日本人初のW杯主審・高田静夫の知られざる孤独な戦い……選手が私を取り囲み、試合後も追いかけてきた

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は高田静夫さんに登場をしていただきました。日本人初のW杯主審として、1986年、1990年のW杯に連続出場。日本リーグからJリーグ創世記までの活躍をご記憶のファンも多いと思います。高田さんには、サッカー冬の時代、レフェリーへの敬意が感じられない時代の孤独な戦いについて語っていただきました。 (大泉学園のグルメランチ

日本人初のW杯主審・高田静夫の知られざる孤独な戦い……選手が私を取り囲み、試合後も追いかけてきた

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今でこそレフェリーの声を聞くことができる

判定について疑問を呈されたとしても

反論することも出来るだろう。

 

だがJリーグが始まるころ、

あるいはその前の時代は何を言われても

耐えなければいけなかった。

 

日本がワールドカップに初出場する12年前、

1986年メキシコワールドカップで日本人として初めて

主審として笛を吹いた高田静夫氏はそんな時代を生きた。

 

退場者が出た1993年のJリーグチャンピオンシップは

「苦労でも誇れるゲームでもなかった」そうだ。

その後の非難もまた予想される範囲であったという。

 

それよりも辛い経験があったそうだ。

孤独の中で耐え抜き

現在の礎を作った高田静夫氏の話を聞いた。

 

 

罵倒してきた選手にレッドカードを出した

私には審判時代、強いてあげれば3回ほど苦しいときがありましたね。

 

最初は、二級審判員から一級審判員に上がろうとしたころ、1980年より少し前ですね。私が一級になったのはその昭和55年ですから。

 

いろいろな会場で笛を吹いたり旗を振ったりするんですけども、選手やチーム、サポーターからも文句を言われることが多く精神的にこたえましたね。JSLでもあったし、高校の大会、大学の大会でもありました。学生でも激しく文句を言ってくることがありましたよ。

 

私は東京教育大学(現・筑波大学)時代、3年、4年で関東大学リーグで優勝、3年のときには全国大学サッカー選手権で優勝の経験をしています。審判員になるのに最初は乗り気ではなかったんですけど、サッカーは好きだし、審判を本格的にやるようになって、面白味が段々わかってきました。

 

ですが上のカテゴリーに行けば行くほど難しいゲームもあり、いろいろなタイプの選手、チームがあって、私の未熟さや判定上の摩擦から嫌な思いをして帰ってくることが多かったですね。自分では充実感を持って「やりきれた」と思っていても、帰り際に、負けたチームの選手やサポーターから文句を言われれば、気分は沈みますね。

 

嫌な思い出の一つは、JSL2部のゲームでした。元日本代表クラスの選手がいましてね。そのベテラン選手はいろいろなゲームで結構レフェリーに対して口うるさいんですよ。

 

自分にとって、あるいはチームにとって不利な判定があれば、すぐに審判員にプレッシャーをかけてくる。一言二言文句を言ったり、ときには罵倒したりとかね。レフェリーの対処が甘ければ輪をかけてどんどん言ってくるんですね。

 

私がその選手に異議でイエローカードを出したところ、さらに興奮して文句を言ってきたんです。あまりにひどい言葉であったので、レッドカードを示しました。するとその選手は退場するときに私の足下につばを「ぺっ」と吐きかけてきた。

 

半年ほどの出場停止だったと思います。当時、リーグは厳しい対応をしてくれましたね。そのときはマッチコミッショナーも、審判アセッサーもいませんでしたから、主審の報告書や、試合の関係者から事情を聞いて、対応してくれたようですね。ただ、そのころはあまりレフェリーが守られているいう意識が全体的には薄かったんです。サッカー界全体には残念ながら「レフェリーなんて」という風潮があったように思うんですよ。私はしばらくの間、サッカー不信、選手不信で悩んでいました。

 

 

Jリーグ以前はレフェリーに対する敬意はほとんど感じられなかった

サッカーはもともとレフェリーがいない競技だったということを理解している人はほんのわずかで。審判の世界に入った人が勉強していたくらいではないかと思いますね。当時のサッカー界はプレーのマナーなどがあまり議論されなかった時代で、サッカー協会としてもなかなかフェアープレー推進が難しかったのかもしれませんね。罰則規定はあったはずですがね。

 

チーム側としては、レフェリング技術の低さや明らかな判定ミスの多さに不満をずいぶん抱えていたのではないかと思うんです。一方で、敗因をレフェリーの判定のせいにすることも多く見られました。

 

審判員が大事な役割、立場だという認識はあるんですけど、残念ながらレフェリーに対する敬意はほとんど感じられませんでした。監督さんの取り組みやチームのスタイルとして、レフェリーには一切文句は言わないとか、終わったら握手を求めてくるチームもありましたが、サッカー界全体でのレフェリーが置かれた地位や環境のレベルは低かったですね。

 

あるとき、練馬区内に少年サッカーの大会があって、たまたま見に行ったんです。資格を取り立ての若い審判員がやってるというのがわかりました。自信のなさからか少しおどおどしながらやっていましたからね。

 

すると大差で勝っている方のチームは、監督さんがベンチからその審判員の下手さ加減を平気で非難するんですよ。正しい判定のときでさえ。さらに近くにいる応援の父兄たちも同じようにヤジを飛ばすんですね。

 

しまいにはそのチームの下級生までが監督や父兄と同じように「審判ヘタクソ」と言ってるんです。おそらく、その青年審判員はそれ以降、審判員を辞めたんではないかと思います。

 

全国高校選手権でも同じような事例はありましたね。GKの退場について監督さんのメディアへの一言が新聞に大きく載って、正しい判定であったにも関わらず主審が悪者扱いされ、しかも主審の家族までもが影響を受けました。

 

それはもう残念極まりない事件でした。近年は日本サッカー協会からの指針も明確に出され、サッカー界全体でフェアープレーやフェアーなマナーの大切さを唱えていますね。

 

 

ウルグアイの選手に囲まれ、試合後も追いかけてきた…

私は一級審判員になって4年後の1984年、国際審判員に登録されました。その年にすぐにアジアカップ決勝大会に審判指名されて、そこでの評価が高く1986年のワールドカップへのきっかけになったんです。ワールドカップの前年、1985年、当時のソ連でワールドユース大会が開催され、私は指名を受けて行くことになりました。

 

2つ目の苦い思い出は、1985年、ワールドユース大会への出発直前の7月、キリンカップ大会の決勝戦、ウルグアイ対サントスの試合です。試合は4-2でサントスが優勝し、内容はとてもエキサイティングでスリリングでしたけど……。

 

その試合では、私が気になっていたのは、国際審判員のバッジがまだ届いていなかったことでした。近年では登録されると自動的に送られてくるようですが、当時は登録されてから2年で国際代表Aマッチを2試合主審をしないとバッジがもらえない仕組みで、2年目の私には送られてくる直前だったんです。

 

決勝の笛を吹いたときは、まだ胸には日本サッカー協会のバッジ。選手たちはそれをしっかりと見ていたようで、「このレフェリーは新米だろう」と捉えられているのがわかりました。

 

私自身は判定がゆらいだり、大きな判定ミスをしたつもりはなかったのですが、選手はレフェリーの未熟さをしっかりと見てるんですね。ベテランの選手たちは自分たちが不利だと思うと、笛を吹く度にプレッシャーをかけようと近寄ってきます。弱気になってしまった私はしっかりとコントロールが出来なかったと思います。

 

お互いにエキサイトして対立したり、不利な判定でレフェリーに詰め寄ったり。ウルグアイ対サントス、それはウルグアイ対ブラジルと云う歴史的な因縁があったんですね。激しい攻防の連続でした。

 

サントスのダメ押し点は、オフサイドがらみの得点でした。オフサイドポジションにサントスの選手がいたけれども、シュートには関わりないという私の判断で得点を認めました。ただ、線審(現・副審)の旗は揚がっていたんです。それでウルグアイの選手は私をわーっと取り囲みました。それまでのいろいろな経緯もあって、不信感ばかりだったのでしょうね。

 

ハーフタイム、線審の先輩からはアドバイスをもらっていました。

 

「これだけ荒れてるから。終わるときの場所を気を付けろ」「すんなり終わればセンターサークルで挨拶でもいいけれど、ウルグアイが負ければレフェリーに何か仕掛けてくるかもしれない。そういうときは、更衣室に近いところのハーフラインで笛を吹け」

 

オフサイドがらみの追加点もありウルグアイの敗北で終わりました。私は先輩のアドバイスからハーフライン付近で笛を拭いて終了し、そのまま更衣室に向かったのです。すると案の定ウルグアイの何人かが私たちを追いかけてきましたね。もし、私たちがピッチに残っていたら、混乱状況になったかもしれません。

 

こいつは経験未熟だ。国際審判員のバッジを付けてない。自分たちがレフェリーをコントロールしよう。今から思うとレフェリーがゲームコントロールをできなかった……猛反省点としてありますね。ホントに……心身ともに疲れ果てたゲームでした。更衣室でしばらくは立ち上がれなかったですね。

 

 

翌日の新聞には「レフェリーが逃げ帰った」と書かれた

翌日の新聞には「レフェリーが逃げ帰った」みたいに書かれてね。私にとっては非常に厳しいゲームでしたね。1週間後に、ある新聞のコラムに試合のことが書いてありました。「日本人審判にも顔があったら」。『顔』のある外国人審判がやったならば、違った試合になっていただろう」という内容の記事でした。その記事は今でも切り取って持っています。

 

このゲームは、今から考えると私にとって大きな転機になったと思います。未熟さと、世界のサッカーを知らなかったこと。南米の歴史を予備知識として持っておけば、また対応は違ってできたかもしれません。それもまた経験ですからね。

 

コラムにあったように、もし「顔」のある、経験のある外国審判員がやっていたら、もう少し内容は違っていたかもしれない。これから海外に出られたら、もっと他の人のレフェリングを見てみよう。そういうところに気付くきっかけになりました。

 

キリンカップ決勝の1カ月後、不安を持ちながらも旧ソ連に行きました。初のFIFAの大会、到着した途端、FIFAバッチの付いたスーツからウェア、審判用具一式が用意されていました。新しい出発点に立ったように感じましたね。レフェリングも含めて自分でも満足できた大会になり、一つのきっかけとなり翌年のメキシコ・ワールドカップにつながったんです。

 

キリンカップ決勝は非常にショッキングなゲームでした。自分の不甲斐なさで本当に紙一重のところで辞めたかもしれません。

 

審判活動というのは孤独です。日ごろはチームとしてはまとまっていないですからね。壁があってもひとりで立ち向かわなければいけないことが多い。ただ、審判仲間、先輩・後輩からのアドバイスや励ましの一言で、立ち直るきっかけがつかめたというのも事実です。

 

 

自分は「井の中の蛙」……W杯で痛感した世界の大きさ

3つ目は1986年メキシコ・ワールドカップです。

 

メキシコでは担当した試合そのものも満足できませんでしたが、初めてのワールドカップ、初めて会う仲間、FIFAの役員、審判関係の組織、大会の雰囲気、すべてが初めて。大会中の毎日の生活が息苦しかったですね。それに言葉がうまく通じないということもあって大変苦労しました。親しい仲間もいないし私自身が社交的ではないものですからね。正に世界を知らない「井の中の蛙」でした。

 

近年では、同じ国の3人のグループで参加しますから主審、副審総勢で80人近くがワールドカップには選ばれています。ですがその当時は、主審・線審兼務の当時のレフェリーは36名だけ、1カ国1~2人でアジアからはわずかに3人でした。


日本からの多くのメディアの人や観戦の方たちと会えたこと、メキシコ在住の日本人会の方々が私の情報もつかんでいてくれて、招待いただき一緒に食事が出来ました。またメキシコの日本大使館にも呼んでいただきました。岡野俊一郎さん(故人)はじめ協会関係者、審判関係の先輩とも一緒に招かれ食事をご馳走になりました。気持ちの上でずいぶん助けられましたね。

 

大会期間中は審判員としては、神経をすり減らした精神的に厳しい大会でしたね。線審2、主審1のたった3試合でメキシコでの自分の任務は終わりました。

 

ただ幸運なことに、1986年は国際サッカー評議会が出来て100年にあたる年だったんですね。大会に参加したレフェリーは、試合の割り当てがなくなった人でも、希望があれば大会の最後まで残っていいということになったんです。ホテル代も全部FIFAが面倒を見るということで。

 

私はワールドカップなんてたぶん最初で最後だろうと思ったものですから、決勝までの残らせてもらったんです。ディエゴ・マラドーナの全盛でしたね。彼のプレーを堪能しました。決勝までの期間は残っているレフェリーたちと毎日トレーニングをしていました。割り当てがなくなってからは気持が楽になり、観光もスケジュールに入れて決勝の日までを楽しみましたが、帰国してからしばらくは虚脱感と審判員としての無力感でボーっとしていましたね。

 

2000年まではヨーロッパでも南米でも、審判員でプロという国はなかったですからね。ただ、南米では国際審判員になったり、プロ同士の試合の審判を務めたりすると収入も多くて、個人でプロ宣言をしていた人はいたと聞いています。

 

プロフェッショナルレフェリーを育てようという機運は1990年の終わりぐらいからじゃないですかね。FIFAもプロ制度推奨の通達を各国に出しました。プロのリーグがきちんと整って、経営的にもうまくいっている国では、プロのレフェリーを積極的に育てるようにと。2002年、日本も遅まきながらプロ審判員が誕生しています。それでもJリーグ担当のほとんどがいわゆるアマチュアでしたからね。

 

アマチュアですから、仕事を休んで審判に行くこともありました。私は自営業でしたから、比較的自由がきくという意味ではよかったと思いますが、小さな店で手不足が分かっていて後ろ髪を引かれながら出かけて行ったことは何度もあります。家族に負担をかけながら。

 

審判育成の仕組みの思い切った改革は、日本サッカー協会の財力もついてきたことから助成が出来たんですね。指導方法をどうしていくか、組織をどうしていくかという改革案が活発に出て来ました。

 

アジアの中で「日本の審判員」に対する高い評判が私たちの先輩の時代からあって、それを大事にしてきたことが、現在でもアジアの中で信用されているということだと思います。誠実であり、正直であり、公平であり、良く走る。良い審判員すなわち「日本」と。その信頼を続けていきたいですね。

 

 

外国人の「審判を試すプレー」が勉強になった

来日した外国人選手には日本の審判員の実力を確かめようという気持が強かったかもしれないですね。ヨーロッパの選手よりも南米から来た選手のほうが、審判員を試す「ずる賢さ」を持っていたように思います。それもずいぶん勉強になりました。

 

ブラジル出身で日本に帰化した与那城ジョージ選手に、私はいい印象を持っているんですよ。ジョージが読売クラブでプレーしていたときに、私が笛を吹いたことがあるんです。

 

試合が終わって洗面所でバッタリ顔を合わせて、お互いに顔を見てにやっと笑って、私から「どうだった、今日の試合は?」って聞いたら、「レフェリーのことですか?」「別に今日は何もないよ。ただ、高田さんは文句が言いやすいんだよね」って。

 

それは自分自身のレフェリングを考えるとても良いヒントになりました。こちらの試合中の態度や表情から受ける印象だろうと思ってね。

 

特に南米の選手は、レフェリーの顔を見てて、「あ、このレフェリーは見てるな」と思ったら、もう悪いことをやらなくなりますね。選手は自分がやったことを見られたかもしれないと思うと、こちらの顔を見てくるんです。

 

特に、チームの中心になっている選手やエース選手とうまく目が合うようになると、ゲームがうまく進んでいくものですね。ジョージのちょっとした一言でしたけど、今でも心に残っているのは、大いに参考になったからですね。

 

 

サッカー専門のメディアが増え、審判を取り巻く環境は変わった

FIFAの大会や大きな国際大会では日常の食べ物にほとんど不自由しないんですよ。滞在ホテルにはたくさんの種類の食べ物がありますからね。日本から持って行くものもあります。私は羊羹と日本茶のティーバッグを必ず持参しました。旅行用の湯沸かし器まで買いましたね。

 

いろいろな大会に行きましたが、食事の面では1990年イタリア・ワールドカップがすべてで大満足でした。大会そのものの雰囲気や審判仲間との関わり、生活環境もよかったですね。

 

イタリアではメキシコでワールドカップを経験して、続けて選ばれたレフェリーが多数いましたから、互いに気心が知れた仲間という意識で気持ちが楽になりました。言葉もある程度通じるようになりましたから。

 

メキシコ大会は国際審判員になって2年目で、選ばれたのは奇跡的でラッキーでした。いろいろな支援があったと思います。イタリア大会は「自分の力で勝ち得た指名」だと当時の審判委員長に言っていただきました。「自分の力で選ばれたんだから、それは自信を持って行ってきなさい」と。

 

36名の審判員が半分に分かれて、審判役員を含めて25名の審判グループでローマ班とミラノ班に。私は「ミラノ班」に入り、ミラノ市北部のコモ湖畔リゾート地にある由緒あるホテルが専用宿舎になりました。

 

イタリア料理は素晴らしかったですね。夕食のときは、5種類のパスタにリゾット、チーズとサラダも豊富に出るし、ワインとビールが進みます。最後にはデザートも、ジェラートの大きさにも驚きでしたね。昼食時のアルコールは水替わり。「本当にいいのかな?」と思って楽しみました。

 

イタリアでは決勝ラウンドまで残りましたけど、全7試合を担当しました。主審は1試合、あとは予備審判3と線審3でした。私にとって、素晴らしい大会になりました。選ばれた喜びに加え、憧れのペレとの写真、ローマ法王謁見の機会、イタリアならではの思い出です。

 

私の店の2階が「カルド」というイタリア料理店で、義理の弟がやっているんです。イタリア料理の宣伝は時々させていただきます(笑)。親戚が集まり、コースを頼んで食事会をやります。高校時代のサッカー仲間も良く来てくれますね。外国からのレフェリーを招待したこともありますよ。もともとは精肉屋さんだったので、お肉がおいしいですよ。いちど食べに来てくださいね。

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最近は、レフェリーアセッサーとしてJ3の若い審判員を見に行くことが多いんですよ。協会から送られてきたビデオを見てレフェリングの分析もしています。

 

我々のころから比べると全体的にはレフェリングの技術は上がってきたと思います。ただミスはミスで、なくなったわけではありません。周囲からの審判員サポート体制に救われている一面もあると思います。

 

Jリーグとして、あるいは日本サッカー協会として、日本のサッカーの質をよくしていこうという方向性を打ちだしています。

 

サッカー専門のメディアの方も増えたし、記者のみなさんがルールやレフェリングを理解して書いてくださったり、発言してくださったり。その影響は大きいと思いますね。試合が終わって、敗因をレフェリーの判定に結びつけるほうが悪いということをハッキリと伝えるメディアも。

 

試合の中での選手同士のもめ事とか、審判員へのあからさまな文句、いわゆる異議や暴言だとか、そういう見苦しさを慎もうというサッカー界の流れになっています。もし何か問題が起こった場合は厳しい罰則があるわけですしね。そういう意味で環境が整っていて、審判員も助けられているということを感じます。

 

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高田静夫氏の店「高田スポーツ店」には掘り出し物のシャツも。炎のマークのシャツは残念ながら売り切れ

 

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数多くの栄光の証も展示してある。ペレやローマ法王と一緒に写った写真も

 

 

 

高田静夫 プロフィール

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東京教育大学 (現・筑波大学)を卒業後、読売クラブでプレー。1972年度のシーズンで選手を引退し、レフェリーの道へ。
1984年に国際審判員となり、トヨタカップなどの国際試合やW杯に2大会連続出場(1986年、1990年)し、活躍した。1995年にレフェリーを引退。

1947年生まれ、東京都出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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