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前園真聖が振り返るアトランタの夏 僕らは崩壊なんかしていなかった

1996年、アトランタ五輪に出場したU-23サッカー日本代表は、ブラジルに勝利する「マイアミの奇跡」を起こすもナイジェリア戦のハーフタイムにチーム内で衝突。2勝1敗ながら得失点差で破れ予選敗退しました。今回は五輪代表のキャプテンだった前園真聖氏にハーフタイム衝突の真相と当時の仲間たちとの関係について語っていただきました。(表参道・青山のグルメランチ

前園真聖が振り返るアトランタの夏 僕らは崩壊なんかしていなかった

表参道・青山 ランチ グルメレポ

いまから19年前の1996年、アトランタ五輪サッカー日本代表は、ブラジル代表に勝利し「マイアミの奇跡」を成し遂げるも、2戦目のナイジェリア戦のハーフタイムに衝突したと伝えられています。

 

キャプテンとしてチームを牽引した前園真聖氏にナイジェリア戦ハーフタイムの真相と仲間との絆について話を伺いました。

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今年の夏も暑くなりました。一時も忘れたことはないけれど、暑くなる度により強く思い出す日々があります。19年前の1996年、僕はアメリカにいました。アトランタ五輪に出場するためです。そこで僕たちは激しくぶつかり合いましたが、そこに自分たちの誇りもあります。

 

1993年にJリーグがスタートし、選手強化が進んで日本は28年ぶりに五輪本大会出場を果たしていました。そのときのメンバーは今思いだしても個性的な選手が揃っていました。中田英寿、川口能活、松田直樹(故人)、城彰二、服部年宏、伊東輝悦など、その後の日本代表に12人が入っていくなどレベルも高かったと思います。

 

ところが本大会では、王者ブラジル、台頭著しいナイジェリア、曲者のハンガリーと、「死の組」のグループリーグに入りました。特にブラジルは、その後中心選手となって2002年のワールドカップで優勝する、ロナウド、リバウド、ロベルト・カルロスなどに加え、1994年ワールドカップ優勝メンバーのベベットやアウダイールもいました。

 

ナイジェリア戦のハーフタイム 衝突の真相

そのブラジルとの初戦で、僕たちは「マイアミの奇跡」を起こし1-0と勝ちます。強豪撃破にチームは盛り上がりました。次に勝てば、きっと決勝トーナメントに行ける!そう張り切って迎えた第2戦、ナイジェリア戦のハーフタイムに衝突が起きます。

 

僕と城、中田は前半、攻撃の人数が足りないと感じていました。ほとんどこの3人だけで攻めていると思い、もっと後ろから押し上げて欲しいと監督や他の選手に要求したのです。ですが、西野朗監督は日本のサッカーが通じていないと感じていて、もっと我慢して守れと指示を出しました。守備陣は相手の足が速くて余裕がないと、攻撃陣に我慢しろと言っていました。言い合いは決して穏やかなものではありませんでした。

 

結局自分たちの意見が通らずハーフタイムが過ぎて、正直に言えばもやもやした気持ちのままピッチに向かいました。ですが後半開始の笛が鳴ったら不満なんて言ってられません。とにかく勝利のために全員で力を合わせてプレーしました。

 

ただ、残念ながら後半2点を失い、敗れてしまいました。そして第3戦のハンガリー戦で中田が使われなかったり、衝突が外部に知られたことで、チームの中に決定的な溝ができたのではないかという話もありました。けれど、決してそんなことはありません。それくらいでは壊れない。むしろ、そう思われるのは悲しいことでした。

 

ハーフタイムの衝突こそがアトランタ五輪代表の凄さだった

僕はこのハーフタイムでの話し合いこそ、このチームの一番凄かったところではないかと思っています。日本サッカーが世界大会に出ることがほとんどなかった時代ですが、誰も臆してなかった。ブラジルにだって勝てると思っていたし、ナイジェリアもブラジルに比べたら強くないと感じていた。誰もビビっていませんでした。考え方の違いはあったけれど、それでチームが崩壊はしなかった。いざプレーすることになれば意見の相違を乗り越えて、力を合わせることはできるプロ意識を持っていたのです。

 

本音でみんなでぶつかり合えたことこそ、僕の誇りです。若かったし、青かったから強気でした。僕は若い世代はそれでいいと思います。自分たちに自信を持ってどんどん意見を言い合うことこそ、このチームの特長でしたし、強さの秘密だったと思います。

 

今の若い選手は、はたして強気で意見を言えているのか。Jリーグの試合を見ていても心配になることがあります。若いときから変に謙虚だったり、落ち着いたら伸びるものも伸びない。ぶつかり合ってもいいじゃないですか。

 

僕たちは最後まで力を合わせて戦えたと思います。だからこそハンガリー戦では1-2で迎えた残り2分30秒から逆転できました。もちろん西野監督とはその後もずっと普通の、でも苦難をともにした特別な関係です。誰とも「対立」や「しこり」なんてありません。何より中田も「あのときのチームが一番やりやすかった」と言っているくらいです。

 

何でも言い合えたあのときの仲間 全員で集まることはもうできないけれど……

結局、あのときの日本は2勝1敗ながら得失点差でナイジェリアに敗れグループリーグ3位となり、決勝トーナメントに進出できませんでした。そして準決勝はブラジルvsナイジェリアとなり、延長戦で4-3と逆転勝ちしたナイジェリアが、そのままの勢いでアルゼンチンとの決勝も制して優勝します。

 

2勝しても決勝トーナメントにいけない。実際に戦ってみて、勝ったし、勝つチャンスがあった相手が優勝を争った。なのに自分たちは帰国している。そのことで本当に辛い思いをしました。ですが、世界は決して遠くない。その肌感覚をJリーグに持ち帰ることができたのが、あの大会の一番の収穫でした。

 

そして久しぶりに世界に出た僕たちでも勝てると思ってプレーできた。そのために必要だったのはまず自信を持つこと、それから、どんなことでも言い合える仲間を作ること。それが高いハードルに向かうときには大切なのだと知りました。

 

ハンガリー戦の後、ホテルに帰ってチーム全員で打ち上げをしました。日本に戻って解散して以来、あのときのメンバーで集まったことはありません。まだ実現できていないですが、もう一度集まってブラジル戦のビデオでも見たいものです。

 

集まるなら、ラモス瑠偉さんのブラジル料理の店「レストランテ・カリオカ」がいいですね。みんなでシュラスコを食べながらビデオを見て、西野監督に「若いですね!」と茶々を入れながら楽しく過ごせると思います。松田もきっと空から見ていてくれるでしょう。

 

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サッカー元日本代表のラモス瑠偉氏がプロデュースしたブラジル料理店「Restaurante Carioca」

r.gnavi.co.jp

 

前園真聖 プロフィール

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サッカー元日本代表、アトランタ五輪サッカー日本代表キャプテン。

1992年、横浜フリューゲルスに入団し、ヴェルディ川崎、海外移籍などを経て2005年に現役引退。

鹿児島県出身、1973年生まれ。

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。在学中からサッカー関連の職業を探すが叶わず、一般企業へ就職。だが10年を経てサッカーダイジェスト編集部へ。その後、多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。ワールドカップは1990年イタリア大会、1994年アメリカ大会、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会、2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会と現地へ。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/

                             
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