日本人になっていなければどんな人生だっただろう……三都主アレサンドロの運命を変えた選択

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は三都主アレサンドロさんに登場していただきました。1997年に清水エスパルス入団後、1999年にはJリーグMVP、2001年には日本国籍を取得し日本代表に選出。日韓W杯、ドイツW杯に連続出場しました。2015年にFC岐阜との契約を満了し、現在はブラジルで活動する三都主さんですが、今回はサッカー人生を振り返るとともに、現在の活動内容についても話してくれました。 (人形町・小伝馬町のグルメランチ

日本人になっていなければどんな人生だっただろう……三都主アレサンドロの運命を変えた選択

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アレックス――三都主アレサンドロは行ってしまった。

岐阜との契約が満了になったことが発表され2日後にはブラジル行きとなった。

挨拶をする暇もないくらい慌ただしかった。

 

それからずっと気になっていることがあった。

昔、ずいぶん失礼な質問をしたことがあったからだ。

それは三都主が日本に帰化したときのことだった。

 

「日本に帰化して日本代表になって、それで夢だったヨーロッパに行ったら

日本代表を踏み台にしたって思われるかもしれないよ」

 

そのとき三都主はしっかりと目を見ながら答えてくれた。

「僕がどんな思いで日本人になったのか、

これからの行動を見てもらったら、どんなに日本を思っているか

きっとわかってもらえると思います」

 

そんな三都主がブラジルに行こうと思ったのだ。

よほどの思いがあったに違いない。

日本で辛い思いをしていたのではないだろうか。

 

今回、オンラインで話を聞くことができた。

「どんな思いで日本人になったのか」には、

これまで知らなかった話が隠れていた。

 

人なつっこい笑顔は昔のまま。

風貌は少々ワイルドさを増していたが、

日本食が好きなのもまるで変わっていないようだった。

 

「さぁ自分の年だ」と思った矢先、2008年のケガ

お久しぶりです! お元気ですか? 僕は元気ですよ!

 

また強くなって日本に戻りたいと思っています! その前に今はいろんな勉強をしています。

 

日本で一番辛かったのは……そうですね……うーん……うーん……難しいですね。日本に行って、やっぱり言葉の問題だったり、文化の違いだったり、いろんなことがあったと思うのですけど、いつもその大きな壁を乗り越えないとダメだと思っていたし、それを楽しみにもしていたのですよ。必ず難しいことが来るけど、それを乗り越えなきゃダメだと思っていましたから。

 

そうですね、その中で特に挙げるとすると、2008年にケガをしてしまったことですかね。それまで僕はいろんなクラブで活躍したときは「8」がラッキーナンバーだったのですよ。背番号が「8」だったり。それで2008年は張り切っていたのです。これは僕の年だなぁと。

 

31歳で、まだ運動量もあったし経験も身について、すべてが整っている時期だったのですよ。そこで左足の付け根にケガをしてしまって、2008年はほとんどサッカーができなかったですね。

 

ザルツブルグから浦和に戻ってきて張り切っていたのですけれど、リーグ戦の1試合にしか出られませんでした。それまではずっとケガをしなかったので、「鉄人」と呼んでもらっていたのに。ジーコ監督の時期もそうだったし、ずっと代表でもクラブでも試合に出ていて、さぁ自分の年だと思ったのに……辛い1年でした。

 

3回連続同じところをケガして、3回目で手術しなければいけなくなったのです。ケガしてリハビリしてケガを治したと思ったら、またリハビリで。自分の弱い部分と戦って、やっと治ったときにもう一回同じことをやらなければならなくなって。同じようなことが2回も続いたので。それがすごく辛かったですね。それで結局1年でほとんど試合に出られなくて。

 

それでも僕は「いつでも前向きにいよう」と考えていたし、ホントにギリギリまで自分を試す時期だとも思っていたのですよ。だから戦って、「もう一回元の自分に戻す」「いいアレクッスに戻れるようにする」「あのキレキレのアレックスになる」と決心していたのです。楽しいサッカーを見せるのは、自分の仕事だって。

 

結局、1年かかって身体は戻ったのですけれど、2009年の初めから浦和に新しくフォルカー・フィンケ監督が来て、なかなか使ってもらえなくなりましたね。その時期はまた違う意味の自分との戦いだったから、それも結構辛かったですね。

 

フィンケ監督が若い選手を優先して使っていたので、自分はもうベテランだから試合に出るのは難しいなと思っていました。それでそこでもう一回新しいところでサッカーをするというのを決めたのです。

 

清水を出て浦和に行ったときも辛かったし、浦和から名古屋も辛かったですね。清水には7年いて、浦和も全部で4年ぐらいと、いた時間が長かったので。それに子供が通っている学校から転校するのもかわいそうでした。それでももう一回、あのアレックスに戻るために挑戦しなきゃいけないということで名古屋に行ったのですよ。

 

 もう一度、あの試合の前に戻りたい……今も思い出す1999年の退場

それから、辛いと言うより、もう一回あのときに戻りたいと思っている試合があるのです。それは1999年のチャンピオンシップの第2戦、磐田戦ですね。僕のいた清水は初戦でVゴール負けしていたので、2戦目は勝たなければいけなかったのですよ。でも、前半35分で僕が退場になってしまった。

 

あのときは、自分の中で整理できることと整理できないことがあって、整理できないで退場になったんです。自分はキレキレで、チームにとっていなければいけない存在だったと思うんですよ。でも自分がしたことによってチームに迷惑をかけてしまった。

 

それでもノボリ(沢登正朗)さんのFKが決まってファビーニョのVゴールが決まって、2試合合計のスコアが同じになったのでPK戦になりました。そこで負けてしまったのです。あの退場の前に戻りたいです。

 

でも、自分のサッカー人生の中で、あれが一番辛いときというわけではなかったと思います。なぜかというと、あの場面があったから自分がもっと強くなったというか、大人になったというか。

 

まだ22歳で、すごく若かったのですね。それまで試合前の一週間は楽しくて、きっと思い出になる1試合になるだろうと思っていたけど、優勝のかかる試合というのはものすごい重みがあるのだなと感じました。当時の僕はあのことを1人で整理できなかったです。自分の気持ちをコントロールできなかった試合でした。もしあのときにコントロールできていれば、もっとチームのプラスになったなと思いますね。

 

日本人になっていなければどんな人生だっただろう

日本人になる前、1999年はMVPをもらって、2000年はアジアカップウィナーズカップで優勝して、最優秀選手になったりして、ホントにキレキレで、若くてイケイケなプレーをしていたと思いました。

 

日本に帰化して、何がよかったかとか何が悪かったとか、自分でもわからないですね。日本人になったということは、今でもすごいプラスになったと思うのですけど、たまに思うのはもし日本人になってなかったら、どんな人生だったのだろうなって。

 

実は、今だから言えますけど、そのときにすごいチャンスが来たのです。海外のクラブからオファーがあって、年俸もすごくよかった。そしてそのクラブにはブラジル代表選手もプレーしていて、僕のことをすごく評価してくれたのです。

 

それで、移籍する直前まで行ったのですよ。ただ、ちょうどそのとき帰化の申請をしていて、そこで海外に移籍したら日本人になれないだろうということになったのです。それで、日本に残って帰化の手続きを続けるか、海外に移籍するかを自分で決めなければいけなかったのですね。

 

自分はやっぱり日本人になりたいという気持ちが強くて、移籍しないで帰化する人生を選んだのです。もしあそこで移籍していたら日本人にはなっていなくて、どういう選手、どういうアレックスだったのだろうなって。でも自分は日本が好きだから日本に残って日本人になるのを選んだのです。そして今思うと、日本に残って奥さんと出会って、結婚して子供が4人生まれて、幸せな人生ですよ。でも、まったく違う人生もあったのじゃないかな、なんて思ったりもしますね。もしかすると、まだ独身かもしれませんね。

 

岐阜との契約が終了してブラジルに戻ってくるときも迷いました。一番いいのは日本に残って、日本でもっとサッカーの勉強をして、日本で夢だった監督になることだと思っていたのです。

 

でも、その前に、それまでずっと応援してくれた親に恩返しをしなければいけないと思って。ここまで自分のことだけを考えてやって来たし、日本人になると言ったときも、両親は「自分がいいと思ったら自分で決めていいよ。自分がいいと思ったらお父さんもお母さんもサポートするよ」と言ってくれていたのです。

 

それで日本に行ってからもう20年以上経っていましたし、自分も日本人の妻をもらって4人の子供ができて、お父さんも70歳を超えていて、お母さんも65歳で、お父さんもお母さんも元気なときにもっと自分たちの子供におじいちゃん、おばあちゃんと遊ばせたいと思ったのですよ。

 

だからブラジルに帰ってきたのですけど、それでも、ブラジルにいる時間を無駄にせず、いろんな勉強をして、監督のライセンスを取ろうと思っています。今年、もうあと1つライセンスを取ったらプロ監督への道が開けるのですよ。

 

それにもう1つ、プロジェクトをやっています。日本は僕にチャンスをくれた国でした。今の僕がいるのは日本のおかげで、今度は、僕みたいな人に僕がチャンスを与えればいいのじゃないのかなと思っているのです。

 

お金の無い子供たちがスポーツの道に進めるようにして夢を与えたいと思い、サッカーだけではなくて、フットサル、柔道、カポエラ、空手、そういうスポーツを習うところをつくりました。今やっと会社を立ち上げて、子供たちがリスト待ちをするまでになっているのですよ。

 

今、監督になるために勉強しているのですけれど、それと同時にそういう人たちにも自分の経験を伝えて、もう1つの道を開いてあげられればいいかなと思っているのです。

 

僕も小さいときからあんまりお金が無かった。それにきれいなグラウンドとか、ビッグクラブがチャンスを与えてくれる機会もなかった。自分は日本に行ってチャンスをもらってビッグクラブに入って、そこでいい人生勉強をさせてもらいました。

 

大人になって僕のために道を開いてくれた人たちや国のために、何か恩返しをしたいと思って、そういうことを選んだのです。もちろん監督としての勉強を忘れず、自分の道もちゃんと進めるようにしています。

 

今、3つか4つのプロのクラブから自分たちのクラブにもそのプロジェクトをやってほしいってオファーが来ているのですよ。相手がちゃんとしたクラブなのか、自分の名前を貸していいのかと考えている段階です。

 

そうそう、去年12月ぐらいにジーコが開催した試合にジーコから直接呼んでもらったのですよ。子供たちやシャペコエンセのためのチャリティの試合でした。その試合にはスター選手たちが、ジーコとかジュニオールのような昔のブラジル代表選手や、ネイマールまで来たのです。その試合でプレーできました。

 

会場がマラカナンでした。日本代表になってフランスやドイツや、いろんな有名なスタジアムでプレーできたのですけれど、マラカナンでプレーするのは初めてで、すごくうれしかったですね。

 

それが僕の引退試合かなって。最後にマラカナンでプレーするチャンスをくれて、やっぱり神様は見てくれていたなって。そんな恩返しをしなければいけないということで、また頑張らなければいけないと思いましたね。

 

 今は「鰻重」、そして日本の醤油が懐かしい

僕は日本食大好きなのですよ。好きな料理が結構あるのですけど、ブラジルでなかなか食べられないのです。白焼きとか鰻重が懐かしいです。他に好きなのはすき焼きだったり、牛丼だったり。それもブラジルではなかなか食べられなくて。やっぱりお肉の質とか、大きさが違うし、ブラジルにある醤油も日本の味じゃなくて、ちょっと違うのです。日本人の舌に合うものじゃなくて、ブラジル人が買うものしか売ってないので、日本の醤油が懐かしいです。

 

日本に帰ったとき、ウナギ食べに行きましょう! いいですね。奢ってくれるのですか? 松木安太郎さんの実家ですね。約束ですよ。忘れませんからね。帰ったら絶対奢ってくださいね! ハハハハ!

 

r.gnavi.co.jp

 

 

三都主アレサンドロ プロフィール

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16歳でサッカー留学生として明徳義塾高校へ留学、卒業後は清水エスパルスへ入団。1999年に最年少の22歳でJリーグ年間最優秀選手賞を受賞。2002年に日本へ帰化すると、日本代表となり2002年、2006年のW杯にも出場した。

 

1977年生まれ、ブラジル出身。

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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