FC東京に骨を埋めるつもりだったけど…茂庭照幸を変えた傷心の戦力外通告

今回は日本代表としてW杯出場経験を持ち、現在はセレッソ大阪に所属する茂庭照幸選手にお話をうかがいました。ユース時代にJリーグデビューし、五輪代表、日本代表と着実にステップアップしたキャリアの裏にあったエピソードや、セレッソ大阪に移籍後、大阪人になりつつある現在の心境を茂庭選手らしい言葉で語っていただいています。転機となったFC東京からの戦力外通告についても、みっちり語ってくれました。 (心斎橋のグルメランチ

FC東京に骨を埋めるつもりだったけど…茂庭照幸を変えた傷心の戦力外通告

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茂庭照幸はギラギラとした目でインタビュールームに現れた。

10年ほど前、ワールドカップの前に話を聞いたときには、こんなに尖ってはいなかった。

まるで年齢が若くなったようだった。

激しい昇格争いをしている最中だからかもしれない。

もともとの「ヤンチャ」な部分もあるだろう。

だが、それ以上にこの10年の経験が、茂庭の感覚を研ぎ澄まさせたのではないだろうか。

湘南ベルマーレ、FC東京、セレッソ大阪、タイのバンコクグラスFC、再びセレッソ大阪

これだけのプロ生活を重ねてなお、茂庭は野性味を帯びている。

 

どうやら日本代表での辛い体験が茂庭を変えたのではなさそうだった。

むしろ青いユニフォームを着るときの茂庭は幸運に恵まれ続けたと言えるだろう。

2003年、日本代表で初出場した際は手島和希の負傷による追加招集だった。

2005年、コンフェデレーションズカップには負傷した中澤佑二の代わりとして追加招集される。

2006年、ドイツワールドカップは直前の田中誠のけがで休暇中のハワイから追加招集された。

辛かったかもしれない出来事ならば、2006年ドイツワールドカップの初戦、オーストラリア戦で後半11分に途中出場し、アディショナルタイムに入るときに交代させられたことか。そしてその後は出場する機会がなく、大会を後にしたことだろうか。

話を聞くと、案の定、茂庭の苦しみは日本代表から生まれたのではなかった。

驚いたことに、日本代表のことや、フル出場した2004年のアテネ五輪も振り返っていないという。

 

FC東京で自分の価値が「ゼロ」だと言い渡されたあと

どんな苦しい道を辿って今にたどり着いたのか。

セレッソで何を見つけたのか。

そして今の原動力は何なのか。

 

10年前と少しも変わらないこともあった。

それは、嫌がらず質問に素直に答えてくれること。

そしてちょっと変わっていること。

茂庭はサッカーのことを語るときは「オレ」

私生活を語るときは「僕」という単語を使っていた。

普通は逆なのだが、茂庭が口にするとなぜか馴染む。

 

この性格があったからこそ、荒々しくともたくさんのファンに愛されてきたのだろう。

緊迫感の中にどことなくユーモラスな雰囲気が漂う。

そんな不思議なインタビューだった。

 

とにかく先輩が怖かったベルマーレ時代

オレのここまでのサッカー人生の中で一番苦しかったのは……FC東京から戦力外になった2009年のときかなぁ……。あのとき以外は何かあったときでも自信があったし体も動いたし、サッカーやってるから大丈夫でしょうって、そう思ってました。だからあのとき以外、苦しいとは感じなかったです。ピッチ外の行動が取りざたされても、別にサッカー選手なんだからピッチの中には関係ないでしょ、ぐらいのそういう思いだったかな。

 

2009年は、10月の試合で相手選手のヒジが顔面に入って眼窩底を骨折して、それでシーズンが終わったときに戦力外を通告されて。でもその経緯はどうあれ、あのころは試合に全然絡めてなくて、久々に出られた試合でケガをした。ゲームに出続けた結果、ケガをして戦力外になったんだったら「よし、まだここから」と思えたんでしょうけど。試合に出ていないからには戦力外も仕方がないというのもありました。だから苦しかったですね。

 

ただ、オレは湘南からFC東京に来たときも、湘南からはあまり評価されてなかったんじゃないかと思ってました。当時の湘南にはCBにコロンビア人のパラシオスをはじめとして5人選手がいて、競争が激しかった。その中では評価が高くなかったんじゃないかなって。

 

確かにユースのときからトップチームに登録してもらって、試合にも出してもらってました。使ってくださった古前田充監督や植木繁晴監督には感謝してます。それに1999年にクラブがJ2に降格する感じになって、若手に切り替えていくということで、メンバーがすごく若くなっていた。そういうのもあって、試合に出てたかなと。

 

でも試合に出ていたので、その流れで年代別の代表チームにも呼んでもらえてた。そうすると、クラブの経済状況が厳しかったから、若くて安い選手は出さざるを得ないという状況だったんじゃないかなと思います。

 

そういうのも、運というか、巡り合わせですね。そういうのをオレは味方に付けてた。オレがいいからJ1に移籍するという感じじゃなかったと思います。オレ、まだ自分にも自信はそんなになかったから。同世代の中ではオレはトップだと思ってましたけど、試合をやってたら相手とは全然違うと思ってたし。ただ「やってやる」というギラギラしているものは持ってたなって。

 

まぁ持ってたけど、上下関係にはかなり気を遣っていました。その当時、ベルマーレは上がめちゃくちゃ怖かったんですよ。今のサッカー界とはまったく別。オレと同世代のヤツしかわからないでしょうけど、ホント怖かった。

 

毎日練習ピリピリしてたし。指示も、一言一言考えなきゃいけない。「お前が行け」って上の人に言えない。「行ってください」でもなくて。誰に呼びかけてるかわからないように「行こう、行こう、今の」って。そうやってちょっと砕かないと、先輩から「なんだお前、今のオレに言ったのか」って。そういうのがあったんです。Jリーグ創世記に一番輝いていた人たちがいましたから。オレ、ハーフタイムに味方選手にぶん殴られそうになりましたから。それに対して監督も口に出せないんです。いやぁ、きつかったですよ。怖いなぁって(笑)。

 

FC東京に移ってからも運がよかったですね。ホント、タイミングと巡り合わせです。あのときの監督が原博実さんじゃなかったらどうだったかわからないし、強化育成部長の鈴木徳彦さんも評価してくれたし。最初は期限付移籍だったけど、1年で完全移籍になった。FC東京に来てからは評価されて、サポーターからもコールしてもらって。

 

ワールドカップも合宿を抜け出した事件も「運が良かった」

まだ現役ですから、過去は振り返らないですね。ワールドカップに出てるし、2004年のアテネ五輪にも出てるけど、それは引退した後に効いてくる要素だとオレは今思ってて。現役でやってる以上、毎日が競争だからキャリアは役に立たない。引退したら元代表という肩書きは違ってくるんでしょうけどね。今はやれるだけやりたい。引き際は自分で決めたいと思ってるけど、走れなくなるまでやりてぇと思ってるから。

 

それに五輪は全然何も出来ずに帰ってきたし。フル出場したけど、世界との差を痛感しただけで。日本代表では決して主力じゃなかったし、いつも追加招集で呼ばれる立場だった。

 

ワールドカップも、田中誠さんがケガをして追加招集だったし。ハワイから呼び戻されて帰国したときに知り合いの店のTシャツを着てたので、あとで同じTシャツが売り切れたと聞きました(笑)。

 

ただね、運はいいんですよ。何度も追加招集されてましたからね。誰かしらいつもケガをして。選ばれるために実力は必要だけど、同じ実力でも呼ばれる人と呼ばれない人がいるわけだから。どういうチームでどういうパフォーマンスをしていて、それが代表のやり方とリンクしているのかというのも大事だけど、それは選手が決められることでもない。そういうのも運ですから。

 

五輪代表でも日本代表でもいろいろありました。2004年、日本代表の合宿を抜け出したことがあった。それがバレたとき、正直、当時のオレは失う物が無いと思ってました。悪いことだけど、それで名前を覚えてもらえたから、あとはピッチの上でやるだけ。「やればできる」っていう自信もあったし。今だったらやらない。今は失うものが多すぎる(笑)。あの当時はおおらかでもありました。

 

あのとき、オレ22歳ですよ。日本代表から五輪の最終予選のUAEに1人だけ行ったんです。到着してちょっとしたら、日本で大変なことになってるって言われた。新聞見たらオレの顔写真も小さく載ってて。すぐオレ坊主にしたんです。UAEで。そうしたら山本昌邦監督がチームに「みんな、茂庭の気持ちはわかったな。日本で騒がれているけど、ここではなしだ」って。

 

今だから言えますけど、オレは逆にチャンスだと思っていたんです。UAEに来てるのだから、試合に出ないってことはないだろうって思ってた。だったら「よし、やってやる」って。「ごめんなさい、申し訳ない」という気持ちもあったけど、ここで勝って名前を上げてやるという気持ちで戦ってました。まぁ、あの当時は、まだどう対処するかなんてチームもカッチリしてなかったですからね。

 

ワールドカップでは、初戦のオーストラリア戦で後半11分に途中出場し、後半アディショナルタイムに途中交代しました。最初は坪井慶介さんがつったんですよ。それで3バックのままにするか、4バックに変えるかという選択の中で、3バックを継続したからオレが出ることになった。ところが逆転されて4バックにすることになって、宮本恒靖さんと中澤佑二さんがCBを組むから、オレが代わったんです。人からは辛かったんじゃないかと言われたけど、でもショックじゃなかった。そのときは勝つための選択だから、オレがどうこう言う立場じゃない。戦術的な交代だったし、チームが勝つために自分の役割をやるだけだから。

 

それに大会が終わって振り返ると、オレみたいな形で試合に出たのは日本のワールドカップ史上初めてだろうと思ったぐらいですよ。日本代表のワールドカップの試合の中で、1試合でイン・アウト経験したのはオレだけじゃないかって。

 

引退した後は、日本でワールドカップへの出場を最後に決めて、交代出場の気持ちも、途中交代の気持ちも、しかも1試合でわかるって貴重な経験になるかもしれませんね。試合の中で一番最初に交代して、一番最後に交代する。なかなかないでしょう。でも、そういうのをゆっくり考えるのは引退した後です。

 

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戦力外通告がキツかった…「直接言ってくださいよ」

2009年、だんだんFC東京で試合に出られなくなってきて、そこから評価されない日が来て……。戦力外って言われたときは辛かったですね。サッカー人生と言うより、自分の人生の中で一番きつかったです。骨を埋めるつもりでしたからね……。

 

それも、戦力外を代理人から伝えられたんですよ。クラブから直接じゃなく。それがショックでした。代理人とも1年か2年しか契約してなくて、チームには10年いて、でもそんな大事なことを代理人から教えられたから、クラブには「直接言ってくださいよ」って思ってました。

 

戦力外を通告されても、クラブに「ふざけんなよ」とはならないし、人と人とのつながりだから「何かあったら力になれるように頑張っていきます」って答えたかったですね。代理人から電話で言われたときは、ちょっと「えっ」って感じでしたから。そういうのもあってキツかったなって。

 

そんなとき、セレッソに声をかけてもらった。でも、その時もセレッソの獲得リストで僕は一番手じゃなかったんですよ。上に他の選手がいたけど、その選手がセレッソ以外のチームに行っちゃったんで、オレの獲得順位が上がって、取ってもらえたんです。2人獲得する予定の中で、オレはたぶん3番手だった。もしその選手がセレッソに来てたら、セレッソのオレは誕生してなかったでしょうね。

 

セレッソに来た最初の年は、「チームのことは一つも考えない」と思ってました。誤解を怖れずに言うと、チームが勝つか負けるかより、オレが試合に出て活躍できるかどうかの方が大切だという気持ちだった。ハングリーというか、周りのことを考える余裕がなかった。

 

戦力外を通告されたということは、評価は「ゼロ」なんですよ。そこからもう一回這い上がらなきゃいけない。だったら、まずはこのチームで試合に出なきゃいけない。たとえば、「モニさん、年齢が上なんだから引っ張ってください」って言われても「そんなんじゃねぇよ」って。「オレは悪いけど、お前のこと削ってでも試合に出るぜ」って最初に大阪に乗り込んできたときは、そんな気持ちでした。

 

東京から引っ越してくるときは「オレは何してでも試合に出てやる」ということしかなかったですね。それぐらいの気持ちがないと、この世界で生き残っていけないって思ってました。それくらい飢えてるというか、やらなきゃいけないぞ、って。

 

でも、それが割と早いタイミングで監督の信頼を得ることができた。キャンプのときかな。自分で思ってたよりも割とスムーズにチームに馴染めたので、そこからですかね、落ち着けたのは。練習が始まってから削るなんてことはなかったし、思い直すまでの時間は短かった。

 

結局、「チームよりも自分」じゃなかったんですよ。みんなでやらなきゃいけない。みんなで一つの目標を達成しないと意味がない。それを理解した上で、自分の今の立場があります。割と早めに「よりチームをよくしよう」と思えました。そしてセレッソに来てから今まで自分がやって来たことは間違いじゃなかったって思えたんです。

 

たこ焼きにもこだわり「オレもいよいよ大阪人になった」

関東から関西に引っ越して、味付けが違うんじゃないかと言われましたけど、関西風の味って僕は好きです。東京には「東京の味」ってなかなかないから。東京はいろんなところの味が集まってきているので。

 

「オレもいよいよ大阪人になった」と感じることがあるんです。つい最近、ホットプレートを買ったんですよ。たこ焼きが作れるヤツ。大阪だと一家に一台ある。自分もいよいよ家でたこ焼き焼くのかって思いましたね。で、最近、家でよくたこ焼きを作ってます。

 

別に「東京から来ました」とは思ってないけど、それでも関西弁を話すわけでもないから、自分のことは東京生まれ、神奈川育ちの人間というイメージだったんですけどね。子供も関西弁話し始めたし、いよいよ大阪人かって思うときがあります。

 

この家で作るたこ焼きがおいしいんですよ。いろんな具材を入れるから。僕のこだわりの具は山芋ですね。トロロ。あれを入れるとフワッと焼けるんです。焼き方もちゃんと大阪風で、一回でひっくり返すんじゃなくて、途中に立てる状態をつくってます。最初一回で半分焼けたらひっくり返せばいいと思ってたんですけど、違うんですよ。

 

大阪にはおいしいものがたくさんあるけど、今は「家飯」が一番好きかな。奥さんが作ってくれる。でも僕も一緒に餃子包んで焼いたりもします。餃子のタネにもいろんなもの入れて。韓国料理をよく作るので、チャプチェとか入れるんです。あとはキムチチーズ入れたりとか、しそを入れてみたり。あとは、あまった餃子の皮に鶏肉としそと梅干しを包んで油なしで焼いて、それを酒のつまみにするんですけど、これがいいんです。おいしいんですよ。

 

「引退して自分のキャリアを振り返るなんて、まだまだ先ですよ」

移籍して2年目にキャプテンになったんですけど、そのときオレは31歳でした。オレの上には、2歳年上の播戸竜二さんしかいなくて、割と若い選手が多かった。だからしょうがないかって。

 

セレッソのキャプテンって割と独特なんですよ。担ぎ上げられちゃうんです。何かあったら、報道は「キャプテンに行け」、みたいな。他のチームのキャプテンは、ゲームキャプテンみたいなものなのですけど、ここでは何かあったらキャプテンが前に出て行く。そのときに、若い選手はまだきついだろうって。でもすぐ譲りました。オレは若いやつがキャプテンマーク撒いたほうがいいと思うって話をして。

 

その後、2014年には一度タイのバンコクグラスFCに行ったけど、当時強化部長の大熊清さんと話をして戻らせてもらうことになりました。オレがセレッソに必要かどうかはわからなかったけど、大熊さんは枠をオレのために開けてくれた。だから大熊さんのためにも、セレッソのためにも帰ってこようって。もう年俸はどうでもいい。そして「試合に出さえすればやってやります」って言いましたね。

 

その大熊さんが今は監督としてやってる。だからオレは大熊監督を男にしたいという気持ちは他の選手に比べて大きいんです。引退して自分のキャリアを振り返るなんて、まだまだ先ですよ。

(このインタビューはシーズン終了前に行いました)

 

 

 

茂庭照幸 プロフィール

f:id:g-gourmedia:20161228190047j:plain1999年、ベルマーレ平塚(当時)のユース所属時代にトップチームの試合に出場。Jリーグデビューを果たす。

2002年からはFC東京に所属し2003年には日本代表に。2004年アテネ五輪、2006年ドイツW杯に出場。2010年からはセレッソ大阪、2014年にタイ・バンコクグラスFCに移籍後、再びセレッソ大阪に所属する。

神奈川県出身、1981年生まれ。

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/

                             
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