家族の前でのブーイングにしばらく立ち上がれなかった……上川徹が世界で評価される審判になるまでの道のり

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は上川徹さんに登場していただきました。主審として2002年、2006年のW杯に連続出場するなど、日本を代表するレフェリーとして活躍された方です。2003年に横浜アリーナで行われたJリーグアウォーズでの忘れられない出来事がその後の審判員としての活動に大きな影響を与えていたことなど、現役時代には秘められていたエピソードを数多く話していただきました。 (新横浜のグルメランチ

家族の前でのブーイングにしばらく立ち上がれなかった……上川徹が世界で評価される審判になるまでの道のり

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誇らしい晴れの舞台がやって来た。

家族もみんなワクワクしている。

だが表彰されるために名前を呼ばれた瞬間、すべてが悪夢となった。

 

そんな経験をした人物がいる。

上川徹レフェリー(当時)だ。

ブーイングが浴びせられ、上川は一瞬立ち上がれなくなった。

 

今でもあのときを振り返ると

上川の声は気付かないうちに震えている。

だが、そこに立ち向かったからこそ、その後の人生があると胸を張って教えてくれた。

 

 

家族の前でブーイング……立ち上がる勇気がなかった

審判生活で一番辛かったのは……まぁ……辛いと言えば、フィールドの上では感じたことがなかったんですが……。やっぱり僕も家族の支えがあってこそ審判生活ができたと思っていますし、Jリーグアウォーズで最優秀主審に選ばれたいなぁってずっと思っていました。

 

2002年日韓ワールドカップで1試合主審を務めたんですけど、その年は選ばれなかったんです。それで初めて2003年のJリーグアウォーズで選ばれたんですよ。ところが、名前が呼ばれた瞬間に会場がざわつくというか、ブーイングみたいな……。あのときはちょっと落ち込みましたね。立ち上がる勇気がなかった。

 

選ばれるだろうと思っていましたが、妻にだけ話して、小学3年生の息子と1年生の娘には何も言わないで会場に呼んでいたんですよ。それで「お父さん、名前呼ばれるといいね」なんて子供たちもドキドキしていましてね。

 

子供はそれまでも父親の仕事は大変で、なかなか評価されないとわかっていたとは思います。長男はサッカーをやっていたので、そうすると親父の名前は出てきたようでしたから。だけどね、表彰の席じゃないですか。自分も悔しかったですけどね、長男は落ち込んでいました。

 

表彰式の後、みんなで残って写真を撮ったりするんですけど、僕に笑顔はないし……妻は何も言わなかったですね。それでうちに帰ったとき、娘から「お父さん見返して」って言われて。見返すと言うつもりはなかったですが、子供がそうやって言ってくれたことで、ちょっと安心しましたけどね。

 

あの時は立ち上がれなかったですけど、娘から励まされ、しばらくしてから振り返ると、ブーイングを言われるかもしれないと思える部分もありました。そして受け入れられたんです。それは2002年のワールドカップで自分に足りない部分を感じていましたから。

 

2002年W杯で味わった悔しさ

2002年日韓ワールドカップではグループリーグのアイルランド対カメルーンで笛を吹いたのですが、その後は出番がありませんでした。あのときも悔しかったんですよ。いろいろな判定の問題が出ていたのに使ってもらえませんでした。

 

だけど、そこで周りを見るとわかってきたんです。ワールドカップでは世界中から優秀なレフェリーが集まってきます。決勝で笛を吹いたピエルルイジ・コッリーナもいたんです。一緒にトレーニングしたり研修会に出たり、その人たちの考え方だとかトレーニングに対する取り組み方だとか表情を見たときに、自分に持ってないものをみんな持ってるなって思いました。

 

それは厳しい環境の中でレフェリーをやっているからこそできるし出てくる、オーラみたいなものだったんです。僕はレフェリー活動をスタートしたのが1991年、1995年シーズンから1級審判員、国際主審になったのが1998年。そこから運良くたった4年でワールドカップに参加できたんですから、そんなのホントにあり得ないスピードで来てました。

 

それで自分のレフェリングを振り返ったときに、自分では正直に厳しさを持ってやってたつもりだったのですが、ちょっと甘さが出てくることもあったんです。そこを一流のレフェリーはちゃんと厳しいほうでジャッジしている。誰から何を言われようが「そんなの関係ない」と。そんな人たちが集まってきている中で、まだまだ自分は幼いと思って、やっぱりそこは足りないと思いました。

 

それがわかったので、2006年ドイツ・ワールドカップにもう一度出るというのが大きな目標になりました。だから2002年と2003年を比較するとレフェリーとしての判定やマネジメントの考え方は、厳しい方向に変わりました。イエローかレッドか、ペナルティエリア内でのチャレンジでPKかノーファウルか迷う判断など、試合後に映像を確認するとほとんどがレッドであり、またPKであり、メンタル的な部分を含め厳しいと思われる決定を躊躇せず下せるようになりたいと思いました。

 

だからカードも増えましたし、チームにとっては厳しいと思われたでしょう。自分では厳しい判断が求められても躊躇せず吹こうと思っていたので、チームからそう思われても仕方がないかなって。2006年にワールドカップレフェリーとして選ばれますが、その間は同じような考え方で笛を吹いていました。

 

2003年から2005年まで、僕の判定基準にはそれ以前よりも一貫性が出てきたと思います。「もう上川だったらしょうがないな」って、どの選手もクラブもそう思ってくれたと思います。「上川厳しい」ってすべてのクラブが僕に対して思ってくれるのは平等ということですし。ちょっとずつ僕に対する見方が4年で変わったのを感じました。

 

 

審判にも選手との駆け引きがある

僕はフジタ工業で選手をやっていて、Jリーグができるからと始まったJリーグ審判員養成コースの第1期生です。選手の中には「レフェリーは選手の気持ちがわかってない」という人もいるのですが、僕は両方経験しました。

 

ただ、僕は選手として現役の時からレフェリーに反発したことなんてほとんどなかったんです。なぜなかったのだろうと振り返ると、指導者からそういう指導を受けていたからだと思います。

 

東海大学時代の監督は、レフェリーに文句なんて言ったら試合後に厳しいトレーニングが待っている。だから何も言えない。小学校から高校も同様な考えをもった指導者でした。そして鹿児島で僕たちを指導して下さった方の一人が一級審判員でした。そのころ全国に一級審判員が少ない時代で、もちろん鹿児島にも一人しかいませんでしたが、大きな影響を受けました。幸運でした。

 

そこでレフェリーに委ねる、レフェリーが決めることだと指導されてきたのがよかったと思います。ただ告白すると、一回だけ異議で警告をもらったことがあります。高校の時にユース代表に選ばれて、高校に戻ってきて大会に出たとき、なかなか笛を吹いてもらえなかったんです。それでイラッときて判定に対して不満の態度を取ってイエローカードをもらいました。落ち着いて振り返ると、結局自分のプレーが上手くいかずイライラして異議を唱えてしまったのかもしれません。

 

審判になってからは、選手経験があったから余計に見える部分があったと思います。それがすごく面白くなってくるんですね。いろんな駆け引きが見えますから。今、この選手はどこにプレッシャーをかけようとしている、ときにはその対象が自分に向いているとか。見えすぎるときもあるんでしょうけど(笑)。そして余裕がでてくると、選手との駆け引きをするようになりますから。

 

審判も選手との駆け引きがあるんですよ。プレーが一段落したときに「わかってるよ」と目を合わせたり、ときには「さっきは見てたよ」って言うこともあります。悪いことをした選手は「ドキッ」とするでしょうし、取ってもらえなかったと思っている選手は「でも見てはいたんだ」と安心してくれるでしょう。

 

そして反則が見えなかったときは、「わからない」と正直に言います。自分からの角度によっては、何かあったとはわかるのですが、見えないことがあるんです。そんなときは「ごめんね、見えてなかった。次は見られるようにするから」って。もちろん、見えていたけど、プレーの流れを止めないようにあえてその場で反則を取っていないこともあるんですよ。そこではプレーを流しておいて、あとで厳しく注意したり。

 

選手もレフェリーを試すように、レフェリーも選手を見ているんですよ。どのくらい話を聞いてくれるのかとか。もちろん競技規則に則った上での話ですけど。

 

レフェリーの楽しみは、たくさんあります。試合の中での選手とのやり取りもありますし、試合後に選手から感謝されることもあります。すごく読みが上手く働くときは、自分と試合のフィーリングがマッチしているなと感じますね。すごくいいポジションを取れていたり、アドバンテージの適用が正しくできたり。試合中はすごく文句を言っていた選手が、試合後にちゃんと自分の結果を受け入れて、握手のために手を伸ばしてくれるのもうれしいものです。

もっと言うと、準備もうれしいんですよ。選手と同じで、試合の前の日に自分の靴を磨いて靴墨の臭いを嗅ぎながら、「明日はどんな展開になるのだろう」とか想像するのも楽しみです。トレーニングも試合の展開を想像しながらですし、もちろん食事にも気を遣います。

 

試合の前日は炭水化物を多めに取っていました。選手と同じですね。でも僕は消化が遅くて、試合の4時間前までしか食べないことにしていました。4時間を切ったら何も入れない。どちらかとういと、空腹感があるほうがよかったですね。だから4時間を切ったら水しか飲みませんでした。あとはハーフタイムにお腹がよっぽど減っていたらゼリーを食べることもありました。

 

現役時代は週初めに焼肉を食べていました。部位へのこだわりなんてなかったですけど、カルビが今でも好きです。脂っこいほうがいい。自宅でも焼き肉屋さんでもカルビですよ。

 

アルコールは現役時代も飲んでいましたけど、嗜む程度かな。試合の前日は飲みませんでしたし、飲んでも週に2、3回。仲間と外で飲んでも、ビールをジョッキ1、2杯に焼酎を2、3杯くらいしか飲みませんでした。今は、飲む量も回数も増えたし、体重も5、6キロ増えました。岡田正義さんほど増えてないですけど(笑)。みんなと比べると僕はそんなに飲めるほうじゃないんですよ。

 

それから僕は甘いものが好きでした。やっぱり糖分は必要で、僕は粒あんの大福が大好きです。今でもおやつとして食べますね。それから海外にいくときは日本のお菓子を持って行きました。細長いスティックでゴマが付いているビスケット。あれをいつも3つ、4つ持っていくんですよ。あれが海外遠征の必需品ですね。今でも妻が買っておいてくれますし、あるとうれしくなります。

 

試合が終わった後に振り返り、反省することもたくさんあるんですけど、新しい発見や気付きもありそれもそれで、楽しいんですよ。試合前の準備から試合後の振り返りまでひとつのサイクルができていたように思います。

批判は気にならない……しかしいい判定には称賛を

レフェリーはいつも観客から文句を言われますよね。2006年ドイツ・ワールドカップのとき、グループリーグ第2戦のポーランド対エクアドルで笛を吹いたときも、いろんな声が飛んでいたようでした。けれど、自分はまるで気にならなかったですね。

 

あの試合、ポーランドはドイツの隣国であり、多くの観客が詰めかけ、まるでポーランドのホームゲームのようでした。ですが、プレッシャーを感じるようなことはなく、どちらかというと、自分としては好きな環境です。「ホームの雰囲気に流されないぞ」って張り切るタイプなんですよ。なにを言われても平等・公平を貫こうって。

 

ピッチの外からは、ものすごく選手に文句を言われているように思われたかもしれないけど、ピッチの中はそんなことは感じなかった。それに試合はどちらかというと、エクアドルの選手に悪さをさせないように気を付けていました。ポーランドはリードされてイライラしてはいるけど、そのイライラをエクアドルが利用しないように注意しながらマネジメントしていましたね。

 

なぜ文句を言われても大丈夫かというと、自分の判定に自信をもっています。なにを言われても、笛を吹いたものは間違ってない。そして自分が下した判定に、選手が不満を示す、また選手が僕にプレッシャーをかけようという心理もわかりますから、気にはならないです。すべて予測の範囲内なので。

 

試合によってはひとつの判定で観客8万人対僕1人の構図になることもあると思います。そんな時もプレッシャーを感じることはなく、逆に張り切れますよ。負けず嫌いな面はあるかもしれないけど、そういう感覚をレフェリーはみんな持っているんじゃないですか。岡田正義さんも西村雄一さんもそうでしょうし、佐藤隆治さんなんて、難しい試合を担当することも多くなりまさに今そういう感覚が出てきているのではないかと思いますね。そうじゃないと厳しいゲームはできません。

 

今、Jリーグの判定の精度を調べているのですが、たとえば副審がオフサイドとして旗を揚げたときに正しかった率は96パーセントを超えています。でも、レフェリーというのは観客から間違った残りの4パーセントの判定を憶えられる。

 

シュートミスした選手が次にゴールを決めるとその得点を憶えてもらってヒーローになりますけど、レフェリーはミスして次に正しい判定をしても、その正しい判定を憶えてはもらえません。チームもサポーターも忘れませんからね。「あの時のレフェリーは上川で、相手にPKを与えたよな」って。その判定が正しいかどうかは別で、相手に有利だったって両チームから言われるんですよ。

 

でも、それも僕は気にしなかったですね。ただ、評価はされたいと思います。「この判定はどうなんだ」ってやり玉に挙がりますけど、それが正しかったとき、忘却じゃなくて称賛はほしいですね。何かいい判定があったときは「すごい」と思ってもらえたら、それが一番です。

 

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3位決定戦まで登りつめた2006年W杯

ワールドカップでは全審判員に1試合は割り当てがあり、その割り当てられた試合のパフォーマンスを評価され、その後の割り当てに繋げられます。そして試合が少なくなるにつれて、審判員の数が絞り込まれます。2002年のワールドカップでは、決勝トーナメントの一回戦が終わった時点で大会を離れる審判員となりました。名前を呼ばれたときは悔しかったですね。すごく。

 

2006年では、グループリーグでポーランド対エクアドル、イングランド対トリニダード・トバゴと続けて割り当てられました。ところが、そこから3週間、声がかからない。2試合を担当できたことはうれしく、それなりに手応えはつかんでいたんですが・・・。

 

ただ、2006年、開幕か決勝の主審をやりたいという野望はありました。難しい試合ではあるけど、そのレベルの試合を十分に任せてもらえるだけのことはやってきたと思っていました。開幕戦はできなかったけど、まだ他に割り当てられていない審判員がいるなかで、立て続けに指名され「よし、この大会は忙しくなるぞ」と期待をもったんですが。。

 

一度、ベスト16の前のトレーニングでホテルを出る前に、「今日はゲームのためのトレーニングをする」と言われたときもありました。だから、明日か明後日に出番があると思って、副審として選ばれていた廣嶋禎数さんと「来たね!」「どっちのゲームかな?」って喜んでトレーニングに向かったけど、実際は違うトレーニングプログラムが課され、試合への割り当てはなかった。そうすると、何か疑心暗鬼になる部分も出ますね。

 

まだどこかでチャンスがあると思ってしっかりと準備はしていたのですが、準決勝で第4の審判員に指名され、これから先の試合は3位決定戦や決勝しかなく、いずれにしても続けて関わることはできず、笛を吹くことはないだろうと思いました。

 

それまで廣嶋さんと2人で声を掛け合いながら集中力を切らさないように頑張ってきたんですが、準決勝の第4の審判員に名前が呼ばれた瞬間に、「これで終わりましたね」「準決勝終わって、最後の2試合の割り当ての発表があったら、このまま残っているのも辛いから帰りましょう」なんて話をしてたんですよ。

 

そうしたら3位決定戦のドイツ対ポルトガルで名前を呼ばれました。正直、すぐには喜べなかったんです。決勝じゃないからではなくて、「なんでこのタイミングなの?」って。

 

審判と副審2人の組み合わせは固定されていて、セットになっています。実はその審判のセットのうち、大切な試合のために取っておくセットもあります。特にアジアのレフェリーは、ヨーロッパ対南米の試合では、中立ということで選ばれることもあるんです。ところが僕たちの審判トリオを、このときのために大事に残しているって感じでもなかったんですよ。

 

もし大切に考えているんだったら、ベスト16とか、グループリーグの3節とか、負けたら終わりというゲームもやらせるだろうと思っていたし、自分も上手くなるためにはそこを経験したいと思っていたので。だから素直には喜べなかった。

 

もっとも3位決定戦は難しいカードでした。そしてその晩から寝られなくなりました。準決勝が終わるまではしっかりトレーニングして睡眠もしっかり取れていたんですけど、準決勝が終わった時点でもう終わりだと思い、緊張の糸が切れてしまったんですね。そうするとその瞬間から寝られないし、ドッと疲れも来るし、抱えていた膝痛が出てくるし。試合までの2日間、なかなか集中できない状態が続きました。

 

日本の家族に割り当てがあったことを伝えたら、家内と鹿児島の母親と兄が応援に来てくれることになり、ありがたく気持ちを切り替えようとしました。でも試合当日もなかなかスイッチが入らない。ホスト国の試合で難しくなることは予測できてはいたけど、気持ちが向かわない。ゲームプランが立ってこなくて。

 

キックオフ3時間前に家族と会うことができ、安堵した気持ちが持ててゲームのイメージができるようになりました。試合への指名があってから集中できていない状態が続いたけど、焦りはそれほどなかった。寝られない状態ではあったけど2、3日眠れなくても倒れることはないだろうし、眠れないものはしょうがない。メンタルトレーニングも受けており、客観的に自分の状態をみつめることはできていましたね。まぁ、直前になったらアドレナリンも出るだろうと楽観的でもあったように思います。

 

試合が終わった後の達成感はすごくありました。心地よい緊張というか、研ぎ澄まされた感覚が気持ちよかったです。次のプレーへの読みも優れ思い通りに動けたし、選手の気持ちもわかったし。開催地のドイツが勝ったからというのもあるかもしれないけど、判定に対する不満もなかった。

 

普段は、自分の名前をインターネットで検索することはしません。やると落ち込むだけだから(笑)。今のレフェリーもそうでしょうね。だけどそのときはインターネットを見てすごくうれしかったですね。名前出てくるし、ちょっといい気分になりましたね(笑)。

 

日本の多くの方が僕のレフェリングに注目して下さったのではないでしょうかね。

 

2006年は、ワールドカップのレフェリーに選ばれたという連絡がメールで来ました。2002年はFAXでしたから、一気にインターネットが普及したという感じでした。だから2006年は日本からどんどん祝福のメッセージも来てね。場所は遠かったけど、2002年よりも近くでやっている感じでしたね。

 

もしブーイングで挫けていたら、その後は何もなかった

ドイツから帰ってきたときに、国際審判は2006年で終わりにしようと思っていました。若い人に席を譲ったほうがいいと思って。

 

そしてその年に現役を引退しました。右膝だけではなく、左膝にも痛みが出てくることもありました痛くて膝を伸ばせない、軟骨も削れ骨と骨が直接当たって、変形もしてきている状態でした。それは選手時代に負ったケガが原因でしたね。

 

3位決定戦の前にも痛みがあったのですが、神様が「これが最後」だとやらせてくれたんだと思っています。ワールドカップが終わった後、膝がすごく痛くなったので。それで2006年のJ1リーグ第34節、浦和対G大阪浦和の優勝する試合と、天皇杯準決勝の浦和鹿島を吹いて引退しました。

 

2006年、もう一度Jリーグアウォーズで最優秀審判に選んでもらいました。今度はブーイングがあっても笑いでごまかせるところまで余裕はありましたね。名前を呼ばれたらどんなコメントしようかなって思うこともできましたし。

 

でも「川上徹」って呼ばれてね(笑)。それで軽く笑いとどよめきがあったんですよ。なかなかすんなり表彰してもらえないなって。でも喜んで立って「上川徹です」って挨拶したんです。みんなが認めてくれたと思いましたね。

 

2003年のあのブーイングで挫けていたら、もうそのあとは何も無かったですね。だからその4年間は濃かったですね。膝の痛みもありましたし、2002年の悔しさもありましたし、2003年は悲しかったですけど、振り返ったときに自分で覚悟してやったことですし。もし2003年でみんなから祝福されていたら、その後の僕はなかったかもしれないし。何がどうなるか、わからないですね。

 

2006年は家族もみんな喜んでくれました。子供も。ワールドカップのときは1試合目に家族を全部呼んだんですよ。するとFIFAは家族用にVIP席を用意してくれてね。妻はデニムしか持ってきてなかったので、スカートを買いに行ってました(笑)。

 

これから審判を目指す人には、やっぱりこだわりを持ってやってほしいと思います。なんでもいいし、小さいことでもいいから。人をマネするのも大事ですけど、人と同じことをするのではなくて、「オレのここは強みだ」というところを見つけてほしいと思います。

 

その気持ちをずっと持ち続けてほしいですね。不安な気持ちになるかもしれないけど、そのこだわりがあれば、自信を失うことなく次に向かっていけると思うんですよ。それを初心とする言い方は正しくないかもしれないけどそんな戻るところを一つ持っておいてほしいなと願っています。

 

 

 

上川徹 プロフィール

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東海大学を卒業後、フジタ工業に入団。1992年に引退しレフェリーへ転身すると1995年に一級審判員、98年には国際主審となり、2002年、2006年のW杯に連続出場。2006年W杯では3位決定戦をジャッジした。

 

1963年生まれ、鹿児島県出身。

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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