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都並敏史が語るドーハの悲劇の敗因とは? 「あの日々はすっかり遠くなった」

Jリーグが始まった1993年、サッカー日本代表はカタールのドーハでW杯まであと一歩のところまで迫るも、ロスタイムの失点で夢破れました。いわゆる「ドーハの悲劇」です。今回は、そのドーハの悲劇をチームの内側から見つめた都並敏史さんに、ドーハの悲劇の敗因を語っていただきました。(表参道・青山のグルメランチ

都並敏史が語るドーハの悲劇の敗因とは? 「あの日々はすっかり遠くなった」

1993年、W杯出場まであと一歩のところまで迫るも、ロスタイムの失点に泣いた「ドーハの悲劇」。当事者としてチームの内側から悲劇を見つめた都並敏史さんに、これまで語られなかった敗因を伺いました。

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なぜオフト・ジャパンは1994年アメリカ・ワールドカップに行けなかったのだろう。僕は原因がわかっていました。

 

1993年、ワールドカップ初出場という悲願まで後一歩というところまで来ていました。アジア最終予選は今のようなホーム&アウェイではなく、カタール・ドーハでのセントラル開催。10月15日から10月28日までの14日間に5試合を、猛暑の中東で戦うということで、コンディショニングが大切になりました。素早く回復するには、きちんとした食事をすることが重要です。

 

最終予選にシェフは同行してくれますが、食事を作ってくれるのは試合当日だけ。あとはホテルのレストランで用意されているバイキングの中から、必要な栄養素を取り入れなければいけません。補助食品やサプリメントもありましたが、今ほどは種類もありませんでした。

 

プロ化で急速に進化したサッカー選手の食事

その前年、日本のサッカーがプロ化し、選手たちは食事の質を変えていたところでした。きっかけはカズこと三浦知良でしたね。食事でもストイックに自分をコントロールしようとする姿はみんなに影響を与えていました。それまでは好きなものを食べていたのが、プロ化した1992年からはそれぞれがしっかりと栄養素を考え、試行錯誤しながら自分たちの体に合った食事を身につけていました。実は、ハンス・オフト監督が就任した最初のころは、監督が食事にも口を出していました。ですがそれにはラモスさんたちが反発し、監督も次第に選手が自分で工夫しているのを認めていったという経緯もありました。

 

それでも慣れない土地で、いつも同じようなメニュー。食事は楽しみというより、試合をするための準備という考えでしたね。オフト監督の方針で、食事は「いただきます」から「ごちそうさま」まで団体行動でしたから、余計にそうだったかもしれません。だからそのときの食事の思い出というのはなかったですね。日本代表は長い合宿をするとき、今でも一度だけ選手主体の楽しい食事会をするそうです。ですが、そのときはありませんでした。

 

それなのに、みんなの食事の様子を覚えているのは、それぞれの食事に個性があったからです。カズやカズの影響を受けた中山雅史はストイックに食べていました。ラモス瑠偉さんはもともとあまり食べないけれど、しっかり食べていました。私の代わりに左サイドバックに入った勝矢寿延は筋肉ムキムキの選手でしたが、「アイツの筋肉はフルーツでできている」と言われるくらい果物が多かった。

 

海外が苦手で食べられなくなる選手もいました。必要だとわかっていても口に運べない。そんなときは同じホテルの別のフロアにいた韓国の選手からキムチをもらってきて、食べていました。僕は韓国人選手たちに「やぁやぁ」と突破口を作って話しかけに行く役割でしたね。

 

オフト監督は僕とだけ握手をしなかった

僕はひたすらカルシウム分を多く摂っていました。最終予選が始まる前に左足首を亀裂骨折していたからです。レントゲンを撮るとサインペンで書いたような骨折箇所があります。とてもプレーできる状態ではありませんでした。それでも最終予選のメンバーに選ばれ、他の選手から「情報戦もあるから招集したのだろう」と言われて、プレーしないつもりで集合場所に行くとオフト監督が待っていました。

 

その場で「ツナミ、ユー・アー・ノーマル」とだけ言われます。普通に振る舞えということだと思い、「それなら出られないと知られてしまう初戦のサウジアラビア戦まで頑張ろう」と決意しました。

 

痛み止めを練習前に7本打ち、足の感覚を麻痺させて走ります。骨折している部分の骨同士がこすれ合ってギシギシいうのがわかりました。練習が終わって麻酔が切れると2時間歯を食いしばって耐えます。一言も話せないくらい酷い痛みでした。やっと話ができるようになると、ちょうどそのころが食事だったので、いつも三浦泰年に肩を貸してもらって食事の会場に行っていました。

 

オフト監督はそういう自分の状態もわかっていて、イラク戦でアップを命じました。ですがイラク戦で引き分けに終わり、ワールドカップ出場の夢が絶たれた後、監督はわざと僕とだけ握手をしませんでした。監督は敗退の原因を僕がプレーできなかったことだと考えたいのだろうかと、僕には思えました。

 

これまで語られなかった「ドーハの悲劇」の敗因

どうして日本がワールドカップに行けなかったのだろう。イラク戦のプレーの問題や、選手たちの消耗が想像以上だったという要因もあるでしょう。選手にとっての栄養学もその後進歩したので、今だったらもっと別の食べ方をして疲労を軽減できていたかもしれません。でも、本当はそれじゃない。僕にはわかっていました。

 

僕がドーハに行ってはいけなかった。ケガ人がサッカーをしてはいけないのです。僕のようなケガ人がチームにいたからなのです。そんなことをしてサッカーの神様が許してくれるはずがない。

 

「ドーハの悲劇」からもう20年以上経ちますが、この後悔が薄れる日はまだ来ません。

 

当時、渋谷区神宮前の「タコス・デル・アミーゴ」という店に選手たち同士でよく出かけていました。タコスを食べてチリコンカーンを頼んでテカテビールを飲んで。楽しかったりつらかったりした思い出が詰まっています。でも、残念ながらもう閉店してしまったということでした。今でもチリコンカーンはよく食べているのですが、あの場所でのあの日はすっかり遠くなってしまったのですね……。

 

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今は別の店になってしまった「タコス・デル・アミーゴ」跡地。

 

都並敏史 プロフィール

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サッカー元日本代表。

読売クラブ下部組織で育ち、1980年から読売クラブ~ヴェルディ川崎に所属。19歳で日本代表に選出。

1998年に現役引退し、引退後はベガルタ仙台、セレッソ大阪などの監督を歴任。現在はブリオベッカ浦安でテクニカルディレクターを務める。

現役時代のポジションは左サイドバック。

東京都出身、1961年生まれ。

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。在学中からサッカー関連の職業を探すが叶わず、一般企業へ就職。だが10年を経てサッカーダイジェスト編集部へ。その後、多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。ワールドカップは1990年イタリア大会、1994年アメリカ大会、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会、2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会と現地へ。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/

                             
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