楢崎正剛が語る横浜フリューゲルスの記憶「僕らは結局は無力だった」

Jリーグには、かつて横浜フリューゲルスというチームが存在していました。しかし、1998年に突如、横浜マリノスとの吸収合併が決定し、フリューゲルスはその年の天皇杯に優勝するも、チームはなくなってしまう。そんな伝説のフリューゲルス生き証人として、現在、Jリーグ全選手で唯一前所属チームに「横浜フリューゲルス」の名前を残す名古屋グランパスの楢崎正剛選手に話を伺いました。 (横浜駅のグルメランチ

楢崎正剛が語る横浜フリューゲルスの記憶「僕らは結局は無力だった」

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もう知らない人も増えたことだろう。昔、Jリーグにはもう1つクラブがあった。

 

1998年、日本のワールドカップ初出場の影でJリーグ誕生から続いていた「バブル」は急速に終わりを迎えた。「オリジナル10」と呼ばれるJリーグ創設時のメンバーで、横浜と九州全域をホームタウンとした横浜フリューゲルスが活動を終了することになったのだ。

 

フリューゲルスは横浜マリノスが吸収合併し、「横浜F・マリノス」が誕生する。だがダービーで争ってきた2チームの合併に発表当時は大規模なフリューゲルス存続運動が起きた。クラブ関係者はスポンサー探しにやっきになったが、一向に救世主は現れない。そんな中、選手たちは街頭で署名活動を行い、試合終了後には「フリューゲルスを助けて!」と書いた横断幕を持って場内を歩いたりした。

 

状況に進展が見られないまま、リーグ戦は終りを告げる。残っているのは天皇杯だけ。ノックアウト方式のため、負けるとフリューゲルスはそこで活動を終えてしまう。スポンサー探しのためには、少しでも長く大会に居続けて時間を稼がなければならないし、勝ち上がることで価値を見せなければいけない。

 

そのプレッシャーの中でチームは勝ち進み、ついには元旦に優勝を果たした。

 

その間、ゴールを守っていたのは楢崎正剛。今、Jリーグの中で「フリューゲルス」の名前を探したとき、「前所属チーム」として掲載されているただ一人の選手だ。ある選手は何度か移籍し、フリューゲルスの名前は載らなくなった。そしてほとんどの選手は現役を引退している。

 

楢崎に歴史の証人として、今はなきチームのことを聞いた。

 

さらに楢崎の伝説とも言える試合――オーバーエイジとして参加した2000年シドニーオリンピック、決勝トーナメント1回戦のアメリカ戦で頭部を骨折しながらPK戦まで戦ったゲームや、日本代表のライバルたち、日本代表への思い、後輩たちへのメッセージについても語ってもらった。

 

フリューゲルス時代に食べたバーグカツと家系ラーメンの思い出

フリューゲルス時代に通ってたのは、練習場があった東戸塚の近くの店でしたね。すっごく行ってたのに、店の名前が出てこないな……。「バーグカツ」があった店。ハンバーグをカツにしているんです。練習が終わった後、チームメイトと行くんですけど、店の名前より、「バーグカツ行く?」みたいな感じで呼んでました。そこでガッツリ食べる。

 

それから横浜ってラーメンじゃないですか。だからラーメンよく食べてました。家系ラーメンとか。油多いですよ。そういうのが好きだったんです。何人かと一緒に行ってました。まぁ、プロのサッカー選手としてはあんまりいい食べ物じゃなかったのかもしれませんね。けれど若かったし、お腹いっぱい食べられるとこがよかったから。

 

フリューゲルスのときの一番の思い出は……結構……いろいろ覚えてます。もうすっかり在籍は名古屋のほうが長いんですけどね。フリューゲルスは初めてプロとして入ったチームだし、デビューしたのもそこだし、タイトルも天皇杯取ったとか、そういう合併の話があったとか、いろんなことがあった。全部新鮮で、自分の経験してきたことの一番の基本みたいなことが全部詰まってるんで。だから思い出深いんでしょうね。

 

ぱっと思い出すのは、まぁデビュー戦……デビュー戦もそうだけど、フリューゲルスのことは、寮に入る前のことから憶えてますよ。吉田孝行と波戸康広と一緒に横浜に出てきたときの新幹線の中のことも覚えてますからね。アイツら仲悪かったから俺が真ん中に座って(笑)。

 

アイツらね、すごくお互いを意識し合ってって、あんまり関係は良くなかったんです。それが行き過ぎて、なんかこうケンカみたいになったようなこともあったくらいで。でも、時が経つにつれて2人が仲良くなって、それが笑い話になってます。

 

試合は横浜国際総合競技場日産スタジアム)のこけら落としや横浜ダービー(98年1stステージ第1節2○1)を憶えています。デビューして3年目ですね。1年目の出場しだしたころは何試合か勝ったんですけど、その後は結構やられた印象ばっかり。そのときのチームがあんまり安定してなかったからやられたイメージがあります。

 

2年目からはチームも落ち着いて。マザロッピコーチ(1996年~1998年)という、僕にとってはラッキーな出会いもありました。2年目も優勝争いして(3位)、3年目もそうだった(1stステージ2位)。ファーストステージは最終戦までもつれて、鹿島よりこちらが先に試合が終わっていたので、みんなでテレビを見ながら鹿島の相手チームを応援していました。4年目はケガもしていましたが、リーグ戦にフル試合出場しましたね。

 

そんなチームがなくなったんですよね。優勝争いしているチームが急になくなる。今のチームに当てはめてもらうと、どんなことかわかってもらえると思います。若い選手も多かったし、これからに期待が持てたし、横浜は大きな街だし。

 

ある選手が「明日何か新聞に出るかもしれない」と言っていた

1998年のチームが合併するという話が明らかになった当時のことは、まぁ……いや……かなり時が経ったので、細かいことはどうだったか……。けど、覚えてますよ。

 

フリューゲルスが消滅することについて、当日まで何も知らなかったんですよ。日本代表の試合で大阪まで行ってたので(フィリップ・トルシエ監督の初戦、1998年10月28日エジプト戦)。試合が終わって、大阪に泊まって帰る朝、電話をもらいました。そう言えば、試合の日にある選手が「明日何か新聞に出るかもしれない」と聞いたと言っていました。けれども、ほとんどの選手は何も知らないままでしたね。

 

Jリーグのクラブでしたし、初めてのワールドカップ出場で盛り上がった年でしたから、まさかそんなことが起きるわけないと思っていました。もし経営が厳しいなら、いろいろ節約するようになってきたりとか、そういう情報があったならなんとなくわかったかもしれない思うんですけど、まったくそんな雰囲気がない中に、急にそういう話になった。

 

Jリーグが始まった直後のサッカーバブルのころとは違ったかもしれないし、そのころから比べると規模的に節約、経費削減なんていう話はあったかもしれないですけど、そこまでじゃなかったので、驚きでした。

 

天皇杯は、リーグ戦での出場機会が少ない、アピールできなかった選手で臨もうという話がありました。主力の選手は他のチームからのオファーがあるんじゃないかと思われてたんで、最初はそんな話にもなりましたね。けれど結局は、いつもどおり全力で勝ちに行くというスタンスになりました。

 

まだ決定が覆るんじゃないかというのを期待していたんです。だから試合でアピールしていくという形のほうが、いいんじゃないかっていうことで、これまでどおりの選手起用になりました。他にもいろんな活動をしながらアピールしましたよ。横浜駅で署名活動しましたね。許可取ってないからって追い出されたりしましたけど。

 

……こんないいチームがなくなっていいのかと思ってもらって、世の中が後押ししてくれるんじゃないかというのを期待してやってました。けれど正直に言うと、決定事項というか、方針が決定してから僕たちには知らされたので、それが覆るというのはなかなか難しいかも、という気持ちはありました。でも諦めたくはなかった。

 

ノックアウト方式の天皇杯は負けた時点で次の試合がなくなり、そうするとチーム終了でした。だから毎試合、周りからは「この試合で終わりじゃないか」と見られて、マスコミの人も多かった。普通じゃないような雰囲気でずっと戦って、今思えば相手もやりにくかったと思うんですけどね。でもまぁ、うまくまとまってよく勝っていったなと思います。

 

決勝は清水戦。前半は清水のペースでした。準決勝の鹿島戦で、サツ(薩川了洋)さんが退場して、出られなくなっちゃったんで、そういうのも影響したと思います。一番フリューゲルスに対して熱い気持ちを持っていたのがサツさんだったんで、やるせないというか、かわいそうというか……一番ピッチに立たなきゃいけないような選手だったのに。そういう面もみんなに影響したんじゃないかと思いますね。

 

先制されたけど、よく逆転勝ちしたと思います。不思議ですよね、ああいう精神状態で試合をやるというのはなかなか……ないと思うし、実際今までなかったし。ないですよ。普通ない。ああいう、追い込まれてギリギリでという、1つになってという気持ち……。

 

そういう心構えは大事だと思いますし、常にそこまで自分を奮い立たせて、追い込まれるようなことがなくても、自分で自分のケツ叩いてやっていかなきゃといつも思ってるんですけど……。ちょっと特別なシチュエーションだったし、周りの雰囲気も違ったし。同じようにやるというのは、ほぼ不可能です。

 

サポーターも一生懸命やってくれたし。今も感謝しかないです。

 

「フリューゲルス」の名前が残っていることが僕はうれしい

天皇杯決勝戦の後は……うーん……やり切ったんだけど……結局は無力だったという感覚でしかないですね。なんかもう、そこまで我慢して、関係者は待ってたんじゃないかと思うくらい。1月1日が終わればチームとしての活動はないし、僕らがそうやってギャーギャー言ってるのもそこまでだろう、そんな雰囲気もすごい感じてました。

 

「有終の美」で終わったみたいな、ただそれだけになっちゃって。もちろん戦った仲間の中ではよかったと思えたし、スタッフとみんなで喜びあえたから、それはそれでよかったんですけど。でも、それが終わるとチームメイトはバラバラになっちゃいますからね。

 

僕らが望んでたのはそういう終わりじゃない。これは、ただ美談で済まされた、そういう結末です。決定を覆すために頑張ってたのだけど、そうはならなかった。「優勝して良かったね」だけで。そうなっちゃったから……だから一番の思いは「残念」というか……そんな感じです。「美しい思い出」じゃなくて、「悔しい思い出」なんですよ。

 

今では前所属チームのところにフリューゲルスって書いてあるのは僕1人になっちゃいました。「名前を守ってる」というわけじゃないんですけどね。たまたまです。そんなに長くいるっていうイメージはなかったんですよ、名古屋に。むしろやっぱり海外に出て行くような、そんな移籍をやっぱり夢見てました。周りに中田英寿とか何人かヨーロッパに出て行って、そういう道も意識してたときもあったんで。そんなにこう、名古屋にいるというイメージはなかったんですけど。

 

でも名古屋がいいところだから、ここに長くいられたということですよ。長くここにいることになって、そういえば「前所属」に「フリューゲルス」って書いてあるなって気付いたんです。初めて「フリューゲルス」って書いてある選手はどれくらいいるんだろうと意識したときは、まだ何人かいたんですけど、それが何年か経っていくといなくなっていった。そして僕だけになったりときに、これは大事なんじゃないかなって。「フリューゲルス」を忘れてもらいたくないという意味では、これは意味のあることなんじゃないかと考えるようになりました。

 

だからといって、守ってるわけじゃないんですよ。たまたまでしょう? でも、たまたまだったとしても、そうやって「フリューゲルス」の名前が残っていることが僕はうれしい。

 

今でもフリューゲルス時代に通った店の「バーグカツ」の味は思い出すんですよ。結構行ってましたからね。今も店があるかどうかわかんないですけど、今行って全部食べられるかどうかなぁ……まぁでも、昔どおり普通に食べられると思います。

 

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2人のライバル、能活と永嗣 集大成になるはずだった2010年

代表での僕の話もいろいろ「いい話」になってるんですけど、いやいや、ちょっと違うぞって。特にシドニーオリンピックのアメリカ戦で頭部を骨折しながら守ったって言われてますけどね。

 

鼻を打ったから鼻血が止まらなかったけど、そんな大したもんじゃないと思ってやってたんです。それで鼻にガーゼを詰めてプレーしてた。けれど見栄え悪いと早めに詰め物を取っちゃったんですよ。そうすると鼻血が止まってなかった。黒いユニフォームだったらまだ良かったでしょうね。でも黄色だったんでちょっと目立っちゃいました。今だったら、血が止まるまでプレーできないですよね。当時はなんか。まだそういう厳しくなかったんで。まぁ終わってからすごい腫れてきたし、「痛いなぁ」と「折れたかもしれん」と思ったんです。で、結局鼻の横と額と2カ所折れてました。

 

ただ、それもそんなにいい話にしてもらっても困るんですけど。負傷したときはボンバー(中澤佑二)とぶつかってますしね。連携うまくいってないと批判されるだろうことだと思うし(笑)。

 

僕は「自分を高めて自分のことだけに集中する」タイプのプレーヤーだと自分では思います。だからあまり人のことは気にしません。でも、日本代表のライバルだった(川口)能活、(川島)永嗣について思うのは、うまく使わせてもらえたなということですね。

 

ライバルというか、自分が気を抜かずに自分を高めていくためには、そういう選手と張り合うというのが刺激ですよ。いい刺激になってました。彼らがいなかったら多分、油断するんですよ……してしまいます。

 

能活も永嗣も、1つだけのポジションを争ってるライバルとして、試合に出るためには彼らを超えてなきゃいけない。だからすごいプレッシャーを感じるというか、能活の場合は先に進んでいってた先輩だったから、そこを超えれば自分が出られるという感覚があったし、永嗣は年下だったから、僕のいるところに来たみたいな感じでした。

 

選手は自分のほうが「優れている」と思ってやるべきだとは思うんですけど、でもまずはやらなければいけないことを、自分がやれているかどうかですよ。そうでない限り偉そうなことは言えないし。ピッチに立つ資格はない。

 

2010年南アフリカワールドカップの前に正GKから代えられたのは、実際その当時はチームがうまくいってなかったし、その中で何かを変えようとするのは普通のことだと思います。そこで代えられる立場に自分がなってしまったというのは、自分の力不足だとは思うけど、それはしょうがないでしょう。

 

そりゃ悔しいですよ。本当に集大成だから頑張ろうと思っていたんで。それはもうがっかりもしたし。でも……その思いがあるから今もまだ続けていると思うんですけどね。いろんな変な思いだけを持って現役を終わりたくないとも思ってますし。

 

2010年9月7日のグアテマラ戦にフル出場した後、日本代表を引退したのは……お腹いっぱいだったんです。ちょっとね……それまでと違う、代表のないサイクルで1年を過ごす刺激がほしかった。もうずっとおんなじサイクルでやって来て、試合もこなし、代表の合宿も入り、オフも少なくなる中、最後もああいう感じだったし、何となくメンタル的に、ちょっとなんか疲れたじゃないですけど……こう……新鮮さがほしいというのがあったんで。じゃないと、なんかもう長くできないだろうと思ってました。

 

もう日本代表に入りたいという気持ちはないです。まぁ、本当に誰もいない、怪我人が続いてるというのなら考えなくはないと思ってはいたんですけど、もう大丈夫でしょう。いるでしょう。若くて元気なヤツが。

 

今の選手たちは、オレたちがやってたころよりも技術もあるだろうし、いろんな情報もあるし、練習も出来てるし、環境もいいんで、そういうのを活かして活躍してほしいですね。もう川口、楢崎という残像を消し去るくらいの活躍をしてもらわないと。GKが主役になるくらいの、日本代表のGKになってほしいと思います。

 

後日談【※追記7月30日】

記事が公開された後、読者の方から楢崎選手の言う「バーグカツ」 の店は、東戸塚の「ウエスタン・グリル」 ではないかと知らせていただいた。調べてみると、 ハンバーグの店で確かに「バーグカツレツ」もありそうだ。

 

そこで楢崎選手に店名が合っているかどうか、確認してみた。 すると、 楢崎選手にも記事を読んだ横浜フリューゲルス時代のスタッフから コンタクトがあり、「ウエスタン・グリル」 だと教えてくれたのだという。

 

その場には波戸康広氏もいた。波戸氏に、 吉田孝行氏と仲が悪かったというエピソードをインタビューして書いたという話をしたところ、波戸氏は笑いながら「 そんな話をして」と楢崎選手に迫り、「 それが今では親友ですからね」 と語りながら当時を懐かしがっていた。

 

バラバラになっても、いつまでもチーム。 それが横浜フリューゲルスなのだろう。

 

r.gnavi.co.jp

 

 

楢崎正剛 プロフィール

f:id:g-gourmedia:20160728114502j:plain奈良育英高校を経て1995年にゴールキーパーとして横浜フリューゲルスに入団。1996年、日本代表に初選出。

2002年にはトルシエ監督が指揮するW杯日韓大会で4試合全てに出場。

Jリーグでは、1999年に横浜フリューゲルスから名古屋グランパスに移籍し、現在もスタメンで活躍し続けている。

1976年生まれ、奈良県出身。

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/

                             
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