寺田周平は記者の前で2度泣いた…32歳で日本代表に初めて呼ばれた男のサッカー人生

Jリーグの川崎フロンターレで活躍し、日本代表としてW杯予選などでも活躍した寺田周平氏に登場いただき、プロ入りまでの経緯や日本代表でのエピソード、そしてアスリートには欠かせない食事の話をうかがいました。大学卒業後、1年間の浪人生活をし、32歳で初代表という異例の経歴を持つ寺田氏ですが、エピソードを語りながらも涙ぐむ場面も…。(川崎のグルメランチ

寺田周平は記者の前で2度泣いた…32歳で日本代表に初めて呼ばれた男のサッカー人生

f:id:g-gourmedia:20170119113835j:plain

寺田周平の涙を2回見たことがある。

1度目は、遅咲きの選手として日本代表に初招集されたとき。

寺田はJリーグ開始後の、最高齢で初招集された選手になった。

2度目はこのインタビューのとき。

昔の話は、今思いだしても胸が一杯になってしまうのだろう。

 

大学卒業後、プロ契約直前まで行ってダメになった。

先が見えないまま周囲に助けられながら過ごさなければならなかった。

やっとプロになったものの、度重なるケガに泣き続けた。

1年を丸々リハビリに当てた年もある。

治っては負傷し、復帰目前まで行っては再び奈落に落とされる。

そんな生活は2年半も続いた。

 

陽気で温厚、人当たりのいい寺田だから、

辛い時期のことは笑顔の奥にしまい込んでいる。

だが寺田が明日のJリーガーを育てている今、

厳しかったときの思い出は

貴重な栄養として若手に伝えられることだろう。

最終予選には1試合出場したが、

ワールドカップの年に引退した。

惜しかったし、もったいなかった。

だが、寺田が勝者であることは間違いない。

 

 

牛乳1リットルを毎日飲んでいた小中学校時代

現役時代の身長は189センチでした。今は188センチに縮んでます。膝が曲がっちゃってるのかもしれないですね、痛くて。

 

この身長があったから選手としてやってこれたと思うし、日本代表にも入れたと思います。身長は大きくてよかったし、いろんないい指導者に出会って、他の部分の良さを伸ばしてもらったと思いますね。自分としては、身長もあるけど、スピードもありますよということに自信がありました。それも、身長が高いことがいいほうに転がったからでしょうね。

 

太る体質じゃなかったんで、現役時代は「バランスよく」ということだけを心掛けていました。食べたいもの、おいしいモノをバランスよく食べるっていう考え方です。基本は、ごはんと味噌汁とおかずでしたね。

 

小さいころの食事に身長が伸びる秘密があったのかな……? そう言えば小さいころから、小中学校のころなんて、夏、家に帰ると、その場で牛乳を1リットル飲んでましたね。水分と言えば牛乳。それが身長につながったかどうかわからないけど、牛乳大好きでした。結婚しても最初はご飯のときも牛乳飲んでましたよ。だんだん奥さんに合わせて別の飲み物にしましたけど。でも今でもデザートのとき、チョコを食べるときもケーキを食べるときも牛乳です。

 

2008年の4月に岡田武史監督から日本代表に呼んでもらいました。32歳と339日で日本代表に入ったのは、Jリーグが始まってからは最高齢でした。その前の2007年はものすごく体が動いたんです。何をやっても怖くなかった。J1リーグで29試合に出場したというのは自分の最高記録ですし、1枚もイエローカードをもらってないんです。それくらい体が動いてた。

 

ただ、年齢的に考えると代表なんて片隅にもなかったし、自分がそこに立つという思いはなかったんで、とりあえず目の前の練習、今日の練習を全力でやろうというモチベーションでひたすらやってました。先のことって最初からずっとわからなかったし。

 

 

仮契約が消えた…悶々としていた浪人時代

大学を卒業して、1年プロになれなかったんです。僕が一番辛かったのは、その浪人時代ですね。

 

大学を卒業するときにあるチームと仮契約までいったのですよ。でも、そこでメディカルチェックで引っかかってしまったんです。自覚症状はないんです。ただ首の頸椎が緩いというか、骨の間隔がちょっと開いているらしい。だから強い衝撃を受けたら命の危険がありますよっていうことでした。

 

仮契約までしてくれたチームには迷惑をかけたし、本当に申し訳ないという気持ちがあります。相手チームにとっては考えていた戦力を獲れなかったことになりますから。あのころは自分のことばかり考えていたけど、引退間近になって考えてみると、あのときにそのチームはプラン狂っただろうし、迷惑かけたなぁってやっとわかりました。

 

ずっとサッカーやって来て痛みはないし、サッカーは出来るけど、大学を卒業してもチームが決まらない。所属がない、頑張る場所がない。

 

そのとき大学の先生がトレーニングする場所を与えてくれたんです。毎日の練習に参加させていただいただけじゃなくて、寮の一室を使わせてくれたり、合宿に連れて行ってくれたりとか。それは本当にありがたかったですね。

 

大学卒業した以上、金銭的なことでも自分で何とかしなければいけないと思っていました。だからアルバイトも考えていたんです。すると親が「可能性があるんだから」と「援助するからサッカーに集中しろ」って言ってくれた。

その意味でもあのときの両親には本当に感謝していますし、大学の人もそうですし、あとは週末なんかは地元の友達や大学の友達と会って、ちょっと気分が紛れて。そのときにいろんな人に支えられたし。そういう人の存在があったから、僕は頑張れたのかなって。ありきたりですけど、あのとき自分1人じゃ生きていけないというのをまざまざと知ったときでもあります。

 

あの時期は友達から「何やってんの?」って聞かれても答えられない。自分には所属がないわけだし、先も見えなかった、ただ、いつかくるチャンスのために頑張っておこうという感じでした。

 

メディカルチェックがダメになった後、1年間いろんなチームに当たってもらったんです。大学を卒業するときに声をかけてくれたチームもあったので、そこにも行って見てもらいました。けれども首のことはみんなに知られていて、他のチームも怖いから取れないという話になりました。思い切って手を挙げてくれるチームはなかったんです。

 

ずっと悶々としていました。目標がないというか、先が見えないから。またメディカルで落とされるかもしれないし。だから一般の就職も頭にちらついてました。それでも、頑張れるまで、応援してもらえる限りは頑張ろうと思っていたんです。

 

すると当時のフロンターレのドクターがオッケーを出してくれたんですよ。それで練習参加してね、2、3日してオッケーという話をもらいました。それでもホント大丈夫かなって心配してました。本当に契約できるのかなって、半信半疑で。

 

それでね、1999年にやっとプロになることが出来て、まぁちょっとね、うれしかったですね。ちょっとね、今も思い出すと…………あれ、ですけど。あれ、……………………すみません。

 

f:id:g-gourmedia:20170119115821j:plain

 

 

プロ入り後は度重なるケガ、リハビリ生活

首の治療はしなかったんですよ。フロンターレのドクターにオッケー出してもらいましたから。当時のフロンターレは新設されたJ2リーグに参入したばかりでした。J1とJ2という差は僕の中にはなくて、プロになれた、またサッカーできるチームがあるというのがものすごくうれしかった。だからフロンターレに何とか恩返ししたいという気持ちで入団しました。

 

だけど、入団したあとはケガで苦労して。

 

結局、リハビリは一番長いときで2年半かかったんです。最初は、1年目に肉離れで離脱しました。そして2年目にJ1に昇格したとき、ファーストステージの10節でジュビロと対戦したんです。6分に初ゴールを決めたんですけど、85分には得点機会阻止ということで退場になり、試合も結局1-5で負けてしまいました。

 

退場したので、翌週の第11節には出られない。それでサテライトの試合に出ることになったんです。そしてその試合で膝やっちゃった。左膝の前十字靱帯を損傷しました。それで手術を受けて、1年間はリハビリでした。だけどケガのせいで筋肉も弱くなっちゃったのかもしれないけど、ハムストリングの肉離れを何回もやって。1年経って復帰したけれど、また前十字靱帯をケガして、そのあとハムストリングの肉離れでした。リハビリやっている途中で上げていったらまたケガしてというのが続いたんです。で、結局復帰までに2年ちょっとかかっちゃいました。

 

普通で考えると2年半のリハビリって大変に思えるでしょうね。でも、僕は浪人時代の経験があった。だからケガしたときも、リハビリする場所があって、復帰したら試合に出られる場所があるっていうことは全然違うって思えました。

 

リハビリのときは精神的に辛かったですけど、浪人のころに比べたらまだましだと思えたのが強みだった。復帰したら試合に出るチャンスがあるわけだし、そういう意味では浪人時代の経験は自分のメンタル的な成長には繋がったって思うことが出来ましたね。

 

1999年にプロになって、2000年は8試合に出場し、2001年はシーズン全部を棒に振って、2002年は4試合に出ただけでその後はリハビリ、2003年もずっとリハビリを続けて、やっと最後の3試合に出場できたんです。

 

その2003年は最後まで昇格が縺れたシーズンでした。結局勝ち点1の差で昇格でき叶ったんですけど、その終盤の3試合は、キャリアの中でも最も緊張した試合でした。

 

まぁリハビリが辛くなかったと言えばウソになりますけど、でも投げやりになれない。チームに契約してもらってるし、フロンターレに恩返ししなければいけないという強い気持ちがあった。契約してもらっている以上、なんとしてもリハビリをやり遂げて、復帰して試合に出るために全力を注がなきゃって。あとは応援してくれている人たちにもう一度ピッチに立つ姿を見せなきゃって。チームや応援してくれている人のために、頑張らなきゃっていうのがモチベーションでしたね。

 

じゃあずっと強い気持ちを持ち続けられたかというと、途中で投げ出したくなるときもありました。だってリハビリの途中なんて、本当にもう一回プロのピッチに立てるのか、体が元に戻るのかっていう不安はありますからね。

 

ケガが治って2004年、関塚隆監督のときに試合に出るようになったけれど、まずプロのレベルに自分の体を戻すというか、ついていくのが大変でした。そのときはJ2のピッチでレギュラーを取るというのが目標だったんです。そこで最終的に試合に出られるようになった。

 

でもその当時、またJ1の舞台で、もう一度すごいFWと戦うというのは、自分のコンディションを考えると正直難しいという気持ちもあったんです。それでも、もう一度J1の舞台に立ちたい。だから目の前のことに取り組んでいたら、次第に体も動くようになって、それでやっと自信が付きました。今思えば頑張ってよかったと思えます。それがあったからこそ、まさか日本代表になったんですから。日本代表というのは夢にも思っていませんでしたけど。

 

 

岡田武史監督に呼ばれ日本代表へ

2008年4月に日本代表の岡田武史監督に呼ばれたとき、一番最初に思ったのは、浪人時代とかケガのときに、応援してくれた人に恩返しできたかもしれないということでしたね。だから、そのときは試合じゃなくて合宿だったので、代表候補というのが正しかったんですけど、もううれしくって。応援してくれた人たちも喜んでくれてたし。

 

その当時、朝日新聞のCMがあったんですよ。若い夫婦の30歳ぐらいの男性が、食卓で新聞を読んで、昔の友達が日本代表に選ばれたって喜んでいるというストーリーで。オレの友達が「まさにあんな感じでさ」って言ってくれました。

 

そいつは僕がJ2でケガをしているとき、会社の友達に「サッカー選手の友達がいるんだよ」って言ったけれど、ケガをして試合に出てないので、「ああそうなんだ」ぐらいの反応だったらしいんです。でも、僕が日本代表に入ったってことで、反応が違ったらしくて。それがものすごくうれしかったみたいで。ホントにずっと応援してたくれた友達や親が、喜んでくれてるんだろうなっていうのが、うれしかったですよね。

 

だから招集を知った後の駐車場でほろっと。ちょっとなんかいろいろ思い出しちゃって。浪人時代のこともそうですし、ケガもそうですし。やっぱり応援してくれた人たちが頭に浮かんできて。

 

5月20日からの合宿にまた呼ばれ、27日のパラグアイ戦でフル出場しました。選ばれたら次は試合に出たいと思っていたので、緊張はしましたけど……緊張より純粋にうれしさや楽しさの中でプレー出来たと思います。変なプレッシャーはなくて済みました。そうすると、6月のホームのバーレーン戦の前にも呼ばれたんです。ところがケガで負傷離脱してしまった。10月に新潟でUAE戦があったときも、やっぱり負傷では途中で帰りました。

 

両方とも腰でした。UAEとの試合でも、途中でピリッときて交代したんです。結局、合宿、2回ぐらい離脱しました。それでもまた呼んでもらえた。ありがたかったすね……。いやぁ、本当に貴重な経験を。させていただきました。

 

2009年の3月までは日本代表に呼ばれました。ワールドカップの前年でしたから、たしかに本大会の出場は意識しました。……ただ、体はギリギリでした。膝とか。ちょっとなかなか先までは考えられなかったですね。まずそのチームでのパフォーマンスが2009年ぐらいになったら、ちょっと歯がゆいというか。スピードとかも含めて。無理が利かなくなってきてるなっていう感じがありました。

 

そして体は限界……というか、ちょっと落ちてきたかなって。ワールドカップの本大会の前まで来てて、いいとこまでいたのに少し落ちた。やっぱり、代表で活躍するって圧倒的な力がないと無理なんです。当時だと、田中マルクス闘莉王と中澤佑二がいた。あの2人は一緒にやっててすごいと思いましたからね。自分が本当にいい状況じゃないと彼らに追いつけないと思ったし、そういう意味ではちょっと厳しくなったとは思ってました

 

2010年は、日本代表に入る前に比べたら、南アフリカワールドカップへの出場は頭の片隅にありました。けれど、入りたいというだけじゃダメで。代表を背負うってことは、そこで結果を残さなきゃいけないってことなんです。そのプレッシャーを考えたときに、今の自分の力ではちょっと厳しいのかなって。入ってもそのパフォーマンスはできないなって冷静に考えてました。

 

結局2010年で引退するんですけど、その年は辛かったですね。試合が。相手に抜かれて追いつけないとか、そういうのが……多くなったんで……。まぁでも続けるのは不可能だったんで。実際はもう厳しかったんで。

 

現役時代は、全体練習が終わった後にずっと苦手な左足の練習をしたり、そういう努力もやりましたけど、課題はやっぱり克服しきれなかったと思います。けれど、そういうのを見つけてやっていかないと、僕なんか一回ケガでピッチを離れていた分、試合に出て、ピッチに立ってるというのがどれだけ幸せかわかってました。その幸せを逃したくないというのがあったんですよね。油断してレギュラー取られたりとか、そういうことはしたくなかったんです。

 

この幸せは逃したくない……。幸せだったんですね、ホント、試合に出てるってことは。毎日練習やって達成感を味わって帰って。その幸せを逃したくないというのを日々感じながらやってました。最後のほうは毎日、練習終わって「あぁ、今日もやり切った」という達成感を感じながら家に帰って「幸せだなぁ」って。今はもう選手じゃなくて指導者だけど、毎日そういう達成感を味わえるように仕事に打ち込まなければいけないなって。なかなか難しいですけどね。メンタル弱いから。

 

浪人時代や日本代表での経験が財産

ケガしているときは、やっぱり食事、バランスよく食べるというのが体に一番よかったと思います。特に朝ご飯をちゃんと食べる。僕が食べていたのはご飯と味噌汁と、納豆、目玉焼きとか魚とかでした。

 

好物は、昔は肉でした。最近は魚です。魚だとサンマですよ。昔は小さな骨があるんでサンマ、嫌いだったんですよ。食べにくいと思って。でも、今はサンマ、骨だけ残してキレイに食べられます。真ん中に箸を入れる食べ方で。たまに自分の家の屋上で七輪でサンマを焼いて食べます。大根おろしで、頭もちゃんと残して。一尾じゃ物足りないと思って、ときどき二尾食べたりするんですけど、そうするとお腹いっぱいになりすぎる。やっぱりサンマは一尾。もうちょっと食べたいぐらいで終わったほうがいいんです。

 

魚好きになって、3年前から釣りも好きになりました。そして自分で釣って、さばいて食べるというのもハマったんです。カワハギとかね。釣って刺身にして、骨を出汁にして鍋。出汁がすごく出ておいしいんですよ。魚さばくのおもしろくなって、スーパーで一匹丸ごとの魚を買ってきて、自分でさばいます。

 

現役時代は料理、やってないですね。帰ったらぱっと食べて栄養を取って、寝てました。理由は単純なんです。僕が厨房に立つと、キッチン低くて腰が痛くなってたから(笑)。体にマイナスになることは避けようと思ってました。だから現役が終わってからキッチンに立つようにしたんです。

 

現役を終えて引退するとき、首のことを思い出しました。何とか無事で良かったと、そのとき思いましたね。親もそのことを喜んでくれました。

 

浪人時代やケガの時の苦しかった思いが今、自分の財産になってるし、それがあったからこそ、その後の自分があると思います。僕は今、若手選手の育成をやってますけど、苦しいことを乗りこえることで人として成長できたという経験談をどうやって相手の心に響かせたらいいかと、そういうことを考えながら指導してます。

 

なんかね、ケガもあって、その稼動した年数は短いし、最後は頑張れたいうのはあって、自分の中でも限界と思ってたけれども、最近はまたピッチにJリーガー見てると羨ましいですね。当然だけど。

 

現役時代は……もう……幸せですよ。日本代表に入るっていうのは、自分にとって本当に財産だし、苦しい過程を経て、やっぱり今に生きてるし。「ケガがなかったら……」と思うときもあったけど、それも含めて自分の能力だって自分では感じてるんで。そういう意味では、サッカーやっててよかったと思うし、幸せなサッカー人生だったなって……。そう思います。

 

 

 

 

寺田周平 プロフィール

f:id:g-gourmedia:20170119113949j:plain東海大学を卒業後、1年間の浪人期間を経て1999年に川崎フロンターレに入団。

2004年からシーズンを通してレギュラーに定着し、2008年には日本代表に先取される。2008年から2009年にかけて5試合に出場。2010年に現役を引退。現在は川崎フロンターレの下部組織で指導者を務めている。

神奈川県出身、1975年生まれ。

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

f:id:g-gourmedia:20150729190216j:plain

佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/

                             
ページ上部へ戻る