って選んでね。胃があるころはいくら食べても平気で、普通の人の2倍ぐらいは食べてました。現役のころはステーキを1キロぐらい食べられたんですけど、ただ、高いから食べられないだけで(笑)。

 

現役時代、日本代表の合宿では、みんなで渋谷の「麗郷」っていう台湾料理屋さんに夜食を食べに行ってましたね。牛肉とキャベツを炒めた、ホイコーローみたいなものや、餃子とか腸詰めとか、そんなのを食べてました。

 

昔の代表の合宿って、ご飯が今とは違いましたからね。どこの合宿だったか、昼飯にざるそば一杯ってことがありました。「おい、こらちょっとすげぇよなぁ」って驚いたことがありますよ。

 

海外に行くと、共産圏なんかは食べ物がなくてね。黒パンにピクルスとか。曲がったキュウリ一本と黒パン1個とかいうのが昼飯だったりしてね。めちゃくちゃなときがありました。

 

だからみんな買い物に行って自分で食べてたんです。夜、どこかで別に食べないと足りないんですよ。そういう時代でしたからね。文京区の合宿している旅館から渋谷まで行って夜食食べてね。夜、そこに出てって一杯やって帰ってくるというのも楽しみでしたけどね。

 

 

横山謙三 プロフィール

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立教大学卒業後、三菱重工に入団。日本代表でも活躍し、東京五輪、メキシコ五輪に出場した。

現役引退後は指導者となり、三菱重工や日本代表の監督を務めた。1988年に就任した日本代表ではラモス瑠偉や三浦知良などを抜擢、3-5-2システムを採用するなど新しい風を吹き込んだ。その後は浦和レッズの監督、GMなどを歴任。
1943年生まれ、埼玉県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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