永井雄一郎のサッカー人生はずっと苦しくて今も苦しい……自分は何と戦ってるんだろう

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は永井雄一郎さんに登場をしていただきました。高卒新人として初年度から浦和レッズで活躍し、U-20日本代表、日本代表にも選出されたことを覚えているファンは多いのではないでしょうか。現在はFIFTY CLUBでケガとの戦いを余儀なくされている永井選手に、近況を語っていただきつつ、サッカー人生を振り返っていただきました。 (西麻布のグルメ焼肉

永井雄一郎のサッカー人生はずっと苦しくて今も苦しい……自分は何と戦ってるんだろう

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インタビューは前日に延期された

11日後、永井雄一郎を尋ねた先は病院だった

右足のギブスが痛々しい

そんな状況で永井は口を開いてくれた

 

足を上げたままでないと痛いそうだ

椅子に座りながら右足だけ持ち上げ

不自然な格好のままで永井は話し続けてくれた

表情が明るかったのはせめてもの救いだった

 

インタビューの延期を申し出ても

気を遣って応じてくれる

ユーモアを交えながら笑顔を絶やさない

だが現役時代はずっと苦しいときだと思っているそうだ

 

アキレス腱が……後ろから蹴られたような衝撃

実は今が自分のサッカー人生の中でも、大変なときなんですよ(笑)。3月18日に神奈川県のカップ戦に出ていて、右のアキレス腱を切っちゃって。

 

相手がキックミスして右サイドの自分のところにボールが来たんです。前半30分過ぎぐらいに。軽くジャンプして胸トラップして、カウンターに行こうと思って前を見ながら着地したら、パチーンって。誰かに後ろから蹴られたと思いましたよ、本当に。アキレス腱が切れたときによく言う話のとおりですね。

 

それで後ろを振り返りつつ「オレ、フリーだったよな」って思い出して、誰もいなかったからすぐに「あ、切れた。例のヤツだ」とわかって。「いやぁ、やっちゃったな。これからリーグ戦が始まるのにな」って。まさかですよ。

 

移籍した後も体のケアはずっとやってたんです。昔と同じように生活のリズムも作って。まぁでもやっぱりその……グラウンドが人工芝だったり、夜遅くからの練習だったりとか、自主トレも近所の固い、押し固められた土の上に砂利がまいてあるようなグラウンドを使ってやってるし、日によっちゃコンクリートを走ってるんで。日頃のそういう積み重ねと、あとは長年積み重ねてきたものなんでしょうね。現役生活20年を過ぎて、ちょっとガタが来ちゃったかなって。

 

アキレス腱が切れたまま時間が経つと、筋肉が落ちちゃったり、切れた腱が癒着するらしいです。だから手術はなるべく早いほうがいいと、切れた4日後にメスを入れました。手術から2週間後には装具を付けて、その装具が取れるまでに4カ月。そこからは自分がどれくらい心肺機能を高められるかということですけど、とりあえず復帰までは6カ月って言われています。休んでいると動き出したときに他の部分がいろいろと出てくると思うので、そこがうまく調整行けばすんなり6カ月ですね。

 

ただ左足も怖いんですよ。今度はそっちが切れちゃうんじゃないかって。だから今は休んでアキレス腱も休ませて、またいいバランスが取れるようにしないと。

 

自分でトレーニングをやってケアもセルフだから、やってるつもりでも、どうしてもJリーグでやっているときより体のメンテナンスの時間は減っちゃうんで。そこはもう1回見直さなきゃいけないのかなと思ったりしてます。

 

病院にいるときはリハビリの部屋を自由に使わせてもらってて、自分で自主トレみたいなことをやってますよ。毎日1時間は汗を流して、とりあえず今できることはちゃんとやっておかないといけないなって。手を抜いても何にもならないですからね。結局自分に返ってくるんで。

 

休んでもしょうがないし。とにかく、苦しいときって結局、やるしかないんですよ。もがくしかない。まず自分でやってみて、そこでダメだったら人に言葉を発してもらうというか、その中でやっぱりやるしかないし。

 

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「もう永井にはキレがない」と言われ続けて

1997年にデビューしたんですけど、そのシーズンはリーグ戦の前にヤマザキナビスコカップがあって、そこで途中出場させてもらったり、スタメンでもプレーさせてもらったりしてたんです。そうやって試合に出ててたんで、リーグ戦が始まったときにはもう結構プロの雰囲気にも慣れていたんで、開幕でスタメンに入って。

 

それまででドリブルの間合いとか人との距離感とかに慣れていたんで、落ち着いてプレーできたし、あとは失うモノがなかったですね。それで井原正巳さん、小村徳男さんをドリブルでかわして、GKの川口能活さんもかわしたんですけど、最後角度がなくなってゴールを外すという。そういうオチまでちゃんとついてるっていう(笑)。必死だけど、相手が代表選手ということで楽しんでましたね。

 

ただ、レッズのときって、よかったときのほうが少ないかな……。そうやってデビューさせてもらったけど、じゃあ実際試合の中でそこまで結果を出せたかというと、30試合に出してもらったのに年間で3点しか取れなかったし。次の年ってもう一切ゴールがなくて。原博実監督には「まったく戦えてない」みたいに思われたみたいで。それでドイツのカールスルーエに移籍することになりました。

 

自分がレッズにいたときのプレーって「すごくよかった」と言ってもらうことがあるんですけど、みんなの思い出が美化されているというか。僕はそういう感じがあると思います。実際はそんなことなかった。最初は「日本人のFWで行く」って言ってたのが、J2に落ちてアンジェイ・クビツァが入団して来て、J1に戻ったら、トゥットやアドリアーノ、エメルソンって前線の選手が次々に入団して、田中達也も入ってきた。本当にしんどかったのはそこらへんかもしれないですね。

 

浦和ではいい番号を付けさせてもらっていたから、そういう印象もあるみたいです。でも、僕が入団したときって番号は選ばずにクラブから渡されたもので、2年目は自分が何か言ったわけでもなくて17番になって。ドイツから帰ってきたときは大きな数字が空いてたから30番になったんです。

 

その翌年、僕は11番をつけたいって初めて要望したんですよ。ところがその次の年にはもう無条件で18番にされてました。トゥットが11番がいいって言ったから。それで僕の要望は通らなくて。

 

その18番の後は7番なんです。神戸に移籍してた岡野雅行さんの番号でしたね。実は僕はデビッド・ベッカムが好きで、ちょうど空いてたし、岡野さんのあとだからつけたいって言ってもらいました。

 

で、その次の年はエジムンドが来て7番がいいって言うから、また7番でもなくなって。でも福田正博さんが引退するっていうので、9番をいただいたんです。福田さんの跡を継いで「ミスター・レッズ」みたいになれって言われてたんですよ。ただ実は僕は「7番をつけてミスター・レッズになりたいです」って言ってたんですけどね。ダメでした。

 

僕はキャプテン翼の世代だったんで、自分は日向小次郎タイプじゃないだろうって思ってたのもあります。力強くゴリゴリ行くタイプじゃないって。僕は岬太郎が好きだったんですよ。技術があっていろんなことができて、メインの人がいて、そこに合わせることもできるし、自分でもできる、みたいな。そういう感じがすごく好きだったから、本当は11番がよかったんですよ。

 

ただ、そういう背番号の印象と、あとは2004年のヴェルディ戦で70メートルぐらいドリブルしてゴールを決めて、結局ハットトリックした試合のイメージと。あれが強烈にみんなの印象に残っちゃったみたいで、今でもそういうプレーをしないと「ドリブルの切れがない」って。そういうのを去年までずっと言われ続けてたんです。

 

日本代表でも2003年にアウェイの韓国戦で、途中交代で初出場したら最後にゴールを決めて、そのイメージがみんなにあって。でもそのあともメンバーに選ばれたけど、ケガしたりグロインペイン症候群になって離脱しちゃったんですよね。

 

結局自分はその自分の過去のイメージ、周りが持っているイメージと常に比較されている感じなんですよ。

 

昔に比べて今はもうちょっとプレーの幅を広げてきたと自分では思っていても、何人もかわしていくドリブルが見せられないと「もう永井にはキレがない」って感じで言われ続けて。

 

自分は何と戦ってるんだろうと思いましたよね。そういう過去の自分と比較されて、そこと戦っているような感じがずっとあって。だから正直、自分のサッカー人生ってずっと苦しいまんまなんです。

 

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レッズ時代はチームプレーに重きを置きすぎていたのかもしれない

今、神奈川県リーグ1部の「FIFTY CLUB」(フィフティークラブ)でプレーさせてもらって、ある意味、自由にプレーさせてもらっているので、昔のドリブルとか体の柔軟性とか、もっと力を抜いた「柔らかく強い」みたいに戻ろうと思ってます。

 

浦和のときは個人を押し通すプレーをずっとやってたほうが、結果的にはよかったのかな、なんて思ったりしますし。やっぱり年々チームプレーを要求されるようになるし、中盤では簡単にプレーするようになる。たまたま2007年とか2008年のレッズの試合を見返すと、自分はほとんどダイレクトかツータッチなんですよ。あとはずっと走ってる感じになってました。

 

レッズで過ごした最後のほうは、年々自分の中でチームの駒としての役割というのがすごく大事だって思ってやってました。だけどそれに自分自身が重きを置きすぎて、結局自分が無くなっちゃったみたいな。

 

それで今は、肉体改造をして体を大きくする前の、自分が持っていたポテンシャルでやってたときを思い出して、その当時に戻ろうと。去年からそんなトレーニングをずっとやってたんですよ。その矢先にこのケガなんですけど。

 

この足ではいつもの練習ができないけど、そのぶん逆にプレーしながらだとできない部分とか、上半身の柔軟性とか鍛えて、昔の柔軟性を取り戻す時間にしようとやってます。それにこの休養って、20年間の傷とかクセを全部癒してるのかもしれないとも思ってて。

 

何よりもチームの代表が、「ケガはしょうがないから。とにかく戻ってくるしかないし、焦らずにまた帰ってくればいいから」と言ってくださってるんで。そこが僕としては一番助かるというか。

 

「FIFTY CLUB」に来たのは、クラブの代表が晃鈴産業産業という会社の社長で、横浜FCのスポンサーなんです。僕は横浜FCにもいたことがあるから、その関係もあって声をかけてもらって。

 

まぁ実際去年のオフはJリーグのチームから声がかからなかったというのもあります。正直に言えば。やっぱり去年も試合に出てないというイメージもあったでしょうね。去年は国体なんかに出てましたけどね。

 

それに家族のこともあって。一番上の子供が小学校に入るんですよ。横浜には自分の家もあったから、帰ってきて横浜でプレーできるのがいろんな面でいいのかなって。それにサッカー選手もあと何年できるかわからないという中で、今後の仕事を考えると、こっちにいたほうがいいかなというもありました。どこかのクラブで1年プレーして、そこで終わりになって再スタートするんだったら、もうタイミング的には今かなって。

 

あ、マネージャーからは「一番かわいいマネージャーがいたから」って言えって言われてるんですけど、まぁ大丈夫です。これなくても(笑)。

 

県リーグでプレーするってことについていろいろ言う人もいました。ただ僕はACLでレッズの優勝の場面に立ち会わせてもらったときにすごく思ったんですよ。「日本のサッカーのトップはここなんだな」って。ACLの決勝に出られるのは数クラブで、実際に自分はそこにいたわけじゃないですか。だから頂点は見ることができたし。

 

それから今は関東リーグでもJリーグから選手が流れてきてて、J2やJ3よりもいい給料でプレーしてたりというプレーヤーがいたりするんですよ。上に行けば年俸かよくなるかどうかというのはよくわからない感じです。だったらいろんな意味で、今後の人生を考えた上で、ここでやらせてもらうところが一番いいのかなって。僕が10代だったら違うんでしょうけどね。

 

「FIFTY CLUB」の練習環境は21時から、週2回。人工芝でプレーするのはもうしょうがないとは思います。この時代だし、人工芝のグラウンドが主流になってきてるし。実際リーグ戦も人工芝なんで。ちょっと靴とかも含めていろいろ考えなきゃないですね。

なんとか関東リーグに上がっていけば、また環境も変わってくると思うし、練習の時間帯も変えられると思うので、まずはカテゴリーを上げて、その環境にしてもらえるようにしていくしかないのかなって。

 

ただ、実際上がったとしても、今のメンバーは仕事の関係で練習に来られないというもあるんで、そこはどうするのかってことになってくるんです。それでメンバーを変えなきゃいけないってことになると、今まで「FIFTY CLUB」を作り上げてきた人たちが来られなくなって、それはそれで寂しいというか。

 

将来的には自分がプレーするチームを自分で作りたいですけどね。で、自分たちは社会人でプレーできる場所をつくって、そこに若くて可能性のある子を大人と一緒にプレーさせて、塾じゃないですけど育てながら子どもたちが成長していく姿を見てみたいとは思ってます。

 

もう40歳になりますから、今から育てるって言ってもあと何年できるんだよってことなんですけど。やってみたいことはたくさんあるんですが、実際はどうなのかなって思ったりしてます。

 

 

浦和からの移籍に迷いはなかった

今も苦しい時期なんですけど、それでも自分をちゃんと見つめ直すというか、冷静に客観的に自分を分析して、その中で自分を厳しく評価したいと思ってます。僕は自己評価って自己満足でしかないと思ってて。

 

「オレはこれだけやってるのに」って思う人がいるんですけど、それはただの自己満足でしかない。サッカーって誰が評価するのって、監督だったりスタンドにいる人だったり、チームメイトだったりするわけですよ。

 

結局誰が自分を評価しているのかって自分以外の人たちなんですよね。自分以外の人たちをどれだけ納得させられるかという、周りからの自分への評価が一番大事なんです。そこにしっかりアンテナを張って、周りからの評価を真摯に受け止めて、そのときに自分が何をすべきなのかをしっかり自分で考えて、それを行動に移す。そういうことを続けることしかないと思うんですよね。

 

本当に正直に言うと、結局浦和を出てから結果的に全部のクラブをクビになって次のチームに行ってるわけだから。それは周りを納得させられてないからそうなってるわけだし。

 

いいときが長く続く人って、なかなか日本のサッカーではいないだろうし。リオネル・メッシのようにずっと続くのは本当にすごいと思うけど、ネイマールだってケガして思うようにいかない時期ってあったから。世界のトップだってそういうことが起きうるんですよ。だから、そんなときに自分がどうするか、どういう行動を取るか、どう考えるかってことになってくると思うんですよね。

 

ときどき「浦和に居続けたら引退は早かったかもしれないけど、浦和の中での何かのポジションが用意されたかもしれない」という人もいるんです。そう思ってもらうことは幸せですね。

 

でも浦和では高額な年俸の外国籍選手のFWがどんどん入ってくると、どうしても自分ってこのチームにとってどういう存在なんだろうって気になって。9番を受け継いで「ミスター・レッズ」かというと、そういう感じでもないし。結果を出せてないって厳しい評価をされているって、当時の自分のは冷静に考えられなかった部分もあったし。長年そういうのが続いて。

 

浦和で育ったから、「最後まで浦和で」っていう気持ちがなかったわけでもないけど、だけどやっぱり自分はいろんなものを見てみたいって。その気持ちのほうが強かったし、そっちのほうが価値があるんじゃないかって思ったんで。

 

だから移籍することについて迷いはなかったんです。そのときはメディアの方々にチームや監督に対する思いをいろいろ発信してもらいました。それなりに腹をくくった上で発信した部分もシーズン中はあります。けれど、今になるとあの方法はクラブやみんなにとって不快だっただろうと思います。

 

その後も、いろいろなクラブにスタッフとして誘ってもらったりはしたんですよ。けれど、この状態でパッとそこに行くんだったら、レッズにいたほうがよかったじゃんってことになると思って。

 

今自分が何かやると、今までやって来た実績だったり、浦和で何か残したものに自分が甘えて、それを食い潰していくだけって自分では思ってしまうんですよ。「元代表の永井雄一郎」「元浦和レッズ」みたいな扱いになると思って。そこに甘えちゃいけない、甘い蜜に食いつきたくはないというか。しっかり自分が何かを確立しないと、2008年に浦和を出た意味がないんで。だから話をもらったんですけど「いや、いいです」って断って。

 

家族のことを考えると給料は安定するからいいんでしょうけどね。ただ、僕は自分で何かやってみて、いろいろ仕事をやって自分でも何か築いて、そこでいろいろな仕事を振ってもらえたら、そうだったら自分もちゃんと「永井雄一郎」でいられるのかなって。そのぶん家族には苦労かけてますけどね。

 

…………あ、いただく仕事だったら、モデルとかやらせてもらいたいですけどね。本気で思ってるんですけど。小さいころからモデルにはなりたかったんで(笑)。

 

 

プロになって野菜嫌いを克服した

高校時代まで三菱養和というクラブにいたんですけど、家と学校とクラブが遠かったんで、食事はいい加減だったんですよ。朝は6時30分には電車に乗らなきゃいけないんで、パンを作るのが好きだった母親にサンドウィッチ作ってもらって、学校に持って行って、1時間始まる前か終わった後に食べてました。で、3時間目終わって学食で食べて、4時間目が終わってまた学食で食べて。唐揚げとか唐揚げ丼とか、カレーとか牛丼とか。

 

学校が終わった後、一度家に帰ったらクラブに間に合わないんで、学校からクラブに行ってたんですけど、今度は逆に練習のずっと前に着いちゃうんです。だからちょっと仮眠取ったり、練習前にコンビニでスパゲッティとか食べて、ジムで鍛えた後練習に行って。すると帰りに牛丼屋さんがあったんでそこで食べて。それで家に帰ると0時ぐらいでした。

 

これでおわかりのとおり、野菜が全くないんです。僕野菜が嫌いだったんですよ(笑)。バランスよく食べることの重要性をプロになってからすごく言われて、やっとサラダとか野菜を食べるようになりました。寮だったんで、野菜を出してもらえて、余計に気を付けるようになったし。

 

でも寮を出てクラブに行ったりすると、治療を待ってる間に店屋物なんか出前で取って食べたりもしてました。今はそんなことやってる選手なんていないでしょうけど。

 

横浜FCのときは朝昼ともにクラブでご飯が出てきたので、自分では気を付けなくてよかったですね。何も考えずに食べてればオッケーでした。ザスパに移籍したとき、トレーナーに「ケガもあるし、年齢的なものもあるんで、3つの『ア』を止めなさい」って言われたんです。「甘いもの」「アルコール」「脂(アブラ)」ですね。

 

奥さんにもそれを伝えて献立を考えてもらって。だからお肉は、ささみとか、そういうタンパク質をとるようにしましたし、夜はなるべく玄米にしたりとか、そういう形でいろいろ変えたりして、気を遣ってやってました。

 

今、1人で外食するときはバイキングとかにしてます。サラダがたっぷり取れるし。ただ、外食の時はよく子供もいるんで、ちょっと息抜きに脂も取ったりします。たまにはファストフードも食べますよ。そういう食事をすることで、ストレス発散にもなりますから。

 

入院していても野菜の摂取量には気を付けてます。病院の食事以外にもっと野菜を取ろうと思って、スーパーに行ってサラダを買ってきて食べてますよ。

 

病院の食事だと2000キロカロリーぐらいで、選手としたら足りないんですけど、運動量の関係で、入院した後にぱっと体重が増えたんです。いつもは76キロから78キロ台なんですけど、手術後は動けなくなるのもあって81キロまで太って。

 

「やばい!」と思って、81キロだった翌日に動いて78.6キロまで落としました。ストレスもあったから、センベイなんかもを食べたりもしてましたからね。そういうのを止めて。まぁ一回体重が落ちたら、そこで多少食べても大丈夫になるんです。多いまま食べ続けるとダメなんですけど。今は78キロですね。

 

もしも退院した後に、何も考えずに食べに行くとしたら——とんこつラーメンの「一蘭」ですね。大好きなんですよ。あのラーメンを「こってり」にして、味も濃くして。それから、焼肉にも行きたいですね。あー、焼肉行きたい。焼肉はね、浦和のときに八山(はっさん)という東浦和の店に行ってました。浦和を出てからずっと行ってないですけど、あそこには行ってみたいですね。それから西麻布にある焼肉屋の「十々(じゅうじゅう) 西麻布店」もおいしいんですよ。焼肉ね。食べたいなぁ。

 

あと新横浜の「ラーメン博物館」に行きたいです。誕生日に家族で何をするか決めようとしたとき、ラーメン博物館に行くか、御殿場のアウトレットに行くかってなって、御殿場になったんです。あー、「ラー博」に行きたいな。結局ラーメンですね。いいですね—、ラーメン。

 

十々 西麻布店

十々 西麻布店

 

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永井雄一郎 プロフィール

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1997年、三菱養和SCから浦和レッズに入団。1年目から30試合以上に出場、U-20W杯(ワールドユース)にも1997年、1999年と2回連続で出場。2003年には日本代表にも選出された。
2008年に浦和レッズを退団して以降は清水エスパルス、横浜FCなどを渡り歩き現在はFIFTY CLUBでプレーしている。
1979年生まれ、東京都出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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