あのときオレは小野伸二を怒鳴るほど追い込まれていた……森岡隆三が戦い続けた末にたどり着いた場所

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は森岡隆三さんに登場をしていただきました。トルシエ監督率いる日本代表チームで主将を務め、清水エスパルスでもセンターバックとしてDFラインを見事に統率していた姿をご記憶のサッカーファンは多いと思います。今回は森岡さんに日本代表時代や、エスパルス、京都サンガ時代のエピソードを振り返っていただきました。 (静岡のグルメランチ

あのときオレは小野伸二を怒鳴るほど追い込まれていた……森岡隆三が戦い続けた末にたどり着いた場所

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現役時代の森岡隆三は研ぎ澄まされていた

いつも気を張っていたというべきか

本来の人の良さは隠せないのだが

それでもときには酷く素っ気なかった

 

ところが今はまるで様子が違う

すっと美しい言葉が溢れてくる

それだけ選手時代は緊張し続けていたということだし

それだけ自分の傷を隠してきていたということだろう

 

キャプテンとして出場した2002年ワールドカップは

初戦で負傷しその後ピッチに戻ることはなかった

それでもチームメイトたちを鼓舞し続け

個性の強いメンバーをまとめていた

 

そんな森岡だったが日本代表に入ったときは

馴染めず疎外感があったようだ

そんな森岡をチームに引き入れてくれたのは誰だったのか

今も森岡は忘れていないと言う。

 

フランス戦で5失点し「やり直さなきゃダメだ」

DFはボールを奪う。ゴールを守る。ゴールを守ることになったときは失点の確率を減らす。相手がどんなにいい状態でボールを持ったって、頑張らなければいけない。どうにかして、GKを含めて守る。耐え忍ぶというメンタリティが必要なんです。

 

それを耐え忍ぶのが楽しみというか。DFとしては攻めてもらうのって、こっちの見せ場だから。このFW何やってくるのかなって。調子いいときはそれが楽しいんです。

 

どのポジションでもそうですけど、やっぱり楽しめなかったらね、ディフェンスなんかやってらんないわけですよ。ディフェンスの楽しみどころをわかってないと面白くない、というか成長はないと思うんですよね。相手が「うまかった」とか「強かった」と思えないと。

 

その自分の許容範囲を超えてやられたのが2001年3月24日、アウェイのフランス戦(0-5)でしたね。相手の能力がこっちの想像を超え過ぎちゃう。ちょっとパニックですよ。5点差で負けて、「あと1年後にワールドカップあるぞ、大丈夫か」って、メンタルをボコボコにされましたね。

 

フランスから日本に帰ってきて、静岡の家に戻って、「はぁ」とため息をついてたときに手紙が届いたんです。サポーターからのファンレターかなって。

 

ところが、そんな甘いもんじゃなかった。最初の1行目が「だから言ったでしょ? あなたたちは井の中の蛙」って書いてあったんですよ。強烈です。

 

フランス戦は、まだJリーグが開幕して2試合だけで、試合勘もないようなときでした。フランスに行ったけど洪水で練習もできなかった。ヒデ(中田英寿)だけですよね、まともに走れたのが。「すげえなぁ、中田英寿」と思った記憶があります。

 

そういう状況で行ってボロボロにやられて帰ってきて、そのレター見たとき、何か、ふつふつと、一回プライドを捨てるじゃないけど、またやっぱりやり直さなきゃダメだと素直に思いました。悔しすぎて。

 

ただそのとき、「井の中の蛙、大海を知らず」と言ったって、知るわけないじゃないですかとも思ったんです。井戸の中にいたら、そりゃ外に何かあるかも知らないよって。井戸から見える空に思いを馳せていたので、それはそれでいいんじゃないかなと。大海を知らないでも、そこに行ってやろうと思う気があるかどうかで。どう進めるかだと思いましたね。それで一カ月後の4月25日のスペイン戦(0-1)には、やっぱり少し持ち直せました。

 

サッカーファンからの手紙に「これは大変だ」

自分の中では2002年日韓ワールドカップも苦しかった時期でした。ワールドカップのケガも今思うと、自分が招いたんじゃないかなって。

 

このときはワールドカップが終わったときにツネ(宮本恒靖)のファンから手紙が届いたんですよ。最後の締めくくりが「正義が勝つ」みたいな言葉で。

 

2000年シドニーオリンピックのときに、CBが僕になったということからボロクソ書かれてて。すごかったですよ、ばーっと書き殴ってあって。2002年はシーズン前にケガして、そのときに金髪にしたことも、「余裕こきやがって」とか。

 

それ読んで「あらあらあら」って。泣きっ面にハチどころじゃなかったんですよ。夢の舞台の初戦でケガしてそこから出られなかったんで。そこにそんなレターが来たんで、「これは大変だ」と思ったんです。

 

でも、そのとき思ったのも、プロって人に応援されてナンボの商売だと思うんで、万人が応援してくれるかどうかは別にして、同じサッカー界にいる人間が好きな人にこれだけ僕がボロクソ言われるってことは、そう思われてもしょうがないのかなって。身に覚えはありましたから。調子こいてたつもりはなくても、あったんでしょうね。身体のケアから何から。

 

2000年から忙しかったんですよ。9月にオリンピックがあって、10月にはレバノンでアジアカップがあって。2001年は1月1日に天皇杯で準優勝して、5月から6月にかけてコンフェデレーションズカップがあって、9月にフランス戦、10月にスペイン戦もあった。1999年に初めて日本代表に入ったけれど、第五中足骨を骨折してチャンピオンシップに出られなかったところから、いろいろ続きましたね。

 

そのころは心のケアを重視してリフレッシュしてました。結婚もしたし、メンタル的な部分を大事にしてたんだけど、今思えばもっと身体のケアとかできたと思います。食生活は結婚して充実してたとはいえ、もっと何かできたんじゃないかという思いがやっぱりあるんですよね。

 

2002年1月1日の天皇杯決勝で優勝して、その後、肉離れして何とかワールドカップには間に合ったんですけど、まだまだ甘かったんだなぁって。最近はやっぱりみんな立派じゃないですか。たとえば長谷部誠とか。絵に描いたようなスポーツマンで、もう非の打ち所のないような好青年だし。鈴木啓太もそう。いまだにやってる中澤佑二とか川口能活も素晴らしいと思いますね。テル(伊東輝悦)くんもまだ現役でやってるし。

 

そういう人たちと比べちゃったら、もっとできたんじゃないかなって、なおさら思うし。でもじゃあサッカーを好きという度合いでは、やっぱり負けたくないというか。だったら同じぐらいもっと打ち込めたなとか。現役を終えたことに後悔はないんですけど、そういう残念な気持ちはあったんですよ。ずっとね。

 

 

W杯初戦で原因不明のケガ……追い込まれていく精神状態 

2002年日韓ワールドカップの初戦、ベルギー戦でケガした後って、そんなかっこよくないですよ。オレね……あの、ホント、痛みをわかってもらえないケガだったから苦しかったんですよ。何の腫れもないし外傷ゼロ。ポイントの跡みたいな、ちょっとしたアザがあるくらい。自分でも全然平気だと思ったんで。

 

それで試合から一日おいて、最初は自転車を漕ぐだけにして、その次の日、普通にジョギングして練習してたら、10分も経たないうちにまた膝から下が痺れてきた。地面は水枕を踏んでいるような感覚になって、足首の曲げ伸ばしもわからないくらいで。冷や汗も出てパニックですよ。

 

そのとき、ヒデが「隆三、無理なら止めとけよ」って。ヒデはベルギー戦でガッツリ捻挫してたのに。結局オレできなくて、次の日もできない。できないというか、足が重くて痛くて、これでやる自信ねぇぞって。

 

でもそうしたらフィリップ・トルシエ監督にマジ切れされて。「なんでできないんだ! 中田はあんな捻挫してるのにやってるぞ!」「お前何にもなってないじゃねぇか!」ってね。

 

こっちも「オレだってわからないよ」って思ってるんですけど、確かにトルシエからすれば、「ケガで半年間代表に呼んでなかった選手をキャプテンに据えてやったのに、お前なんなんだ」って感じだったと思うんですけど。

 

それで毎日たくさん注射を打って病院もいくつか行って。注射もいろんな種類打って、酸素カプセルに入ったりとか。毎日寝られないし、悔しいし。オレ何やってんだって。

 

そんな中で山本昌邦コーチが来て、「隆三、しんどいのはわかるけど、練習では痛いとか、そういうの出さないで頑張れ」って。そうは言ってもね。動かないんですよ、左足がうまく。でももうやるしかないから。休むのもおかしいし。ケガっていう認識をされていないわけだから。もうしょうがない。やるしかない。

 

大学生との練習試合でも、まともに走れなくて、かなりやられたんです。それでまたトルシエにガチギレされて。そこでもうね、おかしくなっちゃんですよね。精神状態が。

 

そんなときにレクリエーションみたいな練習で、2チームに分かれてシュート打つみたいなのがあって。オレは小野伸二と同じチームで、決めて当たり前みたいなシュートなんだけど、全部外してたんです。それで伸二が「決めろよ」みたいなチャチャ入れてきた。

 

そのときスイッチが変なところに入っちゃって。一度怒鳴っちゃったんですよね。「うるせえな!」って。一応キャプテンマークも巻いてたのに。タイプじゃないくせに。そのときに「やべぇ、レクリエーションなのに言っちゃった」みたいな。

 

伸二は「え? オレが今言われた?」みたいな感じだったから、「ちょっとゴメン、悪い、悪い」ってなって。穴があったら入りたいという感じですよ。周りも、一瞬だったかもしれないけど、どうしていいかわかんない感じだったし。

 

で、練習後に「悪かった」ってもう一回謝って、一応そこは収まったかなって感じにはなったんですけど。あの瞬間「オレはもうここにいられない」と思いましたね。それぐらい追い込まれた。

 

そこからどうやって復活したか……って、復活できなかったんですけど。身体はもちろんダメだったし、頭もなかなか復活できなくて。そのときにオレが一番救われたのは、やっぱりベテラン勢の姿だったですね。

 

秋田豊さん、ゴン(中山雅史)さん、モリシ(森島寛晃)。その3人もレギュラーじゃないし、スターティングメンバーじゃないけど、練習でメチャ声出すし、ものすごくみんなを盛り上げるし。あの人たちの姿を見てたら、やっぱり自分のやれることやらなきゃいけないと思って、そこから昌邦さんに言われた「痛い顔するな」っていうのもオッケー。頑張ろうって。

 

そうしたらグループリーグ第3戦のチュニジア戦でモリシが点取ったんですよ。もううれしすぎて。そのとき、真っ先に飛び出していったかな。あの瞬間は「すげぇなぁ、このオッサンは」と思いながら。あれで救われた感じがしましたね。

 

結局ワールドカップが終わって何日間か休みがあって、エスパルスに戻って、練習再開してみたけど違和感がずっとあって。それでも痺れは収まってきたんです。そうすると今度は踏むと左足の人差し指と中指の間がビリッとくる。肘をぶつけて痺れる感じ。踏み込むとあんな感じがいつもするんです。

 

それでも3試合ぐらいプレーしたんですけど、磐田戦で足にビッと痛みが来て倒れてしまって。相手選手のタカ(高原直泰)に「大丈夫?」って同情されたくらいでした。そこから1カ月ぐらいサッカーどころか走ることまで止めてたんですけど、それでもまだステップを踏むと着地した瞬間にピリピリして、ダメだって。それで手術です。

 

結局は足の神経に異常があって、その前兆でヒザまで痺れがあった感じだったんです。痺れが収まったら痛みは足の指の間に集約されてきて。なぜ発症したか原因はわからないんですけど。

 

期待されてワールドカップのメンバーに選んでもらったけど、ケガした。でも誰のせいでもない。気持ちの持って行き場は難しいですよ。

 

僕の代わりに入ったツネの、第2戦のロシア戦のパフォーマンスはすごかったですよね。後のない状況に入って一気に開花したというか。思いましたもん。「置いていかれたな」って。「あぁいいなぁ」って。ワールドカップでの日本初勝利は経験できなかったし、結局自分はワールドカップで一勝もできなかったわけで。一気に差を付けられたなって感じてました。

 

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もっとも辛かったのは京都で迎えた現役最後の年

現役最後の年、2008年はそれ以上に辛かったですね。そのぶん自分に誇りも持ってるんですけど。

 

2007年にJ2のサンガに移ったんです。2006年、エスパルスから0円提示を受けて、移籍リストに載せてもらいました。不安なもんですね、あれは。移籍金はないのにオファーがなくて。

 

そのころ、うちの嫁さんがたまたま京都に旅行して、本当は恋愛成就を願う鈴虫寺に行って、お札を持って帰ってきたんです。「毎日祈ってるとお地蔵さんが幸せを運んでくるらしいよ」って。そうして祈り始めたら、すぐにサンガからオファーが来たんですよ。それで「これは縁だなぁ」って。

 

正直サラリーはサンガの中では多い方じゃなかったと思うんですよ。一緒に移籍した選手の中じゃ一番低いんじゃないかって。それでも自分の中じゃ、「金じゃない」と思ってたから。

 

税金って前年の収入で決まってくるじゃないですか。2007年は税金の方が多かったですよ。エスパルスがそれだけ僕に払ってくださっていたということですよね。でもサンガの新しく生まれ変わりたいという心意気に共感したし。いろんな縁があったんで。

 

移籍してJ1昇格には絡むことはできました。けれど、次のプレシーズンが始まったらほとんど出場のチャンスがないんですよ。「なんだよ、去年せっかく頑張って昇格させたのに、若返りでチャンスがないのかな」って。

 

だけどその実、練習に付いていくのがやっとで。休み明けに凄まじい筋トレと走りが結構あって、去年までの主力も出られなくなったりして、お互いに慰め合うみたいな、悶々としたシーズンを過ごしてました。

 

そうしたら夏前に一回倒れたんですよ(笑)。練習中に疲れたと思って、気がついたら寝てて、口元には塩があって。意識を失って、水で冷やされて氷を当てられて。脱水症状と軽い熱中症だったんです。

 

まぁそれぐらいしんどかったです。日々の練習も、メンタル的にも。だけど、自分ではものすごい節制して、多分その年ほどサッカーに打ち込んだ年はない。睡眠、食、休息、身体のケア、サッカーに対する追求をやっていました。

 

ところが全然出番がない中で倒れちゃって。そのとき思ったんです。「あぁ、オレ、あと何回夏をプロとして過ごせるのかな」って。夏の練習大嫌いだったんですけど「あと何回プロ選手として夏に練習できるんだろう」って。

 

そうしたら、「よしやってやろう。もうちょい頑張ろう」と思ったんです。そうこうしていると8月の終わりに会社から、来年は選手としては契約しないと言われました。「あらー、2シーズン目でもう次ないか」って。ただ、しょうがない。今年出てないから。

 

「もうあと何日、このグランドで練習するんだろう」と思ったら、より頑張ったつもりですね。とことんやったろうと。自分の中でも「やれることを今、一生懸命やれてる」と思えましたね。それに、あんなに緊張したり集中したシーズンはなかったですよ。試合に出る前は怖かったですもんね。ちゃんとやれるのかって。それでなおさら準備して。

 

そのうち、不思議とクロージングというか、試合の最後のほうで「残り締めてきて」みたいな使われ方をされるようになりました。そうこうするうちに、最終節の1節前のアルディージャ戦で、引き分ければ残留っていう状況になったんです。

 

 

エスパルスと最後の試合ができて本当によかった

アルディージャ戦の前に、生まれて初めて代理人を雇ったんです。大宮の泊まっているホテルに代理人に来てもらって「まだ現役選手をやりたいから、チームを探してくれ。どこでもいい。カテゴリーも関係ない」ってお願いしました。

 

次の日の試合はナイトゲームでしたね。12分に先制されたけど58分に追いついた。それで87分、同点ゴールを取った林丈統に交代してボランチで出たんです。そのままだったら残留が決まる。自分はやれる限り集中して精一杯やって。

 

やっとタイムアップの笛が鳴って、その瞬間に自分の中で何かがストンと落ちたんですよ。力が抜けたというか、何かが落ちた。あぁ、もう引退していいなって。ひと仕事終えたなって。

 

みんなで喜んだあと、ホテルに帰って嫁さんに「これ、もうたぶん辞めるわ」って話をしました。代理人にも申し訳ないと断りも入れて。

 

残留させたということと、もうひとつ考えていたのは、オレのくだらないこだわりかもしれないですけど。J1でレギュラーになるということの意味で。これは誰かとご飯食べてるときに言われたんですよ。「今、隆三君は代表に入ってやれる自信ある?」って。

 

自分としては、自分が今持ってるポテンシャルの中では精一杯やってると思ってて、その年の自分を自分は一番尊敬するなって思ってたんですけどね。

 

でもそう聞かれて、正直「ない」と思いましたね。それで気づいたんです。そうだよな。J1でレギュラーになるってことは、いつ代表に呼ばれても堂々とプレーできなきゃダメだなって。それなのに、自分が思うプレーはもうできてない。だから引退しようかなって。それでよく考えたら、最終節がエスパルスでした。

 

現役時代を振り返ると、責任感というか、より大きな世界を見せてもらったのは代表のトルシエ監督でした。うれしくて泣いたのは2007年の昇格だけでしたね。その他は泣いたことなんてなくて、うれし泣きは初めてでした。

 

でも楽しかったシーズンで言えば、やっぱりエスパルスのときなんですよ。オズワルド・アルディレス監督の1年目、2年目だった1996年、1997年ですね。タイトルは1996年のヤマザキナビスコカップだけだったけど、自分がぐんぐんうまくなってるなってわかりました。サッカーってこんな面白いんだなって。そのエスパルスと最後の試合ができて本当によかったと思います。

 

イキがってないとやってけなくて…

ロングキックは得意だったし、右足で左サイドにロングボールを出すとき、少しだけ右にカーブするボールにできるのは、やっぱり蹴り込んでいたからだと思いますよ。ボールを蹴った数だけは人に負けないと思います。子どものころから。

 

自慢ですけど、小学生のときに遠くから巻いて看板に当てるとか、壁に当てて落とさないで止めてまた的に向かって蹴るなんてできてましたね。そういうのでボールタッチとか磨かれたんだと思いますよ。そこだけは自信がありますけどね。

 

でも自分の能力は高いほうじゃなかったですね。虚弱体質だし、今でもぜんそくだし。高校時代も倒れたりしてました。

 

そんな感じだったから、ユースで代表に入ったときって、虚勢というか、イキがってないとやってけなくて。必死に自分を作ってました。気取ってたんでしょうね。

 

勝手なもんで、昔のことなんて憶えてなかったんですけど、安永聡太郎が「隆三、ユースのとき最初ひどかったよな」って言ってきたんです。「なんだよ?」って聞いたら、最初にユースでバスに乗るとき、みんなを見渡して大声で「このメンバーじゃ世界行けないよな」って言ってたって。「わりい、ぜんぜん憶えてない」って返事したけど、冷や汗ですよ。

 

プロサッカー選手としては、主張をしないと損をするというか、いい仕事をするためには自分の意見を言って他人の意見とすり合わせるのが大切だと思うんです。

 

でも常に「自分の出来は悪かった」「全然ダメでした」とか言っていたときは、自分の中では無闇に肩肘を張って虚勢を張っていた時期だったのかなって。

 

そういう態度がピッチに出ていたかどうかは抜きにして、ピッチ外のところで言うと、やっぱり調子こいてたのかなって今は思います。言い換えれば、もっとやれたんじゃないかと思いますね。

 

日本代表に行ったときも、小さいころからずっと代表にいるような選手には引け目を感じてましたよ。だから最初に代表に行ったときは苦しくて。あまり気持ちよくはなかったですね。

 

みんなそんな思いをするのかもしれないけど、僕は最初、あんまり相手にされてなかったと思うんです。そのころに忘れられない思い出があるんですよ。

 

2000年6月にモロッコのカサブランカで開催されたハッサン2世杯のときの話なんですけど、その大会ではバスに乗って1時間から2時間かけて移動したんです。バスに乗ったとき、どこに座ればいいのかと迷ってたら、奥大介が「隆三、ここすわりぃや」って言ってくれたんです。そのあとマツ(松田直樹)とかも話しかけてくれました。もう2人とも亡くなっちゃいましたけどね……。

 

鳥取に来たらぜひカニを食べてほしい 

今は、単身赴任で自炊生活です。料理の本買ったり、ネットでクックパッド見たりして勉強してます。面倒くさいときは冷蔵庫の中身でパッと料理ですよ。和食を作ろうと思ったら、だいたい醤油とみりんと酒があれば和食っぽくなるし。洋食っぽくしたかったら、ほんのちょっと、コンソメにしたりとか。そうやると何とかなるし。

 

楽に済ませたいときは野菜炒めとか作ってます。最近はピーマンの肉詰めとかも作ってます。味噌炒めとかもできるし、キノコご飯も作るし。今日は弁当はささみの梅じそですよ。余ったおかずを持ってくるだけの弁当ですけどね。あんまりゴミ出したくないときは何日か分をまとめて作ったりして。結構マメなことやってます。部屋汚くなるのはイヤだし。掃除は週一回ぐらいしかできないですけど。

 

ささみって言えば、現役の最後の数年間は、試合前日に家で食べるときは嫁さんに作ってもらう料理を「ささみ3本」って決めてました。チーズと梅にもうひと味。ルーティンです。ささみは身体にいいっていう僕の信仰と実際好きなものあって。マヨネーズをかけただけのささみも好きでしたし。

 

それから、うちのスタッフと一緒に毎週1回、昼に会食をするのと、夜、月1回か2カ月に1回ぐらい食事をします。長谷川健太さんがスタッフとの食事会をやってるとおっしゃってたんで、マネしようかなって。

 

食と言えば、この地に来て初めてカニが好きになりました。びっくりしましたよ。本当においしくて。社長と岡野雅行代表取締役GM、強化部の吉野智行部長と僕で、境港の、ガイナーレをサポートしてくださってる会社の中でテーブルを囲んでベニズワイガニとマツバガニを食べさせてもらったんです。

 

焼きガニも食べましたし、刺身も茹でても、ありとあらゆる食べ方をしたんですけど、どれもすごかった。しゃぶしゃぶしたとき、お湯に入れると身がすっとほどけて花が咲いたようになって、「なんじゃこりゃ!」って。正直、それまでカニがおいしいという概念がなかったんですよ。何がおいしいんだろうって。

 

でも、そこで食べたたら「この世にこんなうまいものがあるのか!」って目が覚めました。それくらいおいしいんです。どうやって食べてもおいしいんですよ。食でこんなにすごいと思ったのって、あとはなんだろう、フランス遠征のときのフレンチトーストかな(笑)。でも、本当にそれくらいおいしいんですよ。これがこの地域の力かと、衝撃でした。こちらに来たらぜひ食べてみてくださいね。

 

 

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森岡隆三 プロフィール

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桐蔭学園高校を卒業後、1994年に鹿島アントラーズへ入団。1995年、清水エスパルスへ移籍すると頭角を現し、1999年には日本代表入り。2002年日韓W杯は主将として臨んだ。

引退後は指導者として活動し、現在はガイナーレ鳥取の監督を務める。

1975年生まれ、神奈川県出身。

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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