激動の4年だった……オシム、岡田両監督を支えた大熊清が日本代表で見たものとは

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回はセレッソ大阪の強化部長である大熊清さんに登場していただきました。FC東京の監督を長く務め、ユース代表監督を経て、オシム、岡田両監督のもとで日本代表コーチを務めた経験豊富な大熊さんから、日本代表時代のエピソードなど貴重なお話を伺いました。 ((大阪)福島のグルメ寿司

激動の4年だった……オシム、岡田両監督を支えた大熊清が日本代表で見たものとは

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日本代表では2006年から2010年までコーチを務め、

イビチャ・オシム監督から岡田武史監督へと代わる激動の時を過ごした

2003年と2005年はワールドユースの監督も務めた

そんな経歴の大熊清はセレッソ大阪の強化部長になった

 

FC東京でもセレッソ大阪でもJ2時代という苦しい時期を指揮した

昇格させてJ1で指揮を執るのを楽しみにしていたのか

だがどちらのチームでも昇格後は身を引いている

名を上げる、野心を満たすという感情は大熊には無縁だ

 

「大変だった」という日本代表コーチ時代の話を絡めつつ

何を知り何を見てそんな心境になったのかを聞いた

 

 

J1に昇格させた後、監督を続けなかった理由

チームを昇格させたのにJ1でそのまま監督をやらなかった理由は、まぁ、いろいろありますけど、どうだろうな……何かな。自分の経験とか、東京大宮、セレッソの色とか見てきて、それで自分が変わってきたというか。

 

2003年UAEのワールドユース選手権や、2005年オランダのワールドユース選手権に監督として行ったときは、これからの選手を育てなきゃいけないという思いだけでしたね。その前の2001年まで東京の監督だったときは指導者としても若かったし、経験値も少なかったぶん、怖い物知らずみたいなことろもありました。2010年に東京に戻ったときは、とにかく残留とか昇格とかのことしか考えてなかったですね。

 

まぁ2期目の東京は強かったですね。うまかったというか。それでも監督やフロント、選手だけじゃできない強さでした。いいクオリティの選手がいてね。それがチームとして一つに出来上がったから強かったと思いますよ。

 

ルーカスがよくやってくれたけど、一度は引退してましたからね。そういう選手をチームに戻すのには勇気がいったんだけど、いい意味での四面楚歌だからさ。1年で上げなくちゃいけない、そういう責任を負ったわけだから。

 

なかなかJ2から上がれないチームもあるんだから、昇格させるという仕事が楽じゃないというのがわかってる中で、1年で必ず戻すというのが必要だったのでね。あとは覚悟があるかどうかでした。J1に上げなかったら、自分のキャリアも終わっちゃうというか。上げなくちゃいけない「マスト」の仕事ですからね。ただそれでも、助けたい、悪い方向に転がってるのをどうにか好転させたいというのがあって、躊躇なく東京に行きましたね。

 

2014年に大宮の監督を辞めた後って、東京の強化副部長をやってたりしたんだけど、日本サッカー協会と掛け持ちだったんで、あまり腰据えてできない部分があると感じてて。自分の中で、強化をしっかりしてやってみたいというのがあったんでね。サッカーの深さとか大変さがわかったから。

 

大事なのは目標から逆算して、どうしたらこの苦しいときを乗り切れるかと考えることで。そこで理想を考えると、もっとフロントの充実というかね、経験値があるやつがフロントをやったほうがいいんじゃないかなって。

 

だからどこかのチームの強化をやってみることが、自分の新しい視点を作るのにとっていいし、サッカー界の発展のためにもいいんじゃないかって思ってました。そうするとたまたまセレッソから強化部長というオファーをもらって。

 

過去にはいくつかのチームから監督としてのオファーをもらったこともあったんだけど、フロントをやってみたいし、やっぱり今は、「クラブ力」というのが大事だと思ったんですよ。いろいろ経験して考えたら。

 

 

勉強になったけどきつかったオシム監督時代

代表のコーチのときは、大変でしたね。大変というか、勉強になりました……勉強にはなったけどね(笑)。意外なことはいろいろありました。

 

イビチャ・オシム監督時代の2年間、練習のオーガナイズ(準備)、組み分けを練習前に1回しか教えてもらったことがないんです。その1回も、メニューを1番から5番まで聞いて、グラウンドに到着して1番の準備をしてたら5番から始まって。オレが慌てるように、そうやってたんだと思いますよ。

 

だからピッチではオレが一番緊張してたと思う。バスでグラウンドに行くのが憂鬱でね。その日何があるかわかんないし、先が見えないから。オシム監督は途中でいろいろ練習の内容を変えるし。監督から次はどうするかって聞いてからコーン並べるんで、メニューからメニューの間隔が長くなるし。

 

オシム監督の頭の中には全部入ってるんですよ。それをこっちがわからなきゃいけない。監督から4人のグループを4組作れって言われて選手を分けていると、「お前、組み合わせを考えてやってるか」「これ適当じゃないぞ」って聞かれるんです。「どんな意図があってこの組み合わせなんだ」とか、急に言われるからこっちも必死ですよ。ただでさえ、ビブスの色が4色とか5色あって、挙句の果てに2年間文句言われ続けて(笑)。きつかったけど、勉強になった……けど、きつかった。

 

監督がああやっていたのは間違いなく、チームって緊張感が大切だと示すためでしたね。仕事は何でも緊張感がなくちゃいけない、一生懸命やっても緊張感がないとマンネリ化すると思ってたいんでしょうね。

 

緊張感を維持するためだったと思うんですけど、スタッフミーティングのときに2回ぐらい「出て行け」って言われて。監督がいきなり「コーチはみんな出て行ってくれ」って言うんですよ。理由は言わずに。それでピリッとするじゃないですか。「なんで?」って思うから。

 

でも、それでオシム監督は根がすごいいい人だから、厳しいけどみんな付いて行きましたね。口悪いけど(笑)。あれも意図的なのかな。

 

あと、かわいいわがままも、オレたちには見せてましたね。いつもは18時が夕食の時間だったんですけど、あるとき監督が18時30分にしたいとマネジャーに伝えたらしいんです。だけどそれが伝わらなくて、結果的にオレたちは先に食べてたんです。

 

そうしたら遅れてきたオシム監督は、ふて腐れて部屋に帰っちゃったんですよ。で、日本サッカー協会の首脳陣が「大熊、お前飯持っていけ」って言うんです。

 

だから給食のデリバリーみたいに、監督の部屋まで食事を持っていきました。そうしたら全然ドアを開けてくれない。ピンポンって呼び鈴を鳴らしても応答してくれないんです。仕方がないから20分ぐらい部屋の前で待って、それから食堂に戻りました。結局、オシム監督は30分後ぐらいに1人で食堂に来て、黙ってご飯食べてました。まぁ、それで食事会場がまたピリッとしましたね。

 

オシム監督は脳梗塞で倒れて、本当に大変だったと思います。オレも病院までお見舞いに行きましたけど、そのときすごいと思ったことがあって。リハビリがすごいんですよ。サッカー選手だったから、年齢からは考えられないバリバリのリハビリをこなすんです。根本的なパワーも持っててすごかったらしいですよ。それに病室でもサッカー見てましたね。めちゃくちゃ見てた。それは本当にビックリでした。

 

 

岡田監督への交代で激動の時代に

で、逆に岡田武史監督はキチンとしてるから、事前にミーティングして、しっかり詰めてからピッチに行ける。ある意味両極端なやり方を経験しましたよ。

 

岡田監督は「カウンターサッカー」だとかいろいろ非難されて。ちょうどスペインの「ポゼッションサッカー」が流行っててね。

 

オレたちもいろいろ理論があったんですよ。攻撃での距離感がよければ守備での距離感もいいし、つなごうとすると逆に相手にリトリートする時間を与えてブロックを作られちゃうって。だからあのときの戦術を選んでいたんですけど、今も同じようなことを悩んでるじゃないですか。あのときもいろんな評価があっていろいろ周りは言うけど、「言うは易く」かなという気はしてましたね。

 

今の代表選手たちが「カウンターサッカーが日本にはいい」ってコメントしてるのを見ますけど、サッカーはカウンターがなければ優勝できないけど、カウンターだけで優勝できるかわからない。カウンターとポゼッションを振り子の両端だとして、どちらかに大きく振られ過ぎても本当はおかしい。

 

カウンターなのか、ポゼッションかって議論するのが有意義なのか、日本にとってどうなのかという話そのものが不思議に感じていて。南アフリカの日本代表がカウンターだけだったかというと、本田圭佑を1トップに入れた意味はそうじゃないという岡田監督のメッセージもあっただろうし。

 

間違いなく南アフリカの日本代表はヨーロッパへの扉を開いて、あそこで外国に行く選手が多くなって、日本のサッカーを認めたから受け入れられたというのもあったから。それを考えると非常に複雑でしたね。

 

でも確かにあの4年間は激動で、生みの苦しみも大きかったと思いますよ。オシム監督から岡田監督が引き継いで、2008年1月からスタートして3月にアウェイのバーレーン戦で初めて負けたんですけど、試合の後、岡田監督は成田に帰ってくるまで一言も話してないんですよ。それくらい集中して次の手を考えてたんですよね。

 

戦術も考えてたし、選手の発掘も行ってました。うれしいのはあの時キャプテンになった長谷部誠が今も頑張ってくれてることですね。それひとつとっても、あのときの日本代表はすごいものを残したと思います。

 

あの当時、香川真司も内田篤人も代表チームに入れましたからね。結局、香川はワールドカップのメンバー外になって、内田もサブでした。確かに才能はあったけど、まだ自分を表現できていなかった部分もあったから。

 

ほかにも2010年1月6日にアウェイのイエメン戦に出場した山田直輝は、その試合で骨折しちゃったけど、すごい才能を感じてました。山村和也とか永井謙佑もちゃんと視野に入っていて、いろいろ考えたときに決めたんだと思います。あのとき監督は目標を「ベスト4」って言ってて、そこから逆算したときにいろんな狭間の中で考えていたと思うんです。岡田監督は本当に朝までワールドカップのメンバー考えてましたね。

 

 

 オシム、岡田両監督の特徴とは

岡田監督もオシム監督もミーティングは長かったですね。岡田監督は何でも聞いてくれるタイプでした。オレなんかは「今のシステムじゃ失点が多いから、ワールドカップじゃ3-5-2とか3-6-1じゃないとダメだ」とか言ってたんですけど、そういう意見もざっくばらんに何でも聞いてくれた。

 

オシム監督はメンバーを決めるときにとことん話をして、岡田監督よりも長かった。選手一人ずつについて話をするんです。しかも、オレがその選手のいい部分を言うと、オシム監督は悪い部分を言い始めるんです。「アイツは優しすぎる」とか。それでメンバー選考だけでも4、5時間はかかってましたね。

 

オシム監督も岡田監督もやっぱり器がね、大きかったですよ。好きに何でも言ってくれって。上から物を言う人じゃなかったですね。

 

岡田監督はいつもプレッシャーをすごいかけられてましたね。1998年のフランスワールドカップを率いた1回目のときもひどかったじゃないですか。日本は日本人の監督に対して厳しいですよね。岡田監督は新聞を読まないって言ってましたけど、やっぱり情報がどこからか入ってきますからね。そこも日本語が読めない外国人監督とはやっぱり違います。やっぱりあれは岡田監督じゃないと耐えられなかったでしょうね。

 

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現場だけではいいサッカーはできないという考えにたどり着いた

いろんな経験をして、サッカーの現場は大切だけど、現場だけじゃいいサッカーはできないとわかりました。フロントやクラブのあり方、女子であったり、子どもたちの会員をどうするかとか、そういうのは東京でもやったたから、監督で見える景色とはまた違うものも見えるようになった。

 

セレッソに行くってことになったら、それまで監督を務めたのがが東京大宮だったんで家を離れたことがなくて、50歳にして初めての単身赴任だし、大阪って東京とはちょっと違うじゃないですか。しかもヤンマーからの歴史もある名門だし。

 

だけど、動いたり、リスクを負わないと新たな物は見えないかなって。キャリアを失うかもしれないけどね。「継続は力」って言うけど、変化がいいものを作ったりってこともあるから。人生もそうなんだけど、チャンレジしたら、「よかったな」って思えることがあるから。東京から出て知り合いも増えたし、またサッカーの難しさも知ったし。

 

セレッソには、東京の監督だった時代にチームにいた茂庭照幸がいてくれたのがよかったですね。より近くでチームを見られたから。それに監督だったパウロ・アウトゥオリは、すごいいい人だったね。知見もあるし経験もすごいし。

 

でも、たまたまいろんな歯車がうまくかみ合わなかった。今のJ2は甘くないから。それを乗り越えなきゃいけない。強化部長って、ある意味監督と一心同体だと思う中で、パウロっていう世界一の監督を一生懸命支えてきたつもりだったんで。でも、解任になって監督として後を引き継がなきゃいけなくなった。

 

クラブが自分を後任に決めた以上、やらなければいけないからっていうのもありました。それでまた現場に出ることになって。もちろん、やっぱり監督やってたから、チームを見ていて「オレだったらこうやる」っていう部分もあったし。

 

強化部長でクラブに来たので、監督をやるにしても2015年の残り少しと2016年の1年限定というのもある程度決まってたし、今もセレッソの強化のために来たと思ってるんで。現場がやりたくないというのはないんだけど、セレッソが強くなるためにどうするかというのを考えると、ちょっと考えは違って。

 

そりゃそのままJ1で監督をやりたいという気持ちは、多少はありましたよ。昇格レースは本当に苦しいから。ただ、自分だけで強くしてるわけじゃない。セレッソって、東京もそうだったけど、OBには優秀な方がたくさんいて、伝統もあるし。

 

それに「やりたいこと」「やるべきこと」「やれること」を考えると、組織を強くするためには、オレはS級コーチングスクールで一緒だった石崎信弘監督(テゲバジャーロ宮崎)みたいに「一生現場」ってタイプじゃないかなって。現場じゃなくてもサッカーに関わっていることには変わりないから。

 

セレッソを取り巻くファミリーが、みんなで目標から逆算してクラブを見ていかないと、継続は簡単じゃないから。そういうのを知っている人が多いクラブが、安定もしてくるし伝統もできていくと思うんですよね。そういうのを広める役かなと。

 

スカウトの大切さとか、大学や高体連の良さを尊重しながらアカデミーやっていくとか、そうやって選手を獲得して、遅咲きの選手まで受け入れて、現実を考えながらチームを作っていかなければいけないと思うんです。自分はそういうのをやりたいかな。代表のコーチをやって、そのあと東京に帰って、自己評価も必要だけど、何をやるにも必要なタイミングなんかもあるというのは思いましたから。

 

だからね、今は「チーム力」を上げることに力を入れています。これまで関わったチームやクラブは、みんないい方向に進んでほしいと思います。大宮も今は苦しんでるけど、フロントで知ってるやつもいるしね。ぜひがんばってほしいと思います。

 

 

大阪ではお寿司屋さんに行くことが多い

オレ、ぐるなびよく使ってるからビックリしましたよ。まさかこういうコーナーがあるなんてね。おもしろいですね。オレは食べるのが大好きで、嫌いなものないから、後輩から何を食べたいか聞いて、店を調べるのに使ってて。行くのはお寿司屋さんが多いかな。

 

大阪に、3カ月で板前になれるという学校があって、そこの生徒たちでやってる「鮨 千陽」という店が大阪・福島にあるんですよ。女の子や、外国人の板前さんもいる店で。ミシュランガイド掲載店でネタもいいのを使ってる。そこは最近結構行ってます。

 

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その店にいる板前さんは、いろんな意味で選手と同じでね。がんばってほしいなって。まだ英語も話せないのにオーストラリアに行って寿司屋をやるって言ってる女の子の板前もいるし。そこは「作る」っていう意味で興味がありましたね。

 

それと、おいしいものだと、東京麻布十番の「中国飯店 富麗華」。ここでも結構食べてて、ペキンダックが好きだな。外がパリッとしてね。まぁ高くておいしい店です。

 

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あとは埼玉・南浦和に「小島屋」っていうウナギ屋があって、これもお勧めですね。浦和って昔、沼だったからウナギ屋さんが多いんです。「小島屋」は東京神奈川からも食べに来る人がいるくらい。関東なのに関西風の蒸さないウナギですね。パリッとしてる。埼玉のチームの選手はよく行くんじゃないですかね。

 

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まぁ大阪っていうと、粉ものがうまいからね。たこ焼きと言ってもほかで食べるのとは別物ですよ。たこ焼き器はまだ買ってませんけどね(笑)。

 

 

 

大熊清 プロフィール

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中央大学卒業後、1987年に東京ガスへ入団。92年に現役を引退し、94年からは東京ガスのコーチ、監督代行を経て95年より監督。99年にFC東京となり2001年まで監督を続ける。2002年よりU-20日本代表の監督を務め、2006年からは日本代表コーチに。2010年に退任後はFC東京大宮、C大阪で監督を歴任、現在はC大阪の強化部長。


1964年生まれ、埼玉県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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