僕は愚かだった ……永井秀樹が25年のプロ生活でサッカーから教えられた答え

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は永井秀樹さんに登場していただきました。Jリーグ創成期には、スター軍団・ヴェルディ川崎の攻撃的MFとして華々しい活躍をおさめ、その後も清水エスパルス、横浜フリューゲルス、横浜Fマリノスなどを渡り歩き、2016年まで25年間のプロ生活を送ったJリーグが誇るレジェンドの一人です。永井さんにはプロ生活の中で学んだことや貴重なエピソードを伺いました。 (新橋のグルメランチ

僕は愚かだった ……永井秀樹が25年のプロ生活でサッカーから教えられた答え

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46歳の永井秀樹は

人生の半分以上となる25年間をプロサッカー選手として過ごしてきた。

 

1992年、国士舘大学を中退してヴェルディ川崎に入ると、
1993年、1994年はリーグ優勝
1995年、福岡ブルックスでJリーグ昇格を決め、
1996年、清水エスパルスでヤマザキナビスコカップ優勝
1998年、横浜フリューゲルスで天皇杯優勝
2000年、横浜F・マリノスでステージ優勝
2001年、ヤマザキナビスコカップ優勝
2005年、FC琉球でJFL昇格
2007年、東京ヴェルディ1969でJ1昇格
2013年、FC琉球でJ3参加承認
そして2016年、東京ヴェルディで引退する。

 

1991年、バルセロナ五輪アジア最終予選で敗れた後は

残念ながら日本代表のシャツを着ることはなかった。

それでもこれだけのキャリアを誇る選手、

うれしかったことも、怒ったこともたくさんあったことだろう。

 

そう思って聞き始めたが、

永井から出てきたのは

もっと別の話だった。

もっと大切な思い出だったと言ってもいい。

 

永井秀樹はまだまだ超えられない男の背中を

今も追いかけていると知ることができた。

 

自分の中にあった夢は何一つ達成できなかった

25年の現役時代を振り返って一番思い出すのは……。うーん、辛かったことがいっぱいあるんでね。周りの友人からは「華やかなサッカー人生でよかったね」って言われるんですけど、自分では何の満足感もないし。ワールドカップにも出られなかった。世界へも挑戦できなかった。自分の中にあった夢を何一つ達成できなかったんです。

 

でも、一番は父親が他界したときですね。2005年、琉球でプレーしていたとき、実家のある大分の病院から連絡があったんです。親父の病気について、「ご家族みなさんに説明したい」って。親父もお袋も入れて。それでちょっと嫌な予感がしたんですよ。だから急いで大分に飛んで、家族と話をする1日前に病院の先生を訪ねたんです。

 

そこで「先生、正直に言ってください」ってお願いして、親父はガンで余命半年だと聞きました。「それを明日、親父に伝えるんですか?」って聞いたら、今の医療の決まりではガンの告知をしないで隠すことはできないって言うんですよ。だから、それはわかったけれども、余命半年って言うのだけはお願いだから言わないでくださいって頭を下げました。それを言われると絶望的になると思ってね。

 

それを両親には言えず過ごしていた時期が一番辛かったかな。弟2人には話したかもしれません。お袋には治る見込みもあるって言っておきましたね。言うとパニックになるのがわかってたので。そこが現役時代で一番辛かったですかね。2005年。ちょうど僕は琉球にいて。

 

FC琉球は自分の状況を理解してくれて、よく自由を利かせてくれました。やっぱり心配だから、頻繁に大分に帰ってましたね。すると、だんだん親父が文句を言うようになったんです。「お前なんでこんなに頻繁に帰ってくんだ」「仕事してんのか」って。

 

だから、「ちゃんとやってるよ」「オレもサッカーばっかりやってるわけにもいかないし、大分でも新しいビジネスやろうと思ってる」、そんなウソを言ってね。見舞いに帰ってきてるなんて言えないんでね。

 

親父は病院で早く仕事に戻りたいって言ってました。そしてたまに退院してたんですけど、本当に仕事人間だったんで、仕事に行こうとするんですよ。お袋は「せっかく退院したんだから1日ぐらい休めばいい」って言うんだけど、「男は仕事をしてナンボだ。休むぐらいだったら死んだ方がましだ」って。

 

親父は昔、新日鉄に勤めてたんです。そこを僕が28歳のときに早期依願退職して、何人か仲間を集めて電気工事の会社を立ち上げました。サラリーマン勤めが長かったんで、お祝いでハワイ旅行をプレゼントしようと思って、家族で行こうって話をしたんですけど、そのときすごい怒られて。

 

「何を言ってんだ。退職して、自分で会社を興して、これからって言うときに何がハワイだ」って。「何をのんきなこと言ってんだ」「そんな余裕はオレにはない」って。そういう人だったんで、闘病生活中もちょっと状態がいいと退院してきて、足を引きずりながら仕事行ってました。そういう姿を見るのも辛かったですね。

 

2006年シーズン、ラモス瑠偉さんがヴェルディの監督になられて、自分は「戻ってこい」と言ってもらえました。それを親父に話したら、すごく喜んでくれてね。もちろん、自分の息子だったら、どんなカテゴリーであれ、どんなチームであれ、元気でサッカーやってるのが、幸せでありうれしかったと思うんですけど、ラモスさんのヴェルディに戻れたということは、本当にうれしそうでした。そういう意味では神様とラモスさんには、自分の父親を喜ばせることができたんでね、親孝行少しできたなって、本当にね……感謝ですね。

 

 

五輪予選の敗退で大学中退を決意

親父にはずっと心配かけてきたと思います。まずは高校で地元の大分を離れて、長崎県の国見高校に行くときですね。高校で家を出て、単身で行って寮生活で。自分の中では、子供ながらに覚悟を決めていたんです。オレは絶対サッカーで生きていくって。

 

当然反対されたんですよ。「そんな急ぐことないだろう。地元の学校に行って、高校出てからでもいいだろう」って。まだJリーグもありませんでしたからね。親は「選手になるって、お前はどうやって飯を食っていくんだ」と。僕は「日本で一番になって海外に行く」って、反対を押し切って行った。そこでまず苦労というか、心配をかけて。

 

国見高校で全国制覇、卒業後は特待生として国士舘大学に入学することができたんです。その国士舘大学の3年生のときに、バルセロナ五輪の予選がありました。日本は1968年のメキシコ大会以来、五輪には出場してなかったんです。当時の日本サッカー界で五輪出場は悲願で、僕たちの年代は合宿や海外遠征も多く組んでもらって、それまでと比べて随分と手厚いサポートをしてもらって。

 

みっちり鍛えられたんで、僕たちは「予選突破は当たり前。本大会でプレーした後、どうやって世界に羽ばたいていこうか?」という思いでしたね。メンバーも今考えても凄い顔ぶれが揃ってたんですよ。たくさんの選手がその後、日本代表になりましたから。小村徳男、相馬直樹、名良橋晃、澤登正朗、藤田俊哉、名波浩もいたんです。

 

しかし最終予選では波に乗れず、4戦目で韓国に0-1と敗れた瞬間、本大会出場が絶望的となりました。その夜、何が悪かったのか一人自問自答し一晩考えて出した結論は「大学の3年間が甘かったのではないか」。そしてそのとき、僕は大学を辞めてプロの世界に飛び込む決心をしたんです。

 

ただ、僕は国士舘大学にスポーツ特待生として入学してて、特待生が個人の都合で中退した例は過去になくて、通常有り得ない事だったんですよ。もし自分が大学を辞めた後、国見高校の後輩たちが特待生に選ばれなくなる可能性もありました。

 

そんな気掛かりはあったものの、「道はひとつしかない」と思い、帰国するとすぐに当時サッカー部監督で、今は学長の大澤英雄先生を訪ね、自分の気持ちを正直に伝えたんです。先生は何も言わずに話を聞いてくださりましたが、その後、連絡した両親には猛反対されました。理由はわかっていました。

 

親父って家が貧しかったらしいんですよ。亡くなったばあちゃんに聞いたんですけど。親父は勉強がすごくできて、有名大学に行けるくらいの成績だったんだけど、学費が払えないということでなくなく就職したらしいんです。でも高卒なんで、出世が遅かったって。4年制の大学を出た奴はどんどん出世して行くけど、自分は行けない。

 

親父は自分の話を家で全くしなかったんで、ばあちゃんとお袋にそういう話を聞いてたんです。だからたぶん親父は僕に大学だけは出てほしかったみたいなんですよ。サッカーがダメだったときに、大卒っていう、自分にない保証を持たせたかったんでしょうね。

 

会社の中で悔しい思いをしたと思うんで、そういう意味で大学だけはって。「あと1年だし、卒業してからでもJリーグの開幕に間に合うじゃないか」ってね。自分は一度決心すると頑固なんで「いや、それじゃ遅い」って今度も言い張って。

 

すると大澤先生とうちの親父が2人で話したらしくて、大澤先生が「息子さんの決意と意志を最後は尊重しましょう」と言ってくださったらしいんです。親父は「本当にすみません」と先生に頭を下げたということでした。あとで大澤先生から「本当にいい父親だよ」って教えてもらいました。

 

 

父は僕が贈ったベンツに一度も乗らなかった 

プロになった後も自分は浅はかでね。愚かというか、幼稚というか。

 

自分の中で親孝行というと、旅行に連れて行くとか、いい時計や車をプレゼントするとか、そんなことだと思ってたんです。勝手な自己満足ですよ。だから親父にベンツを贈ったんですけど、あとで聞いたら、親父は一度も乗らなかったということでした。

 

こっちはよかれと思ってたんですけど、もしそんな車に乗って地元を走ってたら、「息子さんのおかげ」と親子共々嫌みをいわれかねないって、ずっと軽自動車に乗ってたらしいです。親孝行って自分が思ってたことと違うと、後になって身に染みてわかったんですよ。

 

そして今でこそ大分トリニータという立派なJクラブになりましたけど、最初は大分トリニティという小さなクラブだったんです。そのトリニティが立ち上がったばかりのとき、親父はボランティア登録してました。

 

その当時の自分は奢っていたと思います。大分から出た初めてのプロ選手で、Jリーグで活躍してるんだから、親父には堂々としていてほしかったんです。それを地元の小さなクラブのボランティアスタッフだなんて「なんでやる必要があるんだ」って、結構強めに親父に言ってたんです。単純にかっこ悪いと思ってたんですよ。

 

親父は自分には何も言わなかったけど、人には「大分のサッカー界に息子を育ててもらった恩返しだ」と言ってたらしいです。「せっかくこの大分にプロクラブができたんだから、そこのボランティアスタッフでお手伝いすることが、息子を育ててもらった大分に対する恩返しだ」って。

 

自分の愚かさというか。なんで自分がスタッフとして頭下げなきゃ行けないんだって思ってて。父親のそういうね、思いに頭が下がるし、改めてすごいと思うし。本当にそういう人だっただけに、本当に辛かったですね。

 

家族で最初に病院の先生から告知を受けるとき、親父は真面目な人だったから、ノートと鉛筆を持ってきたんですよ。で、先生の言うことをずっとメモしてました。どういうガンで、どうなってるって。余命という話はなかったけれど、これだけの情報社会なんで、病状なんかをインターネットで検索すればいろいろわかったんだと思います。

 

でもね、また何日かして病院に行ってそのノート見たら、ガンを治すための方法論だったり、食べ物、薬とか、ずらーっと調べて書いてある。絶望するどころか、絶対治してみせるって。本当にすごい人だなって改めて思いましたね。

 

親父のことはラモス監督にも言わないでプレーしていました。余命半年と言われた親父の闘病生活は2005年から始まって、結局1年半頑張ったのかな。2006年の年越しは無理だって言われたんだけど、本当に頑張って、今度は年も越して、みんなが忙しい三が日が終わって、4日に亡くなったんです。「人様に迷惑かけないように」っていうのが口癖だったから、父親らしいなって。親父が亡くなった2007年、ヴェルディがJ1に上がれたんですけど、あれは間違いなく親父に力を貸してもらえたというシーズンだったって思いますね。

 

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自分のために何かやろうっていうときは、だいたい上手くいかない

子供のころから一番好きなチームは読売クラブだったし、ヴェルディだったけど、大好きな気持ちとは別に、プロサッカー選手として自分を一番高く評価してくれて、自分が一番プレーできる環境に身を置くとのが大切だという気持ちもありました。

 

そういう意味では大好きなヴェルディを離れる苦しい選択もあったし、逆にヴェルディから出されるときもありましたね。でも今振り返ってみても、自分の選択に何一つ後悔はない。2004年の大分は残念なシーズンでしたけど、その他の行ったチームでは必ずタイトルを取れたし昇格もできた。

 

もちろん行ったすべてのチームにそれぞれに思い出があります。清水エスパルスではヤマザキナビスコカップに初優勝して、横浜フリューゲルスでは最後の天皇杯優勝もあった。福岡もJ1に上げられたし、横浜F・マリノスも優勝した。ホント、自分自身も幸せだったし、いいチームメイトに恵まれ、本当にいい監督にも巡り会わせてもらって。オズワルド・アルディレス監督だったり、カルロス・レシャック監督だったり。どのチームでもサポーターの人たちからもすごくよくしてもらって、いいサッカー人生であったことは間違いないですよ。

 

そして今思うとやっぱり、当時のFC琉球は地域リーグだから5部リーグという感じですか。そこではJリーグではない経験や、純粋なサッカーの楽しさというのも経験できたし。そこでやっている選手たちのメンタルだったり気持ちだったりを、共有できたってのが本当に今になっても大きいですね。自分はたぶん華やかなJのチームしか知らなかったら、偏ったサッカー観になってたかもしれない。そういう意味ではいろんなリーグ、カテゴリーを経験できたというのは非常によかったと思いますね。

 

25年プロサッカー選手をやってると、そりゃ頭に来ることの連続ですよね。もちろん人生なんて上手くいかないものだけど、一杯ありすぎて。そうだけども、時が経って振り返ってみると、それもいい勉強だったと思います。自分がすべて正しいとは思わないけど、自分の中での信じるもの信じてやっていけば、何となく最後は正義が絶対勝つんだなって。汚いことしている人は、その瞬間はその人が勝った気でいるかもしれないけど、必ず最後は正義が勝つんだなって、25年間やってみて思います。そこは人生で学んだことかなって。

 

もちろん自分もいろんな失敗を繰り返したけど、やっぱり信念を持って突き進んでいくことが大事かなって。あとなんとなく見えてきたのは、自分のために何かやろうっていうときは、だいたい上手くいかないなって。人のために何かやりたいなっていうときが成功する気がするんです。

 

サッカーでいうと、今日の試合はオレが活躍してオレがヒーローになって、って言ってるうちはいいパフォーマンスが出せない、いい結果も出ない。仲間のために何かやりたいとか、このチームの役に立ちたいとか、そういう気持ちでやってるときは大体いい結果が出てるんです。

 

それがサッカーから教えられた答えなのかと思いますね。優勝するチームって、みんながそういうマインドなんですよ。選手もそうだし、裏方もフロントスタッフも、誰一人、オレがとか、自分の保身のためとかでやっている人がいなかったですね。うまくいかなかった年はその逆でした。

 

 

食へのこだわりはサッカーに通じるものがある

おいしいモノは大好きなんです。そして食にはこだわりたいんですよ。自分が食べたいと思うものを食べたいんです。腹減ったんで何でもいいやっていうのはストレスですね。人から聞いて、ここの何がおいしいとか、それこそ今「ぐるなび」の上位の店にいってみたりとか。それくらい食に対してこだわっています。

 

それで知り合いのサッカー仲間と話すんですけど、もしかすると、いいサッカー選手になるための必要な要素として、食に対するこだわりがあるじゃないかって。サッカーに例えると、「こういうサッカーをして、こうやって勝ちたい」っていうのが、食へのこだわりに近いんです。腹減ってるから何でもいいってのは、「どんなサッカーでも勝てばいい」って言ってるのと同じに聞こえちゃうんです。やっぱり自分はこだわって、いいサッカーをして勝ちたいという思いが強い。そのこだわりが大事な気がするんです。

 

親父は魚が好きでした。でもうちの家系は肉食でした。特に自分は。ほとんど毎日肉ですね。それからカレー。オススメの店は、世田谷にある「砂の岬」さん。あとは新橋のカレー屋さん、「ザ・カリー」。この2つは抜群です。インドカレー風で、スパイスがいろいろ調合されていて、本当に体にいい気がします。辛いけど、食べてももたれず、本当に身体が温まる。最高のお店は沖縄にもありました。一日多分、5人ぐらいしか入れない限定で、でも最近は予約も取れない、そういう店なんです。ますます困るから、名前は言えないんですけどね。

 

昨年現役引退し、今は東京ヴェルディのGM補佐兼ユースの監督をしています。実は監督になる前に、ハワイに行って少しのんびりしようかなとも思ってたんですよ。だけど、挨拶回りやら、視察やら事務処理やらやっているうちに、すぐ始まっちゃって。そんなとき、親父のことも思い出して。これで行かないのが親父なんだろうなって。今回のハワイ行きもきっと親父が止めたんでしょうね(笑)。「新しいstartなのにノンビリ休んでる場合じゃないぞ」って。

 

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永井秀樹 プロフィール

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国見高校を卒業後、国士舘大学を入学するも中退し、1992年にヴェルディ川崎へ入団。1995年に福岡ブルックスへ移籍して以降は様々なチームを渡り歩き、1998年には横浜フリューゲルスの選手として天皇杯優勝も経験した。

 

2016年に引退を発表。25年に渡るプロ選手生活を終え、2017年からは東京ヴェルディユース監督兼GM補佐に就任した。

 

1971年生まれ、大分県出身。

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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